無重力の孤独(アストロノーツ・ロンリネス)
「船長、燃料が底をつきました」
静かな声が響く。声の主は、私と同じくこの船に取り残されたクルーの一人、シオリ。彼女はいつも冷静で、どんな状況でも感情を表に出さない。まるで、深海の魚のようだ。
「そうか。残りの酸素は?」
私の問いかけに、シオリは淡々と答える。
「あと7時間です」
7時間。それが、私たちに残された時間。この広大な宇宙の、塵のような存在に過ぎない私たちにとって、それはあまりにも短い。
私たちは、とある惑星への資源探査任務中に、流星群に巻き込まれて航行不能に陥った。メインエンジンは破損し、通信システムも沈黙。脱出艇も使えない。まさに、八方塞がりだ。
窓の外には、無数の星々が瞬いている。その輝きは、私たちを嘲笑っているかのようだ。あるいは、絶望を深めるための、美しい装飾なのかもしれない。
「船長、何か、話しませんか?」
シオリの声が、静寂を破る。
「話すことなど、あるか?」
「ええ。たとえば、故郷のこととか。あなたには、故郷と呼べる場所がありますか?」
故郷。私は、地球の片隅で生まれ育った。大気汚染にまみれ、人間が飽和状態になった星。故郷と呼ぶには、あまりにも息苦しい場所だった。
「特にないな。お前は?」
「私は、生まれつき宇宙船の中で育ちました。だから、この船が故郷です」
彼女の言葉に、私は驚きを隠せない。宇宙船で育つなんて、まるでSF小説の世界だ。いや、今まさに私たちが生きているのがSF小説そのものなのかもしれない。
「寂しくはないのか?」
「寂しい、という感情がよくわかりません。私は、ずっと一人でしたから」
シオリの言葉は、私の心を深くえぐった。私は、一人でいることに慣れているつもりだったが、彼女の孤独は、私の想像をはるかに超えていた。
「もし、もう一度地上に降り立つことができたら、何をしたい?」
私は、自らの命が尽きる前に、彼女の夢を聞いてみたくなった。
「そうですね……。一度、本物の海を見てみたいです。写真でしか見たことがないので」
海。地球の7割を覆う、青い惑星の象徴。私は、幼い頃に一度だけ、家族旅行で見たことがあった。波の音、潮の香り、無限に広がる水平線。それは、私が経験した中で最も美しい景色だった。
「そうか。海は、本当に美しいぞ。青く、限りなく広がる世界だ」
「見てみたいです。泳いでみたい」
彼女の目に、一瞬だけ光が宿る。それが、彼女の唯一の望みだったのかもしれない。
残り6時間。
沈黙が、再び私たちを包み込む。しかし、先ほどとは違い、そこには微かな温かさがあった。シオリが、私の隣に座っていたからだ。
「船長、一つ、お願いがあります」
「何だ?」
「もし、私が……その、動かなくなったら、私の最後の言葉を、誰かに伝えてほしいのです」
彼女の声は震えていた。初めて、彼女が感情を見せた瞬間だった。
「……もちろんだ。どんな言葉だ?」
「『私は、孤独ではありませんでした』と」
その言葉に、私の胸が締め付けられる。ああ、彼女は、こんなにも孤独だったのか。そして、今、この瞬間に、その孤独から解放されようとしているのか。
「わかった。必ず伝えてやる」
私は、彼女の手を握った。冷たく、か細い手だった。
残り5時間。
宇宙船は、ゆっくりと暗闇の中を漂っている。まるで、魂の抜けた巨大な棺桶のようだ。
私たちは、互いの体温を感じながら、静かに最後の時を待っていた。
シオリの呼吸が、徐々に浅くなっていく。私は、彼女の手を強く握りしめた。
「シオリ、怖くないのか?」
私の問いかけに、彼女は微かに首を振った。
「いいえ。あなたは、私のそばにいてくれたから」
その言葉が、私の耳に届いた最後の言葉だった。
彼女の小さな体が、私の腕の中で動かなくなる。しかし、その手は、まだ私の手を握りしめていた。
私は、彼女の言葉を胸に、残りの時間を過ごした。
残り1時間。
酸素残量を示すパネルの数字が、赤く点滅している。
私は、シオリの小さな体を抱きしめ、窓の外の星々を見つめた。
広大な宇宙の中で、私たちは、確かにここにいた。そして、孤独ではなかった。
やがて、私の視界も、ゆっくりと闇に包まれていく。
「…私は、孤独ではありませんでした」
最後の力を振り絞り、私はそう呟いた。
そして、意識は途絶えた。
宇宙の深淵に、二つの魂が溶けていく。
しかし、その魂は、決して孤独ではなかった。
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