第74話 無事の帰還
ランゲンバッハ軍は瓦解しながら敗走し、それから間もなく、軍の全滅と自身の戦死を恐れたランゲンバッハ卿より講和の申し入れがなされた。
話し合いはランゲンバッハ卿が多額の賠償金を支払うことで結着がつき、政治的にもランゲンバッハ家は大敗したかたちとなったという。
「おそらくランゲンバッハ家は、今回の敗戦による損害で、ストラウク領を征服して得た利益のほとんどを失ったことだろう。これほどまでに無様な大敗をしたとなれば、傘下の小領主たちへの影響力も低下するはず。当面の間、エルトポリ経済圏の脅威となることはあるまい」
ヒューイット城の中庭で開かれている戦勝の宴の場。ミカにそう語ったのは、この城の主人であり、今回の戦いにおける名目上の大将であり、ミカの義父であるパトリックだった。
ミカはパトリックやサンドラの親族とはいえ、一介の小領主に過ぎないため、ランゲンバッハ家との講和会談にはさすがに出席できなかった。なので今、講和の内容を詳しく教えてもらっている。
「では、ひとまず安心ですね。アイラの故郷に再び安寧が訪れて何よりです」
「あれほどの大勝利を成すことができたのも、長射程の投射武器を数多く投入するというユーティライネン卿の試みが功を奏したからこそだ。彼女は戦においても傑物だな。忘れ去られた遥か昔の戦術を信じ、その有効性を証明して現代に復活させるなど、並の度胸ではできない」
パトリックは言いながら、サンドラの方へ視線を向ける。彼女は現在、この機会にユーティライネン家当主と少しでも親しくなろうと集まる小領主たちと話すことに忙しい様子だった。
「それに、ヴァレンタイン卿の活躍にも大いに助けられました。噂には聞いていましたが、貴方の念魔法の力は凄まじいですね。一人であれだけの働きを成せるとは」
パトリックに続いてそう語ったのは、彼の嫡女で、アイラの姉にあたるグレンダ・ヒューイットだった。
領主は自ら軍を率いて領地を守るからこそ領主たり得る。彼女は次期領主としての器を示すために、今回の戦いでは騎兵部隊を率いて戦った。敵騎兵部隊を牽制し、追撃の際は自ら騎兵たちの先頭に立って突撃を敢行したという。
「恐縮です。ヒューイット家の姻戚として、お役に立つことができて幸いでした」
「……ところで、アイラは元気にしているか?」
パトリックは話題を変え、そう尋ねてくる。こうして戦いを終えるまでは、特に大将である彼やその継嗣であるグレンダは相当に忙しかったため、このように落ち着いてミカと私的な話をする時間もなかった。
「はい。当家の家臣や領民たちとも相変わらず仲が良く、穏やかに暮らしています。少し前には懐妊が判明しました。今度の冬のうちに、アイラと僕の第一子が生まれる予定です」
「ほう、そうか……あのアイラも、人の親になるのか」
パトリックは呟くように言い、感慨深げに息を吐く。
「きっと亡き母も、神の御許から今のアイラを見て喜んでいることでしょう。貴方に妹を任せて本当によかった。心からそう思っています」
ヒューイット家嫡女ではなく、ただアイラの姉として柔らかな表情で語ったグレンダに、ミカは微笑を返した。
・・・・・・
「おー、懐かしの我が領、やっと見えてきたね……本当に、全員無傷で帰ってこれて何よりだよ」
戦いを勝利で終え、ヒューイット領からの帰路を進んで四日。細い道の先、森の木々の間から見えるヴァレンタイン領の景色を馬上から眺め、ミカは感慨深げに言った。
今回の戦いで、ミカやディミトリ、補佐を務めた領民たちは、接近戦をせずに済んだ。また、騎兵部隊に参加していたヨエルも、最後の一斉突撃は撤退する敵を一方的に蹂躙するような状況だったため、重装備の助けも受けてほぼ無傷で戦いを終えている。
こうなる可能性が高かったとはいえ、何が起こるか分からないのが戦争。自分はもちろん、家臣や領民たちを全員無事に故郷に帰すことができて、ミカはほっとしている。
「帰ったら、ヨエルが正式な家臣になったことを皆に知らせないとね」
「ありがとうございます、閣下」
ミカの言葉に、軍馬カティヤの傍らを歩くヨエルが答える。いつも冷静で生真面目な彼にしては珍しく、その声には分かりやすく上機嫌が乗る。
ランゲンバッハ軍に自ら突撃し、かつての主家を滅ぼしたランゲンバッハ家との因縁に決着をつける。その目的を達成したヨエルは、戦闘の終了後、ミカからヴァレンタイン家家臣への任命を受け、忠誠の誓いを立てた。
これで、ヴァレンタイン家には武門の家臣が二人、文官が一人、仕えることとなった。この調子で領地規模と共に家臣団の規模も拡大し、いずれは領軍と呼べる常備兵力を抱えたい。そうすれば領地領民を守ることも、新たな収入源である砂糖産業を守ることも今よりずっと容易になる。それがミカの考えだった。
話しているうちに、一行はヴァレンタイン領に到着。ルイスを先触れとして送っていたので、領民たちのうち手の空いている者たちが出迎えに集まってくれている。
その先頭にいるのは、ミカの愛しの妻アイラだった。傍らにマルセルやビアンカを従え、腕の中にはいつものようにぬいぐるみのアンバーを抱えて立っている彼女に、下馬したミカは歩み寄り、互いに笑顔を浮かべる。
「ヴァレンタイン閣下、ご無事でのお帰り、何よりと存じます」
「ありがとう。皆も、出迎えご苦労だったね」
領主夫人としての立場で言ったアイラに、ミカも領主としての立場で答え、彼女の周囲に並ぶ家臣たちや後ろに並ぶ領民たちにも呼びかける。家臣と領民たちは、慇懃に一礼してそれに応える。
そうして帰還の挨拶を終えた後、ミカとアイラは夫婦の顔になり、抱き締め合う。
「おかえりなさい、ミカ。無事で本当によかった」
「ただいま、アイラ。今回は何も危険なことはなかったよ。ヒューイット卿やグレンダ殿がよくしてくださったからね」
ヒューイット軍は大勝利を収め、ヒューイット領の被害は皆無に等しい。パトリックやグレンダをはじめとしたヒューイット家の者たちも無事で、もちろんサンドラも無事。領主館に入りながらミカがそう語ると、アイラは安堵の表情を浮かべる。
「それに、アイラが幸せに暮らしてるって聞いて、二人とも安心してたよ。アイラの懐妊を報告したら、すごく優しそうな顔で喜んでた……アイラのお母様も、きっと今のアイラを見て喜んでるだろうって」
「……そうね。私がどんどん幸せになっていくことを、きっとお母様も喜んでくれてるわ」
そう言って、まだほとんど膨らみのない腹部を撫でながら、アイラの目元から涙が一筋流れる。
「この子が生まれたら、いずれお父様とお姉様にも会わせてあげないと」
「そうだね。そのときは家族皆でヒューイット領に行こう。僕も今度は、平和な用事であの土地に行きたいから」
誕生に向けて順調に育っている我が子を思いながら、ミカとアイラは言葉を交わす。
幸福な出来事の前には思わぬトラブルが付き物だが、それも無事に乗り越えた。自領には一切の被害が及ばず、自分や家臣や領民たちも無事のまま、大変な仕事を終えた。
もう大丈夫だ。自分が関わる範囲内で、大きな戦いが年に何度も起こることはない。ミカはそう信じている。




