カフェレストラン
白川は御陵に連れられて、構内のカフェレストランへとやって来ていた。正門から入ってすぐのところにある、一階建ての平たい建物だ。内装に工夫がしてあるのか、入ってみると外から見るよりは広く感じる。構内に面する側は全面ガラス張りで十分に外光を取り入れてつつ、奥まった天井にぶら下がる装飾電灯がトイレのようなオレンジの光を放っている。十数席のテーブルと窓の反対側にカウンター席があった。二人は窓側の一番奥の席に座っていて、今は御陵が注文したコーヒーを待っているところだ。
《それにしても、》白川は頬杖をついたまま視線を右に左に動かす。《周りに女のいない席を選んだな、よほど腹が減っていたと見える。あるいは、ここでも一戦交える気か?》御陵の顔を怪訝そうに見つめる。
「なぁ、ホントに何も食べなくてよかったのか?」彼の視線に気づいた御陵が尋ねた。
「いやいい。最近どうも燃費が良くなったのか、腹が減りにくくてね。」白川はテーブルの上でぽつねんとしている缶コーヒーに目をやった。
「遠慮するなよ、おごってやるからさ。」
「じゃあなおさら嫌だ。」
白川がぶっきらぼうにそう言い捨て、顔を背けて窓の外を見ると、御陵はあきれたように鼻を鳴らした。とそこで、間を持たせるように御陵のコーヒーがやってきた。バイトの女学生がテーブルにソーサーとカップを置く。御陵は顔を斜めに向けて彼女を軽く見上げ、愛想よく微笑んで会釈をした。それは高校時代、「一番ハンサムに見えるのが、この角度と動きなんだよ。」と彼が白川に得意げに語って見せた動作と寸分たがわなかった。白川は少し顔をしかめただけで何も言わず、彼から目をそらして何か思いめぐらす仕草をすると、ポケットから例の実家から送られてきた封筒を取り出した。コーヒーの空き缶を脇にやり、それを自分の手前に、御陵に見せつけるように置き、手のひらでシワを伸ばし始める。それに気づいた御陵が、なんだよそれ?とカップを受け皿へと静かに戻してから言った。
「今朝言ったろ、実家の都合で復学したって。これにその実家の都合とやらが詰まってるんだよ。どうしても確認しておきたいってなら、読ませてやってもいいが。」
「それじゃあ、ちょっと失敬。」御陵は封筒をつまみ上げ、手紙を開いたのだが、「うわっ、ボロボロじゃないか!折り目のとこなんて特に、文字が読めないくらいだよ。」と言ってすぐに机の上に放り出してしまった。
「おい!……丁寧に扱えよ、大事な手紙なんだから。」
「大事な手紙をこんなに風にするやつに言われてもなぁ、説得力に欠けるよ。」
それから御陵は、やれやれ、と言って、机の上の手紙に目を落とした。彼が手紙を読む間、白川は、雲行きを見ているのか、考え事をしているのか、あるいはその両方か、判別のつかない顔で空を眺めていた。窓の外は人通り少なく、カフェの屋根の出っ張りが作った日陰で一休みする人も僅かだ。やがて手紙を読み終えると、御陵は緊張の糸を抜いたかのように脱力してため息をつき、
「これはまた……、その、ずいぶんおっかない手紙だな、そりゃ切羽詰まって恥も外聞もなく復学したくなるよ、ホント。それにしても、よくこんなものを持ち歩けるね、僕ならすぐに捨てるか棚の奥に押し込むかするよ。」と同情的な声で言った。
「満足したならもう返してくれ、汚されでもしたら敵わんからな。」
そう言って机から手紙をすくい上げて慎重に折りたたんでいく白川に、御陵は理不尽に怒られた人のよくやる不満足の視線を向けていた。白川が黙ったままなので、まだ一年半くらいは大学にいるんだろ?と彼は尋ねた。
「……半々ってとこだな。」白川は手を動かしながら気のない返事をした。「何が起こるか分からないもの。いくら俺にその気があっても、ある日うっかり足を滑らせて、川に落っこちて、死んじまうかもしれないぜ?」
そんな縁起でもない……、と御陵は感情が複雑に混ざった声で言う。彼の表情にもいろんな感情が見え隠れしている。白川は封筒をポケットにしまうと、何も気づいていないていで、椅子の背にもたれて再び外を眺めた。それから、こりゃ一雨降るぜ、と呟いた。御陵は外を見て、首をかしげる。二人の間にまた沈黙が下りた、が、御陵がすぐにそれを破った。
「そういえばお前、四限の時間は……まあ空いてるよな。」彼は薄笑いを浮かべる。
《失礼なやつ。まぁ、今に始まったことじゃないが。》「ミーティングにも出てやったし、昼飯にも同席してやった、これ以上何をさせるつもりだ?」
御陵の話はこうだった。半年前の出来事のあと、山科は白川を傷つけてしまったと気に病み、一週間くらい泣き通しで(これは白川にとって予想外で衝撃だった)、その後しばらくは以前通りになったのだが、最近になってまた落ち込み気味になり、御陵に白川の消息を尋ねたり、ぼんやりしたりすることが増えてきたらしい。御陵はやはり半年前のことが原因とにらんでいて、ここはひとつ、二人が楽しそうにしているところを見せて彼女を安心させてやろうというのが、彼の魂胆だった。白川はその話に迷わず乗った。御陵の言い分はともかくとして、先ほどの山科の言動に少し気がかりがあったからである。
しかしながら、わざわざ仲良しこよしを演じなければならないのは不服だった。半年前のことなど全然気にしてないと直接言えばいいのではないか?青年は口をはさんだ。御陵の言うことにはいちいちケチをつけなければ済まない性分なのだ。
「それで済むならこんな話しない。頼むよ、山科のために一芝居うってくれ、得意だろ?」
「はいはい。それにしても、本当に山科のことを大事に思ってるんだな、そこまでするなんてさ。」白川は息を細く長く吐くように呟いた。
「彼女とのことは真剣に考えてる、結婚だって。」御陵は濁りなく言い切った。「だから今日だけは口喧嘩はナシで頼む、山科の前ではナシだ。彼女はお前が思うより繊細なんだ、余計に刺激したくない。今日だけだ。そうすれば明日以降お前に構わないから!」
「ペテン吐きが。」白川は言葉がつい口をついて出たことに気づくと、驚いて口を塞いだ。御陵が探るような目をする。「いや、悪かった。お前に悪態づくのが癖になってるみたいだ。まぁ、相槌みたいなもんだと思ってくれ、他意はないんだから。」
「先が思いやられる。どうしてもってなら、もう黙って座って笑ってるだけでいいよ。」
「賢しら腰抜け色狂い、……っと、すまんすまん。」
「おい、まさか僕が口を利くたびにそうやって――」
「自意識過剰のナルシスト、……あっ、悪かった!」
おい、いい加減にしろ!御陵は机に手をついて立ち上がりながら叫んだ。椅子が勢い余って後ろに倒れてしまい、彼はカフェにいた人間の注目を一身に浴びる。彼が恥ずかしそうに椅子を戻して座るのと入れ替わりに、白川は席を立った。
「はは、悪かったって。おかげで予行演習はバッチリだ。」それから、彼は御陵の横を通り過ぎようとしたが、ふと思い出したように、「集合場所は?」と尋ねた。
第八講義室、と御陵が不機嫌そうに言うのを心底痛快の目で眺めながら、白川はスキップに鼻歌混じりで店を出ていった。
店を出ると、白川は鼻歌もスキップもやめて、ゆっくりとした足取りになる。喜劇が生み出す暴力的な狂熱、それを寝起きの気怠さのように引きずりながら、傍白する。《どうなることやら即興劇、座長の私もいざ知らず。私は演者の手を引いて、演者は私を振り回す。――成功すれば拍手喝采だが、失敗すなわち物笑いだ、まぁ笑ってもらえるなら結果オーライか。振り撒いてきた笑いの種が芽を出すか腐って枯れるか、神のみぞ知るってわけだな。》
「人知れぬ涙に濡れた空笑いを、振り撒かねばならぬのだ……」
白川は我に返り、あたりを見回した。またうっかり言葉を漏らしていたらしい。誰にも聞かれていないことを確認すると、口を押えて歩調を少しだけ早めた、
「はん、身を売る詩の女神、ねぇ……」指の隙間から苦笑を漏らしながら。