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校門前広場 その3

「違うんです、ボードレールの作品にそういう題のものがあるんです、ボードレールの話題でしたから、ほんの言葉遊びのつもりで……山科を愚弄するつもりは……その、意識して愚弄するつもりはなくて……」白川の声は震え、視線は陸も海もなく泳いでいる。

「山科さんにそういう話があったんですか?恋人以外にも体を許すとか。」彼女はどうやら口よりも耳に神経を集中させているようだ。白川から少しでも情報を聞き出せるように、と。

「本当にごめんなさい、ご友人のことを悪く言ったりして――」

「私の質問に答えなさい。」

 西大路が鋭い声でそう言い放ったので、白川は今にも泣きだしそうな声で、はい、と答えて続きを待つことしかできなかった。西大路は一呼吸置いてから語を紡いだ。

「身を売るなんとかって言ってましたけど、以前に彼女が、その、浮気してたとか売春してたとか、そういうことがあったんですか?」

「いえ、ないです、ありえません。彼女は私の知る中で最もそういうことから縁遠い女性です。」白川は今にも消え入りそうな声で答えた。

 西大路は当てが外れたとでも言いたげなため息をつき、怒ってませんから、と言ったが、少し間をおいて、やっぱりちょっと怒ってます、と演技くさく眉をしかめた。及び腰に震え声で何度も謝る白川は、なんとも情けないザマだ。

「怒って当然じゃないですか、大事な友達で先輩の山科さんを、そんなまるで淫売婦みたいに……。半年前のこと、ちょっとだけ聞いてます。でも、言っていいことと悪いことがあると思うんです。」

 青年は馬鹿の一つ覚えのように謝りながら一歩後ずさりし、今にも逃げ出してしまいそうだ。それを見た西大路は、おかしそうに顔をほころばせて彼に一歩近寄る。

「ふふ、でも山科さんももったいないことしたなぁ、私なら……」

 西大路は独り言のつもりでそう呟いたのかもしれないが、それは確かに白川の耳にも届いた。《「私なら」?その後には一体どんな言葉が続くんだ?そんなの、一つしかない!ああ、なんて心の広くて優しい人なんだ、山科や御陵のことを悪く言ってもまだ俺のことを好きでいてくれるなんて、それに俺を優しく諭してくれるなんて。俺なんかの一億倍は優しいぞ、彼女は!ああ、俺も彼女に恥ずかしくないくらい優しい人間になろう、みんなに優しくなろう。御陵にしたって、叩きのめすまでいかなくとも叩くぐらいで勘弁してやろう!》

 いろいろあったが、二人はようやく法学部館の近くまで歩いてきた。先の会話以降、彼らの間に会話はない。白川はまだまだ喜劇したりなかった。不完全燃焼で燻っている情欲のように、不満足で甘い痛痒を訴えてくる陶酔が、もどかしげに全身を蠢いていた。

 《ああ、楽しい時間はあっという間に過ぎ去るものだ。もっとお話してたいが、さっきから俺、格好悪いとこばかり見られてるもんなぁ、というか、彼女があんまり上手に俺を転がすもんだから、ちっともうまくいかないんだよなぁ……》白川は隣を歩く西大路にもう何度目かも分からない一瞥をくれる。彼女は前を見て軽やかに足を運んでいたが、彼の視線に気づくと物欲しそうな目で彼を見つめ返した。

 《そんなに俺を見つめて何を期待してるんだ……。いやダメだ!ここでうっかり生半可な文句を吐いたら彼女の思うつぼだ、また手玉に取られて、気持ちよくされて、ますます彼女のとりこにされるだけだ!何か彼女をあっと言わせるような、一等級の文句でなくては……》白川は助けを乞うように天を仰いだ。空は晴天すぎるほどの晴天で、青すぎるほど青く、むせかえるほどの夏な空気で満ちていて、雲が太陽を避けるように天井に張り付いているため、日差しは容赦なく地上を蹂躙している。

 《あ、そうだ。》色濃い青空と雲を見て、彼はふと思い至る。《あるじゃないか、とびっきりで、とっておきの、最上級の口説き文句が!これなら西大路さんだって、このいたずらな天使だって、つい頬を染めちまうはずさ。……山科に惚れてた時に考えた台詞なんだが、この際こだわってられないよな。》白川は静かに立ち止まる。数歩遅れて西大路も立ち止まり、彼を振り返って声をかけた。白川はそれに返事せず、黙ったままだ。ゆっくり顔を上げ、まぶしさをものともせずに空を見上げると、柔らかく微笑んだ。西大路の関心が最高潮に達するのを見計らい、ようやく口を開く。

「空を御覧なさい、美しい人よ、女神の姿見に映る影よ、見目と同じくらい美しい御心を、不尽の誠実をお持ちの人よ。」西大路の顔が期待によって花火のようにパッと閃いて明るくなり、彼女は言われた通りに空を仰いだ。白川は空を抱きしめるかのように天に向かって短い両手を伸ばし、感動で顔肉を小刻みに震わせながら続ける。「あの青空を御覧なさい、深海のように青い空を!あの雲を御覧なさい、海をたゆたう帆のように真白い雲を!なんて美しい空……、さぁこっちにおいで、あの青空を切り取って素敵なドレスを繕って差し上げましょう、あの雲をつかみ取って立派な絹のハンカチを作って差し上げましょう!」

 西大路は心から感心したようで、まぁ素敵!と目を輝かせながらはしゃいだ。《へん、ざっとこんなもんよ。》そうして白川は得意満面で歩き出した。しかしすれ違う直前、私の素敵なお洋服たちはもうできあがったの?と彼女が楽しそうに尋ねた。

「ええもちろん、ここに。いつでもお召しになれるように準備はできておりますよ。」白川は調子に乗って、両手を広げながら得意げに言った。

「ホントね!私の素敵なドレス、それに立派なハンカチ!」西大路は思い出したかのように再び空を見上げる。「ねぇ、見て!こんなに素晴らしいものを作ったのに、青空も雲もちっとも減ってないわ!」

「ええ、ええ。そうでしょうとも。青空は広大無辺、雲は無尽蔵なものですから。」白川は訳知り顔で頷いて見せた。

「へぇ、そうなんだ……。ねぇ、そんなことより、そのドレスを私に着せてくださる?」

 西大路がもう待ちきれないといった調子で言うので、白川はうやうやしく彼女に青空のドレスを着せた、とはいっても、何もつかんでいない両手で彼女の肩に空気を羽織らせただけだったのだが。

「これでよし、と。お似合いですよ。」白川が気障ったらしく微笑む。

「ねぇ、ちゃんと着せてちょうだい?」西大路はまだ不満そうだ。

「ふむ。それなら、ここをこうして……」白川は彼女の周りの空気をなでた。

「違うでしょ?」西大路の声のトーンが下がる。白川の顔に焦りが生まれた。彼女は続ける。「真面目にやってくださる?ドレスを洋服の上から着せる人がありますか?ちゃんと服を全部脱がせてから着せてください。」

 その言葉で白川が彼女の服の下を想起してしまい、情けなく口ごもっていると、

「やりなさい、女王様の命令が聞けないの?」

 西大路は白川の手をつかみ、自身の肋骨のあたりを触らせた。白川は顔を真っ赤にして飛びのく。

「ごめんなさい!それだけは、それだけはダメです、早すぎます!」

 彼が顔を背けながら早口でそう言うと、西大路は一転して無邪気に笑った。

「ホントに面白い人ですね。ごめんなさい、またいじわるしちゃって。それじゃあ私、図書館に行くんで、さようなら。」

 西大路は背を向けて走っていった。呆気にとられた白川があたりを見渡すと、学部棟は目の前で、確かに図書館のすぐそばだった。さまよっていた視線がふと中庭にとどまる。そこにあるベンチの一つから、御陵が冷めたまなざしを送っていたのだが、頭が真っ白になっていた白川は、何も考えることができず、ただぼんやりと見つめ返すだけなのだった。


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