学部棟階段ー中庭
走っては講義室の扉を開け、走ってはまたドアを開けて、白川はようやく御陵を見つけることができた。彼は二階の隅にある部屋で講義を受けていた。白川が放り投げるようにドアを開けると、いくつかの視線が彼に集まった。しかし、その中に御陵のものはなかった。白川は憮然として立ったまま、後方の席に座る御陵をにらみつける。その姿があまりにも不審だったので、彼をちらちらと見る視線は次第に増えていき、しまいには教授でさえ時折彼に目をやるようになった。と、そこでようやく二人の目が合った。
御陵はまず当惑した表情を浮かべ、周囲を見回し、そして怒りの視線をその乱入者に向けた。しかし、彼がそこから一向に動く気配のないことを見て取ると、ついに困り果てた顔になった。
「何の用だよ、一体。」
白川はそう囁く御陵を無視して彼の腕をつかみ、彼を力いっぱい講義室の外へと引っ張り出した。なんなんだよ!と御陵の声が廊下に響く。
白川は講義室の扉が閉じたのを見届けると、御陵の腕をつかんだまま階段へと大股で歩きだした。もどかしげに顔をしかめて大急ぎで階段を下りていく白川に対し、彼にペースを握られている御陵は、おっかなびっくりに足もとを見つめながら足を動かしていた。
「だからなんなんだよ!お前、話があるにしても時機ってやつがあるだろ!」
階段の踊り場まで来た時、御陵が白川の手を振り払ってそう言った。白川はゆっくりと振り向き、じろじろと彼の全身をにらみ尽くした。その顔は憤怒と軽蔑で過度に塗りつぶされているが、あまりにも露骨なのでかえって演技くさく見える表情だ。青年は嘲笑を込めて鼻を鳴らすと、重々しい動作で二、三歩さがって御陵の全身を視界に収めた。
「時機?時機だって?はん、これ以上ないくらい最適だと思うがね、俺は。全く、俺にとってもお前にとっても、トントン拍子過ぎて笑えてくるぜ。ありがたいくらい物事がトントン進んでいく、筋が列をなして順番待ちだ。全くなぁ、この世が全てこうだったら、きっと世界は愛すべき人間であふれかえるだろうに……。はん、なんてな、知ったことかよ。」白川の言葉は途中から独り言のように響いた。
「は?お前、何を――」
「おお御陵。ところで、俺のいない半年間に素敵な恋人をこしらえたらしいな。ええ?おい。」
「わざわざ僕を引っ張り出してまでしたかった話がそれかい?」御陵は引きつった含み笑いをしながら言った。
「くだらん言い逃れはよせよ、せっかくトントン拍子で来てるんだ、ここに来て無駄な脇道にそれるのはもったいないぜ。」
「……悪気はなかったんだ、その、お前が彼女と顔を合わせた後で、改めて言うつもりだったんだ。」
「そうか、運よくついさっき会ったんだ。素敵な恋人がいるんだとよ。」
「悪気はなかったんだ!半年前のことがあったのに、こんな抜け駆けみたいなことをして、お前からすれば最悪なのは当然だ、でも、僕だって――」
「くだらん道草は食わんと言ったろ、お前の口から事実が聞きだせりゃそれでよかったんだからな。」
冷徹な視線を向ける白川に、御陵は気まずそうに沈黙するだけだったが、やがて口を開き、
「僕だってあの子が好きだった、気づいてたろ?それにあの人とは本気なんだ、さっきお前が言ってたような、遊びじみた恋愛で終わらせるつもりはないんだ。」と呟いた。
「口だけならいくらでも言えるさ、あの子を口説いたお前の口ならね。」白川は冷笑した。
「そんなネチネチと……、なんだよ、まさか別れろって言うんじゃないだろうな?」
「そんなまさか!ま、今のうちに楽しんどけよ、あの人を。あの可憐で美しくて、」
「急に褒めるじゃないか、どうした?まぁ、確かに彼女は可憐で美しいけどさ。」
「恥じらった顔が堪らなくて、」「あの時の彼女は堪らなかったよ、ホントに。」
「賢そうで、宝石の髪を持った、バラみたいに素敵で、」「はは、褒めすぎだって、なんだか僕の方が照れてきたぞ。」
「天使のような、」「天使!いや、はは、僕は幸せ者だな、」
「西大路さんをね。」「山科みたいな恋人を持ってさ。」
その瞬間、彼らは困惑して顔を見合わせた。
「山科?どうしてあの女の話をしてるんだ?」白川が尋ねた。
「西大路?なんで彼女の名前を出したんだ?」御陵も尋ねた。
二人の間に滑稽な沈黙が流れる。
「お前の恋人って、まさか山科だったのか!」白川が沈黙を破った。
「お前はなんで僕の恋人が西大路だと思ったんだ?」御陵が追随した。
「山科だったのか!」白川が階段を下りていく。「なんで西大路だと思ったんだ?」御陵が彼の後を追う。「山科だったのか!」「なんで西大路だと思ったんだ?」「山科――!」「西大路――?」…………
白川はなんとも嬉しそうにスキップしながら中庭までやってくると、これ以上ないくらい愉快そうに高笑いをした。
「なぁんだ、山科だったのか!」《なぁんだ、御陵の恋人は山科だったのか!俺はなんて間抜けなんだ、トントン拍子に脇道へと進んでいたってわけか。ま、西大路さんの恋人が御陵じゃないってことが分かっただけよしとするか、安心したら急に腹がすいたな、昨日から何も食べてないんだもの!》
「おい、だからさ、なんで僕の恋人が西大路だと思ったんだよ、一人で勝手に納得してんじゃねえよ!」白川を追いかけてきた御陵が、切な声で尋ねた。
彼に歩み寄った白川は、にこにことして素直に謝った。しかし、御陵は納得いかないのか、半ば怒っているようにさえ見えた。
「まぁまぁ、落ち着けよ。お前が言っただろ、本人に聞けってさ。だから西大路さんに直接聞いたんだよ、恋人とかっていますか?ってね。」青年は不安そうな御陵を見て続ける。「そしたら、いるって言うから、俺はお前に違いないって確信したんだ。」
確信ってなんだよ、と恨めしく漏らす御陵に、白川はただ一言、直感、とだけ返した。
「じゃあこういうことか?西大路は僕と付き合ってるって言ったわけでも、それをほのめかすようなことを言ったわけでもなくて、お前が勝手にそう結論付けたっていう。」
白川が相好晴れやかに頷くと、御陵は深いため息をついてすっかり脱力し、杞憂が去った後のような、くたびれた安堵の表情を見せた。
「はっはっは、友よ、そう怒るなって!」
「怒っちゃいないけどさ、」御陵は少しだけ間をおいて、「その、山科と付き合ってること何とも思わないのか?半年前はあんなにご執心だったのに。」
「もちろん、お幸せにな!」ここ数か月のうち一番の笑顔である。「半年も前のことじゃないか、それに今は西大路さんだ。」
忙しいやつ、と御陵は呆れて背を向けた。先ほどまでの焦った様子はどこへやら、面倒事に巻き込まれたとでも言いたげである。青年はそれを気にもとめず、ミーティングでまた会おう!と肩でも組まんばかりに馴れ馴れしく言った。
「僕は参加できないよ、一時までちょっと用があるから。」と言って御陵は歩き出した。
「そうか、じゃあ昼飯の時だな、勉強頑張れよ!君のような若者が国の将来を背負っていくのだから!」と白川はその背に調子のいい声を投げた。それから、「それなら西大路さんの恋人って誰なんだろうなぁ。」と呟いた。
それを聞いた御陵はピタリと足を止め、しばらく立ち止まっていた。白川はそれに気づくと、首をかしげて、戻らないのか?と気のない声で尋ねた。
「それについてなんだが、」御陵は向き直り、難しい顔をしてみせる。「思い当たる節というか、噂なんだけど、聞くか?」
「もちろん、是非。」白川はすぐに食いついた。
「あくまで噂だぞ、僕の時みたいにすっ飛んでいくなよ?」
「分かったから、早くしろよ。」
「ああ。その、鹿ケ谷がさ、付き合ってるらしいんだ、西大路と。よく一緒に出かけたり互いの家に行ったりしてるらしくて――」