第76話 ディートリヒの野望
ダリアンデル地方南部の北西地域には、その地域の覇権を巡って争う二つの大領地がある。
否、あった。それぞれ大領地を治め、数十年にわたっていがみ合ってきた二つの領主家は、ついに一方が勝利を収め、もう一方は滅びた。
勝者は北のアルデンブルク家。数年前の大規模な衝突で勝利を収めたアルデンブルク家は、勝利から間もなく病で世を去った先代に代わって当主となったディートリヒ・アルデンブルクの下で、さらなる攻勢の計画を立てた。敗戦による弱体化と混乱から立ち直っていない南のイルマシェ家の居城へ侵攻したディートリヒの軍勢は、まともに兵を集めることもできなかった城を容易く陥落させ、イルマシェ家の当主とその家族親族を皆殺しにした。
こうして、聖暦一〇四五年の秋、イルマシェ家は滅亡。その領地はアルデンブルク家のものとなった。旧来の領地と合わせ、人口規模で言うと一万数千人を支配する大領主となったディートリヒは、倍ほどにまで膨らんだ領地の支配を安定させるために奔走する日々を送っていた。
「閣下、旧イルマシェ領内の村落と徴税記録について、整理が終わりました。ご覧ください」
「ご苦労だった。どれ、見せてみろ……ははは、やはり、我が領に匹敵する程度には裕福だな。これが全て私のものか」
現在はアルデンブルク家のものとなった、かつてのイルマシェ城。その広間で当主の椅子に深々と座るディートリヒは、側近の一人である文官より受け取った書類に目を通して言う。
齢四十を超えているディートリヒだが、身体は若い頃と変わらず精悍。よく整えられた漆黒の髪と口髭も合わせて、見る者に強き為政者の印象を与える容姿をしている。そこに不敵な笑みが浮かぶと、静かな迫力が生み出される。
「この地が安定し、この税収も私のもとに入るようになれば、いよいよ一帯におけるアルデンブルク家の地位は不動のものとなる。そうなれば……国が作れるな」
ディートリヒのその呟きには、深い感慨が込められる。
「誠にめでたきことと存じます。我ら家臣一同としても、これ以上の喜びはございません」
「閣下のご構想がいよいよ現実のものとなりますな!」
文官と、傍らに立つ領軍隊長の言葉に、ディートリヒはますます上機嫌に笑う。
「ははは! まったく、俺は本当に運が良い。先祖たちが苦労して築き上げた成果の上に、先祖の誰も成し得なかった偉業を成せるのだから」
アルデンブルク家は、古の大国が崩壊した後の百年の暗黒時代、その終盤に興された。ディートリヒは祖父や父よりそう語り聞かされている。
始まりは、人口二百人にも満たない村ひとつの小領地だったという。そこから代々のアルデンブルク家当主たちは少しずつ、努力と幸運の併せ技で領地規模の拡大を成していった。祖父の時代には数千の民を従えるようになり、そして父の時代に、近しい位置にいた有力領地を奪取。人口およそ七千と、誰の目にも大領主として映るほどに勢力を増した。周辺の小領主家を従属させ、彼らの力も借り、父より家督を継いだこの自分が最後の強敵たるイルマシェ家を打ち倒した。
これで、アルデンブルク家とまともに戦える領主家は周囲にいなくなった。アルデンブルク家の為すことを妨害できる領主家は存在しなくなった。この状況はすなわち――自分が王を名乗れることを意味する。
領主ではない。王になる。周囲の領主家を単に従属させるのではなく、明確に服従させる。これまで長らく王のいなかったダリアンデル地方で、自分が最初に王となる。
それはディートリヒの夢だった。代々のアルデンブルク家当主たちが、百年以上もかけて力を蓄え、勝利を重ねたからこそ、自分はこの夢を実現できる。なんと恵まれた運命のもとに生まれたのだろうと、ディートリヒは考えている。
「閣下。奥方様とお嬢様が城に到着されました」
そこへ新たに声をかけてきたのは、広間に入室した領軍騎士だった。その報告を受け、ディートリヒは喜色を浮かべて椅子から立ちあがる。
「おお、来たか! すぐに連れてきてくれ!」
主人の言葉を受け、退室した騎士は間もなく、領主夫人と令嬢を広間へ案内する。自身の偉業の結果を見せるため、アルデンブルク家の居城よりこの城へ呼び寄せた二人へ向けて、ディートリヒは両手を大きく広げる。
「レーネ! リーゼロッテ! 二人ともよく来たな!」
領主夫人レーネは微笑を浮かべてディートリヒへ歩み寄り、一方でまだ八歳の令嬢リーゼロッテは、はしゃいだ様子で父のもとへ駆け寄る。
「お父様!」
「さあおいで! 最愛の娘よ!」
飛びついてきたリーゼロッテを、ディートリヒはしっかりと受け止める。そのまま抱え上げた愛娘の額と頬に口づけする。
「あなた、この度の戦い、ご苦労さまでした。イルマシェ領の征服おめでとうございます」
「ああ、私はついにやったぞ。これもお前が支えてくれたおかげだ」
ディートリヒは続いて最愛の妻と言葉を交わし、口づけを交わす。
「お父様、悪いイルマシェ家を倒したのね!」
「そうだぞ。イルマシェ家のものであったこの城に、今私たちがいることがその証左だ! これで我がアルデンブルク家に逆らう者は、この辺りにはいなくなった。私たちの勝利だ!」
「お父様すごい! お父様大好き!」
「はははっ! そうかそうか! 私もリーゼロッテが大好きだぞ! 約束通り、もうすぐお前をお姫様にしてやるからな!」
ディートリヒがそう言うと、無邪気なリーゼロッテは歓声を上げて喜ぶ。
このリーゼロッテが生まれてから、ディートリヒは王になるという野望を抱くようになった。最愛の娘に何か特別な、偉大なものを残してやりたい。我が子のために、他の誰にも成せないことを成す、ダリアンデル地方一の父親になりたい。そんな強烈な欲求が、ディートリヒを王への道へと駆り立てた。
立ちはだかる悪い奴らを倒し、お前をお伽噺に出てくるようなお姫様にしてやる。リーゼロッテがもっと幼い頃から彼女に語り聞かせた約束を、ついに叶えてやることができる。その事実も、ディートリヒの感慨をより深くする。
「さあ、リーゼロッテ。長く馬車で移動して疲れただろう。快適な部屋を用意してあるから、少し休みなさい。夜はご馳走を用意させるからな」
そう言って愛娘を妻に預け、客室へと送り出した後。父親の顔から領主の顔へと戻ったディートリヒは、再び側近たちの方を向く。
「それで、兵力の維持の方はどうだ?」
「……やはり、現状のままでは難しいかと。旧イルマシェ領はもちろんのこと、アルデンブルク領も、農村地帯はこれまでの戦いでそれなりに疲弊しておりますので」
「そうか、予想通りだな」
文官の言葉を受け、ディートリヒは思案の表情を浮かべる。
イルマシェ家を滅ぼすため、ディートリヒは大規模な軍勢を作り出した。領軍を中核とし、傭兵や、農家の次男以下の者などを集めた軍勢は、総勢で六百に届く。皆、ディートリヒに従っていれば掠奪や報酬の受け取りで良い思いができると考えて集まった、野心的で好戦的な連中。
ディートリヒとしては、この軍勢をこのまま解散させたくはない。元は素人揃いだったが、実戦を経験してそれなりに頼れる戦力になってきた上に、実際にディートリヒの指揮下で数多の掠奪品や報酬を得たことで、領主への忠誠心も持ち始めている。
実戦経験と忠誠心を持ち合わせた六百の軍勢。今後、自分の王国を築き守る上でこの上なく心強い戦力となる。
しかし、拡大したとはいえ人口が一万数千ほどの領地で、それもこの数年の戦争によって疲弊した社会で、六百もの兵力を養うのは簡単なことではない。文官の報告は妥当なものだとディートリヒ自身も考えている。
「閣下の王国が成立すれば、税収に加えて支配下の領主たちからの貢物も得られるでしょうから、六百の軍勢も十分に養えるでしょう。となると、それまで一、二年ほどの兵力維持費を捻出すればよいことになります……掠奪にて賄いますか?」
「戦いは終わったのにか? 大義名分もなく、ただ他領へ掠奪に赴くなど……いや、待てよ。戦いが終わっていないことにすればいい。敵がまだいることにすればな。マグリーニ家とその姻戚連中に、最後の敵となってもらおう」
マグリーニ家は、アルデンブルク領の南東方向、旧イルマシェ領から見れば東の方に領地を持つ有力領主家。これまでは二つの大領主家と上手く付き合っていたが、当代マグリーニ卿はイルマシェ家への肩入れが著しかった。
そして、イルマシェ家が敗北したことで、マグリーニ卿の選択は間違っていたことになった。
「マグリーニ家と姻戚どもを潰すことで、アルデンブルク家に敵対した一派の末路がどうなるのかを、旧イルマシェ領の周囲の小領主どもに見せつける。そうすれば、当面この私に逆らおうとする者はいないであろうし……私の軍勢は掠奪の成果物によって養われる」
占領して統治し、税を集めるのは時間も手間もかかる。六百人分の生活物資や報酬を用立てるのは恐ろしく大変なこと。しかし、掠奪ならば話は早い。いつまでも掠奪で兵を養うわけにはいかないが、当面の金策としては問題ない。
六百の軍勢を維持し、不愉快な領主家の小派閥を潰す。我ながら良い策だ。ディートリヒはそう考えながら、不敵に笑んだ。




