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大講義室 その1

ー冬のある日の出来事

 「私はきっと地獄に落ちるでしょう。底へ底へと、崖を転げる小石のようになすがまま落ちていく私を見て、地獄の鬼どもは、あの醜い翼を持った下郎どもは、罪人を抱えながら硫黄まみれの歯を見せて笑うことでしょう。『見ろよ!あいつ、悪鬼みてぇな、いや、悪鬼よりも恐ろしいツラをしておいて、羽の一つも持っちゃいねえ。ははは、お笑いだ。牙の無いライオンみたいなもんじゃないか。行こうぜ!あんなやつに構ってたら、俺ら、意気地なしだって思われちまう、……っと、もうあんなに遠くに見えるぞ。』などと下品に罵りながら」

 白川青年は、背は低く、地黒で、ぱっとしない容姿の若い男は鍵盤を優しく撫で上げるような清らかな調子でそう言った。冬の寒さを吹き飛ばしてしまいそうなほど、低く野太く、力強い声だ。そして、朗々としているが、そこはかとなく切実な悲痛を込めた声色で続ける。

「この羞恥と屈辱にまみれた際限ない墜落の中で、ただあなたのみを心の頼みとしたいのです。神なんてあてにはなりません、いや、ちょっとはあてにしていますが……。とにかく、どんな地獄であったとしても、あなたがいるだけでたちまち浄化されるというものです。その微笑み一つで、罪人の血と臓物にまみれた無数千本の針は、燃えるように鮮やかな赤色をしたバラへと変身し、その口づけ一つで、ヘドロの如くどろりと淀んだ血の池は、見る者の心を清らかにするほど澄んだ神聖な泉へと変貌するでしょう。ああしかし、もちろんあなたを地獄まで連れてゆくわけにはいきません。ですからどうか、この浮世を渡る船の上だけでは、あの乱暴な船頭もいない船の上でだけは、せめてあなたの傍にいることを、そして、あなたの幸福に仕えることを、許していただけないでしょうか。そうすれば、その幸福を糧に、私は地獄でどんな責め苦だって耐え忍んで見せましょう。」

 白川の闊達な声が大学の大講義室の後方、最後列の位置から響く。午後五時過ぎ。この日の講義は全て終わり、法学部棟に残っている学生は彼らのほかにはおらず、また、外の喧騒は冬の薄暗いヴェールに阻まれてしまっていた。つまり、彼の北風のように力強い声を妨げるものは何もなかったのである。白川は椅子に座ったままの女学生の周囲を、短い手足をばたつかせてステップを踏んだり優雅ぶって回転したりしながら歩き回っている。

「ああ!愛しい月よ、寂光よ、冬の夜気を貫く人よ、私の静かな眠りを妨げる女よ、どうして震えてらっしゃるのですか?どうして俯いておられるのですか?どうして黙っておいでなのですか?」

 女学生の周りをうろうろとしながら、彼はまたくるりと一回転した。これではどちらかというと、彼のほうが衛星としての月みたいだ。白川は足を止めずに彼女をじっと見つめながら、少しの間沈黙した。しかし、その細い目に不安は一切なく、情熱と自信が満ちていた。彼の雄弁な沈黙と熱視線を一身に受けている女学生、山科という名前なのだが、彼女はまるで感情を抑えるかのように、体を震わせながら俯いて無言を貫いている。表情は肩にかかるほどの栗色の髪でちょうど隠されて見えないが、品の良さと快活さが自然に調和されていて、どこか儚い印象のある女性だ。また、彼女は長身なようで、座ってはいるが、白川より背が高いことは一目で分かる。

「麗しのエルヴィーヌよ、どうして何もおっしゃってくださらないのですか、詩的予感の化身よ!おお、苦しい、なんという苦しさ!穢れた私の身は、あなたのお許しなしでは、あなたの前に立つことに耐えられないのです。あなたの放つ、この神聖で冷酷な光に耐えられないのです。だからどうか、同情してくださるのなら、お許しを、永遠にあなたのお傍に、いえ、あなたの体の一部となることを、私にお許しください、そして、私をお救いください。」

 その声はまさに悲惨そのものだったが、そう言う男の口もとには、拭い切れなかった喜色が残っている。山科はここでようやく口を開いた。

「あの、よく分かんなかったからさ、もっと簡単に……、要は、白川は何が言いたいの?」

 まるで濁声を抑えようとするかのように、声は震えていた。白川はその百倍もありそうな大声で、今なんと?と聞き返した。

「……だから、要点は何なの?」

 山科は相変わらず、まるで涙を隠そうとするかのように、俯いたままだ。

「ああ、なんていたずらなんだ!こんな分かりきったことを、あえて私の口から直接聞き出したいのですか。いや、そうか、私はなんて愚かな……、これほどまで語を弄して遠回りに気持ちを伝えようだなんて。ああ!あなたは私にそれを気づかせるために……。なんという!あなたはまさに月のようなお人だ!よく道理を知らない連中はあなたの光を冷酷だと言いますが、しかし、確かにその中に慈愛の温かさをも秘めておられるのです!」

 女学生はやはり、まるで嗚咽を堪えるかのように、黙ったままだ。

「ええ、はっきりと申しましょう。私はあなたのことを愛しているのです。私は今、あなたのことをこう呼びたくてたまらないのです。魂の薫香よ、我がスイートハートよ、と。」

 一瞬の静寂、そして、まさしく哄笑としか表現しえない音が、山科の口からあふれ出した。もはや彼女は震えても、俯いても、黙ってもいない。むしろ、幼児さながらに足をバタバタと床に叩きつけ、折れそうなほど首を上に向け、狂ったかのように笑い声を上げている。

「ちょっと、ホント、勘弁してよ、愛しい月って何?神聖で冷酷な光って……魂の薫香って……スイートハートって……。無理無理、耐えらんない、今日も白川はぶっ飛んでるね、ああもう、笑い死ぬ……」

 この爆発にはさしもの白川も驚いたのか、呆然と固まっていたが、すぐに平静を繕う。

「はは、それほどまでにおかしいことを言った覚えはないのですが、とにかく喜んでいただけたようで光栄の限り。ということは、返事の方は――」

「おかしいことを言った覚えはない!」

 山科はそう繰り返してさらに激しくバタバタと笑った。

「……とにかく、私のこの恋慕を確かに受け取っていただけるのですよね?」

「恋慕!」

 女学生の笑い声は一層高くなり、体はもう椅子から転げ落ちてしまいそうだ。と、その時、彼らのいる場所からはるかに前方、大講義室のずっしりとしたドアが勢いよく開かれ、そこから彼らと同い年くらいの若者が現れた。

「おい!笑い声が外まで響いてるぞ、どうしたんだ?」

 非難がましいというよりはむしろ、心配する調子だった。大講義室の床は奥へ行くにつれて徐々に高くなっていて、この学生は白川と山科を見上げる形になっている。

「ミッチー、遅い、もう私、笑い死んじゃう」山科は高い天井を仰ぎながら言った。

「御陵?どうしてお前がここに?俺が呼ぶわけないが……」白川は露骨に難色を示した。

「山科に呼ばれたんだ、お前もいるからって。」

 御陵は、――彼もまた山科と同じくらい背が高く見える、小ぎれいにまとまった顔立ち、大きな眼鏡、白い肌、髪は今風のポソヘア、その色は暗い茶色、長くて薄いコートの下からは暖色のコットンパンツがのぞいていて……、とにかく大学生然としたその若者は上り坂になった通路へ一歩踏み出した。

「私はお前なんか呼んだ覚えはないと言っているんだ!君らのような人間は、たとえ呼ばれたってここに来るべきではない、違うか?君らの向かうべき場所は、歩むべき場所は、ここではない。」白川は自身の立つ場所を親指で示し、それから、「そう、そこ。君が今立っている場所、すなわち地べたさ。分かったなら先ほど君の入ってきたドアからすぐに出ていくんだな。ほら、閉じてしまわないうちに。」と言って、御陵に背を向けて山科の方へキッと体を振り向けた。が、その言動に山科の笑い声はまた激しくなり、彼は苦い顔をした。

「やれやれ、また例の演劇病が始まったか。付き合いきれないな、ホント。第一、お前に来るなと言われた覚えもないし、僕は山科に呼ばれたんだ。だったら一応来てやるのがマナーというか、常識だろう?」

 構わず通路を上ってくる御陵を白川は激しい身振りと叫びで制止しようとするが、その異常なまでに高められた必死さと憤りように対し、一人はもはやうんざりした表情で、もう一人は感心しつつもおかしさを耐えきれない様子だ。何があったんだ?と御陵が尋ねたが、山科は震えで口をもごつかせ、「スイート……」だの「月……」だのと漏らすばかりだった。


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