第65話 元騎士の指導
ヨエルたち十六人の新領民を迎え、ここ数年で新たに生まれた子供たちも合わせると、ヴァレンタイン領の人口は百二十人を超えた。
新領民たちは無理に押し込めば全員が丸太小屋に収まるが、さして大きくない小屋は、十六人の生活の場としてはさすがに手狭で不便も多い。このまま冬の数か月を過ごさせるのは気の毒だと考えたミカは、ヨエルの土魔法や新領民たちの人手も活かし、新たに数軒の小屋を建てた。
急ごしらえの掘っ立て小屋だが、中にはダリアンデル地方における標準的な暖房設備である囲炉裏も備え、とりあえず冬の寒さと風を凌ぐことはできる。きちんとした家屋は今後少しずつ建てていくことにして、今のところは小屋に新領民たちを収めたところで、本格的な冬が到来した。
農地の世話。森の開拓。ミカの城や新領民たちの家屋、職人たちの仕事場などの建造。非常時の自衛訓練。例年と同じく晴れた昼間に屋外作業をこなし、それ以外は屋内で過ごす穏やかな冬の中で、ミカは新たな取り組みも始めた。
それは、ヨエルを教師とした馬術の訓練だった。
「重心を下げることを忘れないようお気をつけください。怖がらずに鐙にも体重をかけて、しっかりと踏ん張って……そうです、その調子」
「お、おぉ……さっきまでよりだいぶ安定した感じがするよ」
結婚祝いとしてヒューイット家当主パトリックからもらった軍馬。その背に乗り、手綱を操って速歩で進みながら、ミカは言った。その表情はやや硬いが、口元には安堵の笑みが浮かぶ。騎乗したミカの隣を、本来は犂を牽くのが役割である農耕馬に乗ったヨエルが進む。
ミカは一応領主家の生まれだが、生家では馬に乗る機会などほとんど与えられなかった。そしてこの村には、馬の乗り方を指導できる者がいなかった。老使用人イヴァンは馬の世話の仕方や荷馬車の操り方は心得ているが、馬に騎乗しての操縦の知識はほぼなかった。
そのためミカは、生家で異母兄や家臣たちの訓練を観察した記憶と、書物の知識をもとに軍馬に乗る練習を続けていたが、数か月練習しているわりには上達が遅いことは自覚していた。馬を歩かせる程度のことはできるが、地勢も不安定な戦場で自在に走り回ったり、いざというときに全速力で逃げたりすることはまだまだできそうになかった。来年あたり、ユーティライネン領かメルダース領あたりから指導役を招こうかとも思っていた。
しかし、ヨエルがこの村に来たことで、指導者不在の状況は解消された。元は魔法の才を見込まれての登用とはいえ、大領主家に仕える騎士だったヨエルは、馬術に関して十分以上の技能を備えている。そんな彼の指導を受けることで、ミカの騎乗技術は日に日に上達している。元より器用な性格なので、適切に教えられる者がいれば成長は早かった。
「仰る通り、随分と安定しているように見えます。では、そのまま走ってみましょう。村の周りを一周してください」
ヨエルの言葉に従い、ミカは手綱を振り、馬を走らせる。徐々に速度が上がる馬の背の上は、先ほどまでと比べれば怖くはなかった。
カティヤと名づけられた栗毛の愛馬は、手綱から伝わるミカの意思を理解して進路を調整しながら軽快に駆ける。カティヤと共に風を切るミカの後ろには、ヨエルが一定の距離を置いて続く。鞍もなく、軍馬ほど疾走に向かないずんぐりとした農耕馬だが、ヨエルはさすがの技量で巧みに操って難なくミカを追う。
屋外にいる領民たちの応援も受けながら村の周りを一周したミカは、無事に領主館の裏まで戻ってくる。それを迎えるのは、馬術の訓練中も従者兼護衛として控えているディミトリだった。
「凄いですね、ミカ様。これなら戦場で走るのも自由自在ですよ」
「あはは、ありがとう。でもそれはちょっと褒め過ぎかもしれないね」
忠実な従者のやや大げさな称賛に、ミカは微苦笑を返す。間もなくヨエルも到着し、軽やかな所作で下馬する。
「ミカ様、お疲れさまでした。少し休憩としましょう」
ヨエルの言葉に頷き、ミカはカティヤから下りる。手綱を引いて彼女を移動させ、水を汲んで置いてある桶の方へ導くと、彼女は首を下げて水を飲み始める。
ちなみに、ディミトリは今のところ、馬術の訓練には臨んでいない。彼としては早く訓練を受けたいようだが、身長二メートル近く、体重も優に百キログラムを超える彼は、軍馬としてはやや小柄なカティヤに乗るには重すぎる。
そのため、彼が乗るとすれば大柄な農耕馬の方。しかし今はまだ大型の鞍がないため、当面はミカの馬術訓練が優先されることになっている。
「この調子で速度を出すことに慣れたら、装備を身に着けて駆ける練習に移りましょう。早ければ来週からでも」
「分かった、頑張るよ」
今は、理想的な姿勢を保ちながらある程度の速度で走ることに慣れる段階。今後は鎧の類を身に着けての騎乗に慣れ、その後はいよいよ全速力を出したり、不整地で走ったりする練習をしていくことになる。一人前になるまでの道のりはまだ長い。
この冬以降、ミカがヨエルの指導を受けながら馬を走らせる光景は、ヴァレンタイン領でよく見られるものとなった。
・・・・・・
ヨエルが担うのは、馬術の指導だけではない。騎士として武芸の心得もある彼は、ミカとディミトリの戦闘訓練の指導も務めている。
馬術とは違い、この訓練で主に鍛えられるのはディミトリの方。腕っぷしこそ強いものの体系的な戦闘訓練を受けたことのない彼は、今後もミカの護衛を務める上で、腕力だけでなく技術を備えることが必要不可欠だった。
「最初に教えたことを忘れるな! 肝心なのは盾の構えだ! 攻撃の後の隙をしっかり補え!」
領主館の裏庭での模擬戦。左手には円盾を構え、右手で訓練用の木斧を振るうディミトリに、木剣と盾を構えたヨエルが指示を飛ばす。斧を振るうことに集中するあまり盾の扱いが雑になりがちなディミトリは、その指示を受けて盾を構え直し、そちらにも意識を向ける。
「そうだ! それでいい! 攻撃で敵を圧倒し、反撃の隙を与えるな! 戦斧の間合いの長さと円盾の防御力を組み合わせれば、お前を突破できる奴はいない!」
先ほどまでより一段動きの良くなったディミトリに向けて、ヨエルはそう言葉を続ける。彼の言う通り、本来は両手用の戦斧を片手で軽々と振るディミトリの攻撃は広範囲に及び、振り抜いた戦斧を切り返す隙は左手の円盾で上手く補われていた。
壁のように大きな彼の体格も併せて考えると、立ちはだかる彼を突破して自分のもとへ辿り着ける敵などいないだろう。訓練の様子を眺めるミカはそう思った。
「ディミトリさん、凄いわね……無敵なんじゃないかしら……」
「そうだねぇ。身体の大きさと腕力でディミトリに敵う人なんてそうそういないだろうし、そこに技術が組み合わされば……この上なく頼もしいよ。これだけ戦えるようになったディミトリが守ってくれるなら、戦場に出るのも怖くないね」
半ば唖然としながらディミトリの戦いぶりを眺めるアイラの言葉に、ミカも頷く。
「かっこいい……さすが私の旦那様……ほら見てごらん、あなたのお父さんは強いのよ」
領主夫妻の隣では、ディミトリの妻ビアンカも訓練の様子を見学している。うっとりした表情で夫の勇ましい姿を見つめる彼女の腕には、冬の前に無事生まれた赤ん坊が抱かれている。寒くないよう羊毛の服を着せられてもこもこになっている赤ん坊は、父が戦う迫力満点の姿を見て目を丸くしていた。
「あははっ、お父さんの強さにびっくりしてるみたいだねぇ」
「ふふふ、目がくりくりしてて可愛い」
そんな赤ん坊の様を見て、ミカとアイラは笑う。ディミトリとビアンカの愛娘は、幸運なことにと言うべきか、目鼻立ちはビアンカに似ているようだった。
こうしてミカたち三人がのんびりと訓練の見学をしていられるのも、他の季節より時間に余裕のある冬だからこそ。
「よし、休憩だ! しっかり汗を拭いておけよ」
「お、おう」
しばらく模擬戦が続いた後、ヨエルが宣言する。息を切らしながら答えたディミトリは、木斧と盾を地面に置くと、ぜえぜえと肩で息をしながら館の方へ戻ってくる。それを、ミカとアイラは拍手で迎える。
「凄いよディミトリ! どんどん強くなっていくね。君がいれば、ヴァレンタイン家は白兵戦で敵なしだよ」
「もの凄い迫力で、見ていて圧倒されたわ。さすがね」
「ありがとうございます。でも、俺なんてまだまだです」
称賛を受けたディミトリは、照れ笑いを浮かべてそう答える。そんな彼に、ビアンカが水の入ったカップを渡す。
「はい、ディミトリさん」
「おう、ありがとな」
「この子もしっかり見てたよ。お父さんの勇ましさに目を丸くしてた」
「……そうか、ははは」
ディミトリは苦笑しながら愛娘に視線を向ける。先ほどまで雄々しく戦っていた父を前に、しかし自分が愛情を向けられていることを理解しているのか、赤ん坊は怖がる様子もなくじっと視線を返している。
そんな親子の微笑ましい姿を見ながら、ミカとアイラは笑い合う。まだ何者でもなかった自分についてきてくれたディミトリに、こうして幸福な人生を掴ませることができたのは、ミカとしても本当に喜ばしいことだった。




