第8話 領地の現状②
この世界のこの時代は、ものすごく大雑把に言うならば、ミカの前世で言うところの中世ヨーロッパに似た文明や文化を持っている。植物紙の量産技術など、魔法や家畜化された魔物のおかげで中世後半かそれ以上に発展している部分もあるようだが、多くの点において、おそらく十世紀前後、中世でも前期にあたる発展度合い。
それは農業においても。現在のダリアンデル地方では、二圃制が一般的。農地を二つに分け、一方に作物を植え、もう一方は地力回復のために休耕地とし、一年毎に耕作地と休耕地を入れ替える……というやり方が普及している。前世の中世前期とまさに同じ。同じ農地で同じ作物の栽培をくり返すと収穫量が下がることは経験則として知られており、それを解消するために編み出された農法だが、ミカの目から見るとこれはひどく効率が悪い。
農地運用の効率をより高めるならば、三圃制の導入が望ましい。これは農地を三分割し、ひとつは春耕地として大麦などを栽培し、ひとつは秋耕地として小麦やライ麦を栽培し、残るひとつを地力回復のための休耕地とし、それを一年毎にローテーションする農法。
この三圃制ならば同じ農地で二年続けて同じ作物を植えることによる連作障害の心配もなく、なおかつ定期的に土地を休ませて地力を回復させることも叶い、休耕させる農地が全体の三分の一で済むので二圃制よりも農業生産力が上がる。前世の歴史では、三圃制は中世の中盤にヨーロッパに普及していったとミカは記憶している。
噂によるとダリアンデル地方南西部の一部地域ではこの三圃制と思しき農法の導入が進められているようで、なのでミカは異母兄に三圃制導入を提言したことがあるが、農業をしたこともない庶子の言葉など聞き入れられるはずもなかった。「何百年も行われているこの農法が最適だと決まっているんだ」と一蹴されて終わりだった。当然と言えば当然のことだった。
このヴァレンタイン領においても、採用されているのはやはり二圃制。この点は、前世の知識をもとに大きな改善を成す余地があるとミカは考える。
また、農業における家畜の導入も進んでいない。種蒔きの前に土を掘り返して農地を耕す際、牛や馬に重く大きい犂を牽かせれば深く掘り返すことができ、そこへ種を蒔くことで収穫量が向上するが、そうした農法はあまり普及しておらず、多くの農地が手作業で耕されている。
牛馬を用いる農法自体は知られているが、農耕のために高価な牛馬を買えるほど余裕のある土地が少ない。ミカの故郷カロッサ領でも農耕のための牛馬はおらず、十日ほど旅をした中でも、農耕に牛馬を導入しているのは都市や人口の多い村など、経済的に豊かなごく一部の土地だけだった。当然、ヴァレンタイン領では未だ導入されていない。
この点では、ミカの知る前世の中世前期よりも発展が遅れているかもしれない。原因はおそらくだが、そもそも農耕用の牛馬の飼育量産があまり盛んでないため、その前提として牛馬と犂を利用した農法に代わる収穫率向上の手段があるためだとミカは想像している。
その手段とは、魔石を肥料に用いること。
魔物には通常の動物と違い、体内に魔石と呼ばれる物体がある。というより、体内に魔石を持つ動物が魔物と呼ばれている。この魔石から魔力が生み出され、それを力の源とすることで、魔物は普通の獣よりも強く大きく賢かったり、普通の家畜よりも多くの生産物を生み出したりと、特殊な力を発揮している。植物にも、同じく体内に魔石を持ち、特殊な力を発揮するものが存在する。
ちなみに、魔法使いの体内にもこの魔石がある。魔石が魔力の源だと判明しているのは、大昔にどこかの為政者が医者に命じ、薬で眠らせた魔法使いの腹を切らせて魔石を摘出させたところ、その魔法使いは以降二度と魔法が使えなかった、という記録があるため。
魔物や魔法植物から得られるこの魔石は、薬などの材料になる他、砕いて水に溶かして農地に撒くことで、作物の収穫量を増やすことができると知られている。薬の材料になるのは珍しくて強力な魔物や魔法植物の魔石が主だが、肥料にする魔石は家畜化された魔物や辺りにありふれた魔法植物のものでも、水でかなり薄めても、目に見える効果を発揮する。
この魔石肥料を使えば、手で耕した農地でも、麦の収穫率は種籾の五、六倍ほどになる。前世の中世前期の収穫率が三、四倍ほどだったらしいことを考えるとかなり高い。狭い農地を手作業で耕していてもなんとか食べていけることが、かえって牛馬の普及を阻害しているものと思われる。
とはいえ、現状はまだまだ「なんとか食べていける」という程度。全てが人力の農業による収穫量は、飢え死にするほど少なくはないが豊かなものとも言えず、ミカの故郷カロッサ領でも領民たちは余裕のない生活を送っていた。
この村においてもそれは同じ。領民たちはもっと満腹になりたくても麦だけでは足りず、木の実から油を搾った後の残りかすや、森で拾い集めたどんぐりなどを混ぜ込んでパンの量を増やすこともあるという。ミカとしては、この現状を変えていきたい。麦ならいくらでもある、パンならいくらでも焼ける、と領民たちが言えるようにしたい。
牛馬による耕作を導入できれば、収穫率はさらに上がる。三圃制と組み合わせれば、現在の数倍の収穫量を得ることも叶い得る。
そうなれば、ヴァレンタイン領はこの世界のこの時代において、破格の農業生産力を誇ることになる。民は裕福になり、領主家たるヴァレンタイン家も裕福になる。増えた領地運営予算と余剰作物、ミカの魔法を活用してさらに開拓を進め、領地規模を拡大し、ますます豊かになる好循環を作り出せる。
この地の領主となった以上、自分には領地をより豊かにし、領民たちをより幸福にする義務がある。ただ一国一城の主となるだけでなく、より良い支配者、より優れた庇護者として生き抜かなければ、夢を最後まで完全に叶えたとは言えない。
だからこそミカは、この地において三圃制と牛馬を用いた耕作、その他にもいくつか前世の知識を用いた改革を目指すことを決意した。
とはいえ、全てをいきなり始めることはできない。一歩ずつ前進する必要がある。
「まずは、犂を導入しよう」
「……農耕用の牛や馬はいませんが、犂を買うのですか?」
困惑気味に尋ねるマルセルに、ミカは得意げに笑ってみせる。
「僕が念魔法を使えば、牛馬にも負けない力で犂を引くことができる。僕が犂を引くことで牛馬を使った農業と同じくらいの収穫量を実現できれば、皆が十分な量の麦を手に入れて混ぜ物なしのパンをお腹いっぱい食べられるし、それでも有り余る作物を売ってこの領の収入を増やせば、今より一段豊かになれるよ」
念魔法の使い方にひと工夫を加えれば、ものを持ち上げて操るだけでなく、引っ張ることも可能となる。
ミカは魔法の検証を行った際、道の脇の森で見つけた朽ち木を縄で縛った上で、縄の先端にディミトリの戦斧の柄を結びつけ、その戦斧を操って朽ち木を引っ張ることを試した。つまりは戦斧を「魔法の手」で掴むための持ち手とし、そりを引くような要領で朽ち木を引いた。すると、朽ち木は狙い通りずるずると引きずられてくれた。
元々は念魔法を使って馬なしで荷馬車を牽けるのか知るために行った検証だったが、魔法で自分が馬の代わりをやるのであれば、犂を引くこともできるはずだとミカは考えている。自分の念魔法の力は、馬一頭の筋力には大きく勝っているはずだと。
「まずはこの秋の耕作で、犂を使った耕作を早速試したいな。上手くできれば、来年の春の収穫量が例年よりも飛躍的に増えるはずだよ。そしたら、来年から目に見えて生活が楽になる」
「……なるほど。ミカ様がそう仰るのであれば、私としては異論はありません」
農地を深く耕せば収穫量が上がることは広く知られているためか、マルセルも犂を導入しての耕作に抵抗感を示す様子はなかった。
「ですが、犂も牛馬ほどではありませんが、なかなか高いものだと聞いています。前領主たちは逃げる際に、金目のものを持てるだけ持ち去った様子だったと聞きましたが……資金面は大丈夫でしょうか?」
「あー、やっぱりそうだったんだね。この館、お金も高価な品々も全然なかったから、そんなことだろうと思ってたんだ」
「ほんと、この館だけ盗賊が掠奪に入ったのかと思うくらいでしたからね」
ミカが苦笑しながら言うと、ディミトリがため息交じりに頷く。マルセルは苦い表情で「それはまた……」と呟いた。
今朝、ミカとディミトリが領主館の中を探索したところ、前領主ドンドたちが館から目ぼしい財産を持ち去った形跡が見られた。
ドンドが執務に使っていたという一室には金庫らしき鍵付きの大きな箱があったが、中は空だった。寝室からは服や装飾品が消えていた。書物も消えていた。鉄製の剣や鎖帷子などの武具類もなかった。ヘルガの話では、彼らは厨房から銀製の杯まで持っていったという。村で唯一の馬も、荷馬車を牽かせるために連れていかれたそうだった。
麦や干し肉といった食料は嵩張るので持ち去られず、なので館に住むミカたちが来年の収穫期まで飢える心配はないのが不幸中の幸い。とはいえ、本来はこの村のために使われるべき領主家の資金が全て失われたというのは、普通なら頭を抱えるべき窮地。
「でもまあ、僕には戦って手に入れた戦利品があるから。それを全部売れば、来年までは余裕でお金が足りるはずだよ。犂を買う費用も問題ないよ」
マルセルを安心させるように、ミカは笑顔で言った。
念魔法が発現した際に石で殴り殺した傭兵たちは、それなりに装備が整っていた。その半分近くを取り分としたミカの手元には、いくつもの鉄製武器や、鎖帷子、革鎧、兜、小手、ブーツなどがある。また、ディミトリは自身の取り分のほとんど――今後武器として使う戦斧以外の全てを自ら進んで献上してくれたので、それも今はミカの財産となっている。
さらに、昨日丸太を投げて殺した盗賊たちのうち、頭領の装備や服はかなり質の良いものだったので、それも売れば金になる財産と言える。
また、傭兵たちも頭領も、私財として貨幣を持ち歩いていた。かつてこのダリアンデル地方が大帝国の一部だったという頃から流通しているロメル金貨や銀貨、銅貨を持っていた。
稀少な魔法によって何らかの加工がなされているために削れることなく形を保ち続けているこれらの貨幣は、農村地帯にはあまり浸透していないものの、領主層や都市住民などには、持ち運び蓄えることのできる財産として普及している。
ミカの故郷の物価では、ロメル金貨一枚で都市部の一家が一か月慎ましく暮らせる程度だと言われていた。銀貨は金貨のおよそ二十分の一、銅貨も銀貨の二十分の一ほどの価値として扱われていた。おそらくこの地域でも、そこまで極端な違いはないはず。ミカは現在、金貨を十六枚、銀貨を百五十枚ほど持っている。
戦利品の装備類や服を売り払えば、持っている貨幣と合わせて結構な財産になる。犂など改革に必要な道具を買い集める予算としては十分に足りる。
「だから、まずは商人を頼って、戦利品の買い取りと犂の注文をしよう。それがヴァレンタイン領を発展させるための第一歩になる……ドンダンド家は領主家として商人への伝手を持ってたはずだけど、そのあたりのことは知ってる?」
「はい。前領主が税として徴収した麦を買ったり、都市部で作られた日用品などを売ったりするためにこの村へ来ていた行商人が何人かいます。その中で……私の主観にはなりますが、この人は誠実でまともな人物だろうと思える若い商人がいます。彼は二か月に一度ほどここへ来ますが、しばらく来ていないので、そろそろまた来るのではないでしょうか。この辺り一帯に盗賊が増えているのであれば、治安が落ち着くまで待つのかもしれませんが」
「そっか。それじゃあ、とりあえずその商人が来るのを待ってみよう」
秋の耕作の時期までは、まだしばらく猶予がある。今はひとまず村でできることをしながら、商人の来訪を待つことで話はまとまった。