南構内東棟三十一教室 その4ー校門前広場 その1
「すみません、僕です。」鹿ケ谷が申し訳なさそうに言った。
視線を鹿ケ谷に戻すと、なるほど確かに音は彼の手にある携帯電話から聞こえてくる。マナーモードにしとけよな、と白川は非難するように食ってかかった、彼を挑発するためだ。しかし鹿ケ谷は重ねて謝るだけで、白川など相手にもせずに小走りで講義室を出ていく。青年は途中まで呆然とその背を眺めていたが、すぐ我に返って喧嘩腰で喚いた。
「おい!一体いつになったら始まるんだ、こんなザマじゃあお手上げだぜ!」
鹿ケ谷はそれも無視して扉をバタンと閉め切った。そのせいで白川の言葉の余韻には、どこか負け惜しみめいた響きが付与されることになってしまった。彼はため息をつき、行き場を失った視線をせわしくさまよわせる。あえて誰とも目を合わせないようにしていたのだが、正面に座る山科とつい目が合ったしまった。いつの間にか復活していた彼女は、先ほどとは打って変わって、そんなにカリカリしちゃだめよ、とでも言いたげな視線を白川に返していた。諫めるかのようなその視線に虚を突かれた青年は、彼女に声をかけずにはいられなかった。
「なんだこりゃ?ミーティング中に、しかも進行役が抜け出すなんて。はん、よほど大事な電話なんだろうな。あいつをリーダーにするってのは考え直すべきじゃ――」
「うん、大事な電話だよ、とっても大事な。」山科は澄んだ声で返した。白川の口が思わず止まってしまうほど、澄んだ清らかな声だった。
「へぇ、そんなに大事な電話なのか。田舎で病床に伏してるおふくろさんから?」白川はかろうじて反抗的な口調を崩さずにいる。
山科は、まぁ近いかな、と言って諭すような優しい口調で説明する。鹿ケ谷には高校の時から付き合っている恋人がいるのだが、今は体調を崩して故郷で療養しているらしい。彼女は起きていられる時間が限られているため、鹿ケ谷はたとえ講義中でもサークルの時間でも、彼女からの電話を何よりも優先するのだという。また、彼女は一時期このサークルのメンバーだったそうで、二人の関係は周知のことだったようだ。
「鹿ケ谷に恋人がいるなんてこと、知らなかった。」青年はまだ半信半疑らしい。
「あはは、白川ってそういうとこ鈍いよね、だから恋愛もうまくいかないんだよ。」山科は優しく静かにクスクスと笑う。それから、「素敵だよね、何もかも放り出すくらい自分を優先してくれるなんて。」と白川の背後を眺めるようなぼんやりとした目つきで、言った。
「どうしたよ、恋する乙女みたいなことを言って?残念ながらあんたの王子様はご多忙だぜ。ここにいるのは不格好な小人ただ一人、毒リンゴでもかじって待っときな。」
「でも白川も同じじゃない?好きな人のことを一番に考えて、その人のためなら何でもしてあげたくなって、ちょっと大げさな口説き文句まで考えちゃう。」
山科は相変わらず穏やかな表情で白川を見ている。彼は居心地が悪くなって、ただ鼻を鳴らした。《ちょっと待てよ?衝撃が多すぎて理解が追いついていなかったが、要は鹿ケ谷の恋人は西大路さんじゃないってことだよな?しかもおまけに、彼はそこまで悪いやつじゃないということまで知れた。これはもしや大団円というやつか?……なるほど。はは、大団円、いい言葉じゃないか!これで後は御陵の野郎をぶちのめすだけだな!はっはっは、何か大事なことを見落としてる気が、重大な情報を忘れている気がするが、まぁいいだろ、とにかく大団円!》彼は山科を見つめ返し、柄にもなく、自然とほほ笑んだ。
それから十五分ほどしてようやく、鹿ケ谷が部屋に戻ってきた。彼は明るい声で詫び言いながら頭を軽く下げて回る。それはいつもと変わらない飄々とした態度だったが、先の話を聞いた白川の目には、どことなく健気なものに映った。白川は感無量といった顔で立ち上がると、感激とも悲痛とも言い難いうめき声を発してから、
「鹿ケ谷君、君は本当に尊敬に値すべき人間だ!君こそサークル長に相応しい、いやそれどころか、全世界の男の代表たるべき人間だ!」と叫んだ。
なんですか突然!と目を丸くする鹿ケ谷を、白川はひしと抱きしめた。その後には、山科の哄笑だけが残ったのだった。
ミーティングは予定されていたよりずっと遅く終わった。白川は御陵と昼食の約束をしていたことを思い出し、そわそわしながら法学部館へと戻っているところだ。なぜそわそわしているのか?それは間違いなく、彼の隣を歩いている西大路のためである。なぜこうなったのか、彼自身も分かっていなかった。不思議なことに、会議が終わるや否や彼らだけがとり残され、一緒に学部棟に戻る空気になったのだ。ようやく終わりましたね、と言って白川は腕時計を見る。十三時半過ぎ。もうとっくに三限目が始まっている時間だ。実際のところ、鹿ケ谷の言うことに彼がいちいち拍手したり叫んだりしていたせいなので、西大路はつい苦笑を浮かべる。