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南構内東棟三十一教室 その1

 《鹿ケ谷(ししがたに)か……。》南構内東棟三十一教室。講義以外では近寄る学生の少ない東棟は、学生的喧騒には縁遠く、ただでさえ普段からうら寂しくそびえているというのに、昼休みになると、残酷なことにこの静寂はより顕著になる。白川青年は薄暗い三十一教室の最後列の席に座り、頬杖をつきながら硬く目を閉ざしていた。耳を澄ましても、聞こえてくるのは空調とセミの鳴き声、あとは電動ドリルの駆動音だけだ。

 《確かに、あれを真っ先に疑うべきだった。なのにどうして俺は御陵のとこにすっ飛んでいったんだろうなあ、笑えるぜ。冷静にことを進めなきゃな、物笑いの種がお笑い草になっちまうよ。まずは、どうにかして西大路さんの恋人があの野郎だということを確定させよう。なに、これは簡単さ、あいつと二人きりのときに直接尋ねればいいんだから。あの自尊心の強い鹿ケ谷のことだ、あんな綺麗な恋人がいることを隠す理由なんてない、むしろやつから自発的に白状してくれるかもな。大事なのはその後、どうやって西大路さんをやつから奪い取るかだ。にしてもあいつ、どんな手を使って西大路さんを……、はん、御陵二号なんだから、そりゃ御陵みたいに卑怯な真似をしたんだろう。ちぇっ、腹が立つ、体中が燃えさかる烈火のようだぜ――》

 時刻は十二時を四分の一ほど過ぎたばかり、と、沈黙を水のようにかぶった東棟の中を、水面を駆ける鳥のような軽い足音が反響した。それは次第に大きくなり、どうやらこの教室に近づいているようだ。白川もそれに気づいていて、音に注意を傾ける。《これはなかなか、爽やかで心地いい足音だな、フレッシュで品があって……、まるで泉の上に遊ぶ精霊たちの立てる水しぶきの音みたいだ。》青年は目を開けて頬杖をやめ、きちんと座りなおす。

 《となると、これは西大路さんの足音に違いない、これほどまでに上品で優雅で人の気持ちを高ぶらせる足音なんて、他には考えられない!この大学で、いや、この世界であんな足音を立てることができるのは、西大路さん以外ありえない!》彼の胸は期待に踊る。《しかし、だとすれば、どうやって出迎える?どんなポーズで、どんな台詞で迎えたら、彼女は思わず俺にときめくだろうか。》立ち上がってもたもたする。が、そうしているうちに足音はもうすぐそこだ。

 白川は慌てて座席の後ろに回り込み、背もたれに尻をもたれさせて腕を組んだ。仕上げに、顔を俯き加減にして……どうやら完成らしい。講義室の前方にあるドアの開く音を、彼は背中で聞いた。《さぁいくぞ。》つい口角が上がってしまう。《いかんいかん、笑っていたら台無しだ。台詞の後で、柔らかく、込めうる限りの好意と敬意を込めて微笑むだけなんだから……。》一歩、二歩と足音が青年の背に近づく。《ああ、脊椎が震える!俺の命はこの足音にまるきり握られているんだ!》

 また一歩、二歩。もう数メートルほどの距離しかない。《さぁ、今だ!》威勢のいい傍白とは打って変わって、彼の動きは脆いガラスの上を歩くかのようだった。白川はゆっくり足音の方を向くと、口を開く。

「太陽のもとに新しきはなし、という言葉がありますけれど、ひとたびあなたと、この至上の美と出会ってしまえば、それにも例外があったと認めざるを得ません。ああ、造化の神も、これまであなたほど美しい人を生み出したことはありますまい!」

 それから、もったいぶった態度で顔を上げた。しかし準備されていたとっておきの微笑は、彼が正面を向いた時に固まって崩れ、ひきつった骨組みだけになってしまった。足音の主は屁のような品のない音を口から漏らすと、腹を抱えて笑い出した。あまりにおかしくてその場にじっとしていられないようで、ゲラゲラと笑いながら足は前後左右にふらついている。

「もう、ツッコミどころが多すぎ……。まずさ、椅子の座り方知らないの?」山科(やましな)は息も絶え絶えに声を絞り出した。

 《嫌なやつばかりに出会っちまう、特にこいつとはもう二度と会いたくなった。笑うのは結構なんだが――》白川はため息をついて席に座る。《本当にいちいち癪に障る笑い声だな、こいつは!》「結構失礼だと思うぜ、人の顔見て笑うなんてさ。」

 彼が失望に身を任せて不快感を顔ににじませると、山科は、白川が正論を言うなんて!といつかみたいに激しく笑った。《こいつ、口の減らない……。》白川がしかめ面をそらすのを見て、山科は主に笑いのせいで苦しそうな顔をして、早口に弁明する。

「えと、ゴメンね?その、半年ぶりだったからさ――」

「それはもう聞いた言い訳だぜ。全く、カップルそろって同じようなこと言いやがる。」

「もう知ってたんだ、後で三人集まったときにでも言おうと思ってたんだけど……」

 《三人で集まるだって?勘弁してくれ。》山科が青年の前の席に腰かけ、まさかあんなに傷つけちゃうなんて、と謝ったので、失恋を引きずって半年も学校を休む馬鹿なんているわけないだろ、と青年は心外そうに言った。

「あはは、確かに。でもビックリしたでしょ?半年前に自分を傷つけた張本人たちが、おめおめとくっついてるなんてさ。」

 山科はそう言って白川を見た。その目は落ち着かない。しかし、それに対して白川が、よくある話だろ、とつまらなそうに返すと、彼女は身を乗り出しながら言葉にならない驚き声を発し、目を丸くして青年を凝視した。《なんというか、羨ましい女だ、ここまでお花畑してりゃあ、人生も幸せだろうな。》青年は続ける。

「あきれるほど鈍くて無駄に人のいいあんたのことだ、俺が大学に来なくなってかなり気に病んだはずさ、泣きはしなかったろうが、ため息が増えたりしてね。そこをあの御陵がうまいこと付けこんだ、違うか?」

付けこまれたわけじゃ……、と山科はくちごもる。

「あっそ、何でもいいけどさ。どうせベッドの上で恋人になったんだろ?」

「そんな、白川には関係ないことじゃん!ていうか、よくそんな失礼なことが聞けるね!」山科は羞恥と怒りで顔を赤くし、白川の言葉の余韻をかき消すようにまくしたてた。が、やがて目をそらして首を小さく振った。そして、「白川ってたまに妙に鋭いよね、なんだか全て見透かされてるみたい。」と恥ずかしそうに笑った。

「見透かすもミソカスもあるか、あいつにはよくある話だよ。さっきも言ったろ、太陽のもとに新しきはなしって。」《ってことは、御陵はこいつと付き合って半年近く経ってるわけか。……俺の知る限り、一番もった女で二か月だったが、あいつ、本当に成長したってことなのか?にわかには信じられない。なぜって、俺らのような種類の人間にあるのは前進であって、成長では決してないんだから。》

 それって誰の言葉だっけ?と山科が食いついたものの、青年は、サーモンとかいう名前だったはず、とおざなりな返事をするだけだった。そのいい加減な態度にもかかわらず、彼女は楽しそうに笑った。

「普通の冗談も言えるんだね、白川って。」

「どういう意味だ?」《この女、さっきのしおらしい態度はどこへ行ったんだ、急に人のことを馬鹿にしてきやがって――、もしかしてこいつなりの優しさか?俺が半年前のことで気まずくならないように、あえて茶化してるのか?》

「……スイートハート。」山科が半笑いで言った。

「おい、もういいだろ、いい加減忘れろよ。」白川はきまり悪そうに顔をしかめる。

「……愛しい月。」山科が声を震わせて言った。

「やめろって言ってるだろ!」

 白川は机に手を叩きつけながら立ち上がった。それと同時に、山科が堰を切ったように大笑いをし始めた。《クソ、撤回だ撤回。律儀に覚えてるのは感心だが、人の心からの言葉を笑い(ぐさ)にしやがって。なんで俺はこんなやつのことを一度でも好きになったんだか!》

「ホントにゴメンって……」山科はヒーヒーうめきながら次第に笑い声を収めていく。「でも言葉の破壊力がすさまじくて、半年程度じゃ忘れられないよ。」

「あんた、本当は罪悪感とかないだろ。じゃなきゃそこまで馬鹿にはできないはずだ。」白川は疲れ切った様子で力なく座りなおす、もはやうんざりといった感じだ。

「いやいや、そんなことないって!」山科は両手を顔の前で振り回して否定する。「そうじゃなくて、どうしてあんな伝え方したのかなって。素直にストレートに、好きだって言えばよかったじゃん。あんな伝え方だとそっちに気を取られて内容が全然入ってこないよ、誰でも。」

「誰でもなんてことはない。あんたがふざけてただけだ、伝わる人にはきちんと伝わる。」

「ないない!アレで『素敵!私もよ!』なんて思う人、いないって!あんな――」

「それなら言わせてもらうがね。あんた、御陵から好きだとか愛してるだとか付き合おうだとか、そういう言葉を言ってもらったのか?もちろん、抱かれる前に。」

 白川がそう言うと、山科は困ったように目を伏せて下唇を少し噛んだ。そして、間があった後、上目遣いで遠慮がちに青年を見ながら口を開いた。

「……いじわる。」

「悪かった。」

 白川のその声は冷徹で、その目は無感情に女の目を見返していた。ややあって山科はわざとらしいため息を一つつくと、昔はあんなに熱い言葉をかけてくれたのに、とおおげさに悲嘆してみせた。

「本当にどうかしてたよ、あんたみたいな女に惚れちまうとは。」白川も調子を戻す。「何だってこんなやつ……。第一、あんたは口と声がでかすぎるし、歩き方はがに股だし、髪は後れ毛まみれだし、はあ、背筋が凍る思いだぜ。」彼はクモの糸を振り払うように頭を振った。

「ひっどい!ホントは私に対する未練とか、ちょっとくらいあるんでしょ?さっきだって造化の神がどうとか、言ってたじゃない。」

「閻魔に誓って言える、それだけは絶対にない。さっきの言葉にしたって、あんたじゃなく、西大路さんにむけたものだしな。」

 山科はそれを聞くと大きく目を見開いて青年を見たが、その視線はすぐに外され、彼女はどこを見るともなく寂しそうに笑いながら、誰に聞かせるともなくこう呟いた。

「……みんな西大路さんに夢中ってわけだね。」


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