第67話 冬は去り
ミカがヴァレンタイン領の領主となって三度目の冬は、馬術や武芸や魔法の訓練、そして領地規模拡大のための作業をこなしているうちに過ぎていった。
作業では古参の領民たちはもちろん、ヨエルたち新領民が最大限の働きを示した。彼らはこれから自分たちが暮らすことになる家屋を建設し、自分たちが働く場となる農地を作るために森を開拓した。職人たちの仕事場となる工房も建てられた。
彼らの消費する食料は、領主家の倉庫に置かれている備蓄から放出されている。ミカは非常時に備え、三十人が次の収穫まで食べていける量の麦や干し肉を倉庫に蓄えているので、ヨエルたちを養ってもなお余裕はある。
新領民たちの精力的な働きに加え、ヨエルの土魔法――魔力を用いて土や石を意のままに動かすことができるので、主に土木作業において真価を発揮する魔法とされている――のおかげもあり、諸々の作業は迅速に進行。冬の後半には早くも鍛冶と木工の工房が完成し、職人たちが仕事を開始した。鉄製品の製造に関しては鉄鉱石の輸入を待つことになるが、農具などの整備や、木工製品の製造は可能となった。
外から舞い込んだ偶然の出会いに助けられ、自領が急速に発展していくことに大きな満足感を覚えながら、少しずつ近づいてくる春の気配を感じていたある日。一日の作業を終えて領主館に帰宅したミカとディミトリを、彼らの妻――アイラとビアンカが迎えた。何やら嬉しそうに笑みを浮かべながら。
「お帰りなさい、ミカ」
「ただいま、アイラ……君もビアンカも楽しそうだね。何かあった?」
ミカが尋ねると、アイラは意味深な笑みを深めながら頷く。
「ほら、これを見て」
そう言って、アイラはその場でくるりと回る。長く艶のある綺麗な黒髪がふわりと揺れ、後ろ髪に結ばれたリボンがミカの方へ向けられる。
「あっ、この冬に作ってた新しいリボンか。完成したんだね。すごく素敵だよ」
この世界のこの時代、主に男性が屋外での重労働を担う一方で、女性は屋内での仕事を担うことが多い。糸を紡いで布を作ることは、女性の重要な仕事のひとつとされている。
裕福で人口も多い大領地ならばともかく、ヴァレンタイン領のような小領地の場合、領主夫人も他の領民たちと同じように仕事を担う。アイラもこの冬は領地運営の事務作業の傍らで布作りに励み、その際に自身の趣味である装飾品作りを少しずつ進めていた。ミカは時おり彼女から進捗を聞き、製作途中のリボンを見せてもらっていた。
遂に完成したらしいリボンは、精緻なレースが縁を飾り、とても繊細で美しい出来栄えだった。
「ふふふっ、ありがとう。我ながら素晴らしい出来栄えになったわ。最高傑作と言ってもいいくらい……それに、私だけじゃないのよ?」
そう言ってアイラが視線を向けると、ビアンカもその場で後ろを振り返る。と、彼女の髪もリボンで飾られているのが分かった。
「アイラ様に教えていただきながら作ったんです。アイラ様のリボンほど繊細で綺麗なものにはなりませんでしたけど……ディミトリさん、どう? 似合ってる?」
ビアンカに問われたディミトリは、少し困った顔でミカの方を向いた。伴侶を褒めてあげるようミカが視線で促すと、ビアンカの方に向き直った彼は頷く。
「あ、ああ。よく似合ってると思うぞ……こんな細かい模様のリボン、ビアンカが自分で作ったんだな。凄いじゃないか」
「本当? 褒めてもらえてよかった、嬉しいわ」
褒め言葉としては少々不器用だったが、ビアンカは満足したようで、花が咲いたように笑った。
「私の持ってるリボンにビアンカさんも興味を持ってくれたの。それで、この冬の間に一緒に作り進めてたのよ。こうして一緒にリボンで髪を飾ってるところを見せて驚かせたかったの」
「そうだったんだ。リボンを愛する仲間が増えてよかったねぇ」
ミカの言葉に、アイラは嬉しそうに頷く。
「ええ、これでビアンカさんも同志よ……次は二人で一緒に、ヘルガさんに贈るためのリボンを作ることにしたの」
「こんなお婆さんにこんな綺麗なリボンを作ってくださるなんて、畏れ多いことですよ」
「そんなことありませんよ。ヘルガさんだって女の子なんですから」
ビアンカの言葉に、ヘルガは「あらあら、そんな」と言いながらも満更でもなさそうに笑う。
アイラとビアンカとヘルガ。領主館に暮らす女性たちはいつも仲良さげで、それはこの館の主であるミカにとっても喜ばしいことだった。
以降、ヴァレンタイン領では髪をリボンで彩る習慣が徐々に広まっていくことになる。髪のみならず首元や手首などにリボンを巻くことも流行り、その流行は次第に周辺の領地へと少しずつ広まっていき、この地域に特徴的な文化のひとつとなっていく。
しかし、それはまだしばらく未来の話。自身の装束がそうして新たな文化を築き上げていくことを、アイラは知らない。
・・・・・・
冬明け直前の二月末。ミカは社交のため、東隣のフォンタニエ領へ赴いていた。
フォンタニエ領の領主ピエールは、やや神経質な一面はあるものの、常識的で賢い人物と評されている。そんな気質に似合っているというべきか、彼は文学に明るいことでも知られている。
そのピエールから晩冬に届いたのが、詩を詠む集会への誘い。彼は一、二年に一度ほど周辺の領主を集めてこのような会を開いているという。
ミカは喜んで参加させてもらう旨を伝え、当日にフォンタニエ領を訪問すると、そこには見知った顔ぶれもあった。ピエールは概ね徒歩で一日の範囲に領地を持つ領主たちを招いているようで、ローレンツ・メルダースやダグラス・コレット、そしてミカが昨年の戦いで共闘した、メルダース領の東隣に領地を持つ領主などがこの詩会に参加していた。
参加者たちがフォンタニエ城の広間に集合し、お茶や食事が振る舞われた後、詩会は始まる。
「それでは、詠ませていただきます…………初春の明朝、澄んだ薄明に浮かぶは幼き頃の思い出。懐かしき日々はもはや遥か遠く、地平の向こうへ。そして時の向こうへ。あの景色に帰ることは叶わずとも、新たな春が我が心を慰める」
皆の注目を集めながら、少々緊張した面持ちで、ミカは自作の詩を詠み上げた。
「……おぉ、素晴らしい! 何とも懐かしい気持ちになるし、今の季節ともよく合った詩だ! ヴァレンタイン卿には魔法だけでなく詩作の才まであったとは!」
そう感想をくれたのは、ミカの個人的な友人でもあるローレンツだった。手放しでの称賛に、ミカは照れ笑いを返す。
他の領主たちからも、口々に褒め言葉が続く。どうやら皆、世辞ではなく本心から称賛してくれているようで、ミカも満更でもない表情になる。
「確かに素晴らしい。この時期の、特に明け方の澄み渡る空気感が、過去への懐かしさと一体になることでより印象強く思い浮かぶ。それに、遠い過去の思い出と共に遠く彼方にある故郷を懐かしむことで、郷愁が生まれているところも良いな。ここから遠い北部の出身であるヴァレンタイン卿だからこそ詠める詩だろう。ただ懐かしさを感じるだけでは終わらず、春の訪れに合わせて未来への希望を感じさせる前向きな締め方も見事だ」
「文学への造詣が深いフォンタニエ卿からもそのように評していただけるとは、恐縮です。素人が見よう見まねで作った詩ですが……」
「いや、これは本当に良い作品だ。心からそう思う」
主催者であるピエールはそう言いながら、しばし思案する様子を見せ、そしてまた口を開く。
「ヴァレンタイン卿。私は今、詩歌集を作っているのだが、卿のこの詩もぜひ載せたい。もちろん作者である卿の名と共に。如何だろうか?」
「それは……大変光栄なお話です。私としても、文学作品の中に自分の名前と詩が残るというのは嬉しく思います」
ミカは驚きに小さく片眉を上げながら、口元には笑みを浮かべて答える。
「では、そうさせてもらおう……次はコレット卿の詩を聞かせてもらおうか」
ピエールの言葉で、ミカの左隣に座るダグラスに皆の視線が集まる。
「おお、いよいよ儂の番だな。では詠むとしよう……春の息吹は大地を起こす。凍てついた冬が過ぎ去りし後、天を目指さんと育ちゆく草花や作物たちは、春の訪れを何よりも力強く感じさせてくれる。その勇ましさを見ながらふと思い立つ。我が股の間の――」
ダグラスの詠み上げた詩は、様々な意味で衝撃を生んだ。お茶を飲みながら聞いていたミカが盛大に咽る右隣で、ローレンツは爆笑した。他にも何人かが笑い、残る何人かは顔をしかめたりやれやれと首を振ったり、不自然な無表情を貫いたり。そして主催者であるピエールは、呆れたようにため息をついていた。
ダグラスのこの詩が詩歌集に載ることはなかったが、一同の記憶には残った。




