第98話 青天の霹靂
ブレンダンはかつて、ダリアンデル地方南東部で小領主をやっていた。それは既に捨て去った過去だった。その際に生まれ持った名前――ドンド・ドンダンドという名さえも捨てていた。
亡き父ドラン・ドンダンドのことが、ブレンダンは心底嫌いだった。エルトポリの小さな宿屋の次男という生まれから、人を集めて険しい森を切り開き、一代で村を作り上げて領主になった手腕は大したものだと思うが、子供を一人しか作らなかったくせに、その一人に「俺の跡を継ぐのがお前の当然の義務だ」と言い放ちながら自分の築き上げたもの全てを押しつけたことが、ただひたすらに腹立たしかった。
父のせいで、ブレンダンの前半生は村ひとつの小さな領地に縛られた。村を訪れる行商人たちの話を聞き、父に連れられて何度かエルトポリに赴き、子供の頃から都市暮らしに憧れたブレンダンにとっては、田舎の小領主としての人生は苦痛でしかなかった。このような境遇を自分に与えた父を恨んだ。
ついでに言えば、己の家にドンダンドという珍妙な名をつけ、己の息子にドンドというこれまた異質な響きの名をつけた父の感性も気に食わなかった。吟遊詩人の歌で聴いた異国の名を、普通は自家や息子につけないだろうに。
そうして父も、父から受け継いだものも全てを憎んでいたので、大勢の盗賊が村に迫っていると聞いたとき、逃げてしまおうと決断するまで時間はそうかからなかった。貧相な村の貧相な住民どものことも前々から気に食わなかったので、見捨てることへの罪悪感も特に湧かなかった。
程度の差はあれど自分と同じような考えを抱いていた妻子や弟一家を連れ、ひとまず東に逃げたブレンダンは、エルトポリを経由して南回りに西へと進んだ。自分たちのことを知る者がいない地に行こうと考え、ダリアンデル地方南東部を脱出した。
田舎の村ではなく都市で暮らしたい。森と丘陵に囲まれた狭苦しい地ではなく、もっと広々とした地――海の見える地で暮らしてみたい。そう考えたブレンダンは、一族を連れてダリアンデル地方の西の果てまで進み、エルトポリよりも少し小さい程度の港湾都市に身を落ち着けた。憎き父から読み書き計算は教え込まれていたので、大きな商会に勤め、家族を養うのに困らない程度の稼ぎを得られるようになった。
生まれ故郷を捨てて五年。都市住民としての暮らしにもすっかり慣れ、第二の人生を満喫していたブレンダンはある日、休日を穏やかに過ごしていた。五月の柔らかな陽光が窓から降り注ぐ中、のんびりと読書などしていた。
「――兄貴っ!」
「うっ!? うわっ、何だ!?」
そこへ、扉が乱暴に開かれるけたたましい音と共に、叫び声が響いた。ブレンダンは驚きに書物を落とし、家の入り口の方を向く。
そこに立っていたのは、共に故郷と名前を捨ててこの都市に腰を落ち着けた弟ヒューバートだった。剣の腕を活かし、港の倉庫などを守る用心棒として生計を立てている弟は、ひどく険しい表情を浮かべていた。
「おい、驚かせるな。何があった?」
「大変だ! 港に襲撃だ! 異国から軍勢が来やがった!」
ヒューバートの言葉を受け、ブレンダンは目を見開いて立ち上がる。
「な、軍勢だと? 一体どこから?」
「船の形から見て、多分ノーザーランド人だ! 何十隻もいやがる! 沖合にいた船が襲われてるのが見えた! あれは襲撃で間違いないぞ!」
ノーザーランド人。それは、ダリアンデル地方から西へ、船で一週間ほども進んだところにある地に住むという民族だった。
特徴的な細長い船に乗り、時おりこのダリアンデル地方にも来訪する彼らは、大抵は平和的に交易を行うが、なかには沿岸部の村を襲って掠奪をはたらく無法者もいるという。この都市ほどの規模になれば掠奪の対象とはならないので、ブレンダンにとっては、都市内で見かける様々な異邦人の一種という認識しかなかった。
それがまさか、かつてない規模で押し寄せてくるとは。それも害意を持って。
「りょ、領軍は……」
「馬鹿を言え、この領都に常駐してるのは三十人足らずだぞ! 俺みたいな雇われ用心棒を入れても、戦力はせいぜい五、六十人だ! 敵は船の数から考えて千人に届くかもしれない! 勝てるわけがないだろう!」
ブレンダンの狼狽えながらの呟きは、即座にヒューバートから一蹴される。
「敵はもうそろそろ港に上陸し始める頃合いだ! ほら、急いで逃げる準備をしろ! 今日の分の食料と金目のものだけ持て! 俺の家の前で合流するぞ!」
そう言ってヒューバートが出ていった後、ブレンダンは慌てて避難の準備を始める。荷物をまとめる作業は妻と娘に任せ、自分は息子を勤め先まで迎えに走る。
すぐ近くの商店で働いている息子は、あちらも騒動を聞いて急ぎ家に帰ろうとしていたようで、ブレンダンとは途中で合流。急いで家に戻り、荷物をまとめ終えた妻と娘を連れ、その後はヒューバートの一家と合流を果たす。
この頃には都市内は大騒ぎになっており、門へと続く大通りは逃げようとする住民や滞在者たちでごった返していた。
「ああ、まさかまた、住処を捨てて逃げることになるとは……」
「言ってる場合じゃないぞ兄貴! この調子だと逃げ遅れちまう!」
他の住民たちと押し合いながらの避難は遅々として進まず、暗い表情のブレンダンにヒューバートが怒鳴る。
混乱は門に近づくほどに大きくなり、やがて一行の中で、ヒューバートの長男が最初に異変に気付いた。
「親父! 伯父さん! なんか変だぞ! 人が前からも流れてきてる!」
「何だと!?……本当だ! どうして門の方から逃げてくる奴がいるんだ!」
ヒューバートはそう悪態をつきながら、避難の流れを逆走する者を一人捕まえる。
「おい、どうして門から逃げてるんだ!」
「ぐ、軍勢だ! 街の外に何百人もの軍勢がいて、門に近づいてきてる!」
捕まった男はそう語ると、ヒューバートの腕を振りほどいて逃げていった。
「街の外にも軍勢がいるなんて……一体どうなってる」
「多分、攻めてきたノーザーランド人どもの仲間が近くの海岸に上陸していて、港と門からこの都市を挟み撃ちにする作戦なんだろう。俺たちを逃がすつもりはないらしい」
弟の推測を聞き、ブレンダンの顔が真っ青になる。そんなブレンダンの腕を妻が揺さぶる。
「あなた、このままここにいたら押しつぶされて死んじゃうわ!」
「そ、そうだな。門から出られないのでは意味がない。とりあえず大通りを出よう!」
ブレンダンの判断で、一行は避難を諦めて隠れることにする。ヒューバートが先頭に立って人の波を押しのけ、大通りを抜けると、皆でブレンダンの家へと移動する。
そのとき。
「ぎゃあああっ!」
「嫌、誰か助けてぇ!」
絶叫が聞こえ、ブレンダンたちはそちらを向いた。そこには逃げ惑う都市住民たちと、それを追う武装した男たち――港から上陸したらしいノーザーランド人の軍勢がいた。
ノーザーランド人たちは剣や戦斧を振りかざし、住民たちを容赦なく襲う。男が肩に戦斧を叩き込まれ、老人が胸を剣で貫かれ、その妻らしき老女が蹴り倒され、頭を踏みつけられる。若い女性が髪を掴まれ、悲鳴を上げながら引きずられていく。
そして、ノーザーランド人たちの視線がブレンダンたちに向けられる。
「に、逃げろ!」
ブレンダンは叫び、それを合図に一同は一斉に走り出す。走り出して間もなく、ヒューバートが突然に倒れる。彼の背中には、投擲されたらしい戦斧が突き刺さっていた。
「ひゅ、ヒューバート!」
「俺はいいから逃げろ! 妻子を頼む!」
立ち止まったブレンダンは、険しい形相の弟から叫ばれ、一瞬ためらった後に再び走る。泣きながら夫に縋ろうとした義妹を、甥と一緒に引きずるようにして連れ、さらに逃げる。
元は小さな漁村から始まったというこの都市は、発展に伴って家屋が所狭しと乱立し、道が複雑に入り組んだ作りになっている。ブレンダンたちは何度も道を曲がり、さらには他人の家を勝手に通り抜け、ノーザーランド人たちを撒く。
そして、市壁に辿り着く。西を海に、東南北を石造りの市壁に囲まれたこの都市の、北側の市壁の前で止まる。
「そこの荷車をひっくり返そう! 足場にして壁を越えるんだ!」
ブレンダンの息子が言い、近くに転がっていた荷車を男たちでひっくり返す。市壁の高さは三メートルをやや超える程度。荷車の上にブレンダンと息子が乗り、他の皆を持ち上げて市壁を乗り越えさせていく。
周囲を見ると、同じような考えをしたらしい住民たちが市壁を乗り越える様が見える。女性たちとヒューバートの息子二人に市壁を越えさせたブレンダンは、最後に息子を持ち上げ、そして市壁の上から息子とヒューバートの長男に引っ張り上げてもらい、ついに都市の外へと脱出する。
市壁から外へ飛び降りようとしたブレンダンは、後ろを振り返る。先ほど追ってきていたノーザーランド人たちが、ついに追いついて迫ってきていた。
「い、急げ! 森に身を隠そう!」
そう言って市壁から飛び降りたブレンダンは、自身と弟の家族を連れてさらに走る。都市暮らしで鈍った身体ではそろそろ体力の限界に近いが、休んでいては死んでしまうので懸命に走る。
そして、都市の北に広がる森へと駆け込む。死に物狂いで走り続ける。先のことを考える余裕などあるはずもなく、とにかく今このときを生き延びるために走る。
・・・・・・
聖暦一〇四七年、五月二十二日。ダリアンデル地方西部沿岸の港湾都市ホールモントが、ノーザーランド人の襲来を受けた。一千を優に超える軍勢は、港から上陸する集団と、都市の南の海岸に上陸して門へと回り込む集団に分かれて包囲戦を為した。
その結果、都市住民と各地から来訪していた滞在者たちは、その大半が逃げることもかなわず虐殺され、あるいは捕えられた。都市の北側の市壁を越えて逃げたごく僅かな者たちだけがホールモントからの脱出を成し、海の向こうから軍勢が襲来したことを伝え広めた。
ダリアンデル地方の発展におけるひとつの重要な転換点となった、ノーザーランド人集団による大規模な侵略。ホールモントはその始まりの地として、歴史に名を残すこととなった。




