第66話 家臣マルセル/念魔法の進歩
年が明け、一月の中旬。ミカはマルセルを領主館に呼び出した。重要な提案をするために。
「実は……君に我がヴァレンタイン家の正式な家臣になってもらいたいんだ。君さえよければ、今年から文官としてヴァレンタイン家の領地運営を補佐しつつ、農業を統括してほしい」
館の大部屋。テーブルを挟んで向かい合うマルセルに、ミカはそう切り出す。
「予定より早く領地の人口が増え始めて、僕の計画通りに事が進めば今後はさらに増えていくことになる。そうなれば、平時の領地運営に加えて家屋建設や農地拡大を進めることになって、行政の管理が今より数段大変になる。それに、今のところは順調に進んでいるとはいえ、古参領民と新領民の融和にもこれから気を配って、何かあればすぐに対応できるよう領内社会を細やかに観察していかないといけない」
ミカの説明を、マルセルは神妙な面持ちで聞いている。あまり驚いているようには見えない。おそらく、いつかこのような日が来ることをある程度想像していたのか。
「そして、領内の農業がさらに大規模になって、食料生産に余裕ができた分、燕麦や甜菜やその他の商品作物も栽培するようになれば、その管理もより厳密に進めないといけなくなる……こうなると、僕とアイラだけだとそう遠くないうちに領地運営の手が回らなくなるだろうし、君も自分の農作業の傍らで大規模な農業を統括するのは大変になってくるだろう。だからこそ、君に専業の文官になってもらいたいんだ。もちろん、相応の待遇で迎えるよ。今までよりも収入が増えるようにするし、領地の発展に伴って給金はさらに増やしていくよ」
「私が、領主家の正式な家臣に、ですか……」
マルセルは神妙な表情のまま、噛みしめるように言った。
「どうかな? 悪い提案ではないと思うけど」
ミカの問いかけに、マルセルは少しの間を置いて頷く。笑みをたたえながら。
「喜んでお受けさせていただきます。ヴァレンタイン家の忠実なる臣として、私も妻も、子々孫々に至るまで、懸命に努めてまいります……正直に申し上げますと、こうして領主家にお仕えするのが子供の頃からの夢でした」
後半は照れ笑いを浮かべながら言ったマルセルに、ミカも笑みを返す。
彼が一般平民よりも上の立場を求めていることは、ミカも領主として察していた。身分への野心というよりは、己が有能であることを証明したいというプライドから、そのように願っているのだろうと理解していた。
前領主ドンド・ドンダンドは己の妻子に加えて家臣兼親戚である弟一家がおり、仕事を任せられる相手が多かった。おまけに村は人口規模が小さかったために、マルセルが単なる領民の顔役以上の存在になれる見込みはなかった。
しかしミカには今のところアイラ以外の家族もおらず、家臣のディミトリは専らミカの護衛や身の回りの世話が担当。順当にいけばいずれ正式な家臣に登用される予定のヨエルも、元騎士の経歴を活かした武官として、また土魔法の才を活かした屋外での労働力として期待されている。これから領地がどんどん拡大していけば、領地運営の補佐や主産業たる農業の管理、領民の監督をこなす文官は必須。今この地でその仕事を任せられるのはマルセルしかいない。
これでようやく、彼の能力や忠誠に正当な対価を返せる。ミカはそう考えている。
「君の夢を叶えることができて、僕も領主として嬉しいよ。あらためてこれからよろしくね」
この日から、マルセルはヴァレンタイン領の社会を支える屋台骨として、ますます重要度を増していくこととなった。
・・・・・・
三年前に念魔法の才に目覚めて以来、ミカは時間を見つけては、魔法の練度を高める訓練を行っている。念魔法における最大の制約――人が身に着けているものを「魔法の腕」で掴むことはできない、というデメリットを解消するために。
その試みは徐々に成果を発揮しており、以前と比べれば制約は解消されている。
「それじゃあ、いくよ…………それっ!」
領主館の裏庭。ディミトリの右手に握られた戦斧に向けてミカは意識を集中させ、念魔法を発動する。「魔法の腕」はディミトリの手から戦斧をもぎ取り、ミカの意識の支配下に置く。
かかった時間は三秒ほど。かつては十秒以上も要していたことを考えると、とても大きな進歩と言える。
「お見事ですね。私が以前会った念魔法使いと比べても、閣下のお力は素晴らしいと思います。ただ強いだけでなく、他者の手の中にある武器をこれほどの短時間で奪い取るとは」
訓練の様子を見てそう言ったのは、家臣候補のヨエルだった。
「あはは、ありがとう……まだまだ実戦で使えるような代物じゃないけどね」
答えるミカの顔には微苦笑が浮かぶ。
以前と比べれば成長し、平均的な念魔法使いと比べて能力的に秀でていることも事実だろうが、この器用さが実際の戦闘で役に立つかと言われればそれは難しい。四メートル以内の距離にいる敵が、三秒以上も棒立ちでいてくれるとは思えない。
これでディミトリが周囲を動き回っていると、その装備を「魔法の腕」で掴むには倍以上の時間を要する。ますます実戦では使いものにならない。
「この調子で訓練を続けていけば、将来的には、近づいてくる敵の武器を奪ったり、即座に転ばせたりするくらいのことはできるようになる……といいなぁ」
おそらく、目で追えない速さでくり出される攻撃を受け止めたり弾き返したりすることは、一生かかってもできそうにない。しかし、周囲にいる敵の武器を奪って無力化したり、足を掬ったりする程度のことができれば、その技術が実戦で役に立つ日が来るかもしれない。ミカはそう考えながら、訓練を続けている。
「人の身に着けている物に対して自在に魔法を行使できるようになれば、念魔法使いの能力としては異例と言えるでしょうな」
「やっぱり、そのあたりが能力向上の最高到達点だと考えるべきかなぁ。生き物を直接操ることは絶対に不可能みたいだし、空を飛ぶことは諦めたし」
「そ、空を飛ぶ? そんなことを試したのですか?」
「あのときのミカ様は凄かったぜ。木板の上に乗って、俺の身長よりも高く浮いたんだ」
ぎょっとした表情になるヨエルに、ディミトリが楽しそうに言う。
「危うく木板ごとひっくり返りかけたけどね。あれはもう試したくはないなぁ」
そのときのことを思い出して笑いながら、ミカは呟くように言う。
念魔法において、他者が何かの上に乗っている程度であれば「そのものと一体である」とまでは意識されないようで、人が乗ったものを魔法で操ることは問題なくできる。この使い方ならば、負傷者を荷車に乗せて運んだり、木板などに人を乗せて浮かせ、高さ数メートル程度の城壁を乗り越えさせたりすることができる。
しかし、人が乗ったものを操ることができるのは、他者に関してだけ。ミカ自身が乗っているものを「魔法の腕」で操ることは、試してみたが極めて難しかった。
己の足で歩きながら魔法を使うことには何らの問題もないが「魔法によって自身のいる位置を動かす」ことでこの問題が起こるようだった。魔法の基準点たる己の位置を、魔法そのもので動かしているからか、意識に多大な混乱がもたらされて魔法の発動がひどく不安定になった。
そのため、例えば自分が乗った荷馬車を魔法で牽き、馬いらずで馬車移動をするようなことは非現実的。また、自身が乗った木板などを魔法で操り、魔法の絨毯のように空を飛ぶ……というのも難しい。足元の不安定さに恐怖を覚え、そうすると意識が乱れてさらに魔法発動が不安定になり、以前挑戦した際は二メートルほどの高さから地面に落ちかけた。
自分を動かそうとした途端にここまで念魔法が不安定になるのであれば、下手をすれば二メートルどころか一メートルの高さでも、勢いよくひっくり返って首を折って死にかねない。こんな無茶な魔法の使い方を練習していては、習熟するまでに命がいくつあっても足りないだろう。
多大な危険を冒して空を飛ぶことを目指すより、森の木を一本でも多く伐採し、家屋や柵を作るための丸太を一本でも多く立てた方が、よほど領地発展や防衛の役に立つ。現時点でも十分以上に念魔法は効果的なのだから、今後も「魔法の腕」で半径四メートルの範囲内のものを操る魔法として使うに留めるべき。ミカはひとまずそう結論づけている。
「今度は移動してる相手の武器をとる練習をしよう。ヨエル、敵役をやってみる?」
「是非やらせてもらいます。念魔法で武器を取られた経験はないので、どんなものか楽しみです」
ヨエルはそう答え、ディミトリと交代してミカの前に立つ。
冬もそろそろ後半。午後の青空の下、ミカは地道な訓練を続ける。




