第63話 逃亡者
冬越しの準備も終盤に差しかかった十二月の初頭。この日ミカは、村の南に広がる森、その西側の一帯で開拓に勤しんでいた。
「ミカ様! 大変です! 大変です!」
すると、領民たちが豚の放牧を行っている東の方からそんな叫び声が聞こえてきて、ミカは作業の手を止めて振り返る。ミカの傍らで護衛についているディミトリも、手にしている戦斧を反射的に構えながら叫び声の方を向く。
声の主は、陽気な領民ジェレミーだった。「大変です!」と連呼しながら駆けてきた彼は、ミカの目の前で止まり、膝に手をついて呼吸を整える。
「ど、どうしたの? まさか、またツノグマが……!?」
昨年の今頃に起こった事件――危険な魔物であるツノグマが森の奥から姿を現した珍事を思い出しながらミカが尋ねると、ジェレミーは引き続き荒い息を吐きながら首を横に振る。
「いや、違います! ひ、人です……」
「人?」
「も、森の向こうから、人が何人も来ました!」
「……っ!?」
ジェレミーの言葉を聞いたミカは、ディミトリも連れて急ぎ皆のもとへ向かう。
村の南に広がる大森林は、南北の幅が何十キロメートルもあり、木々の密度は高く足場も不安定なため、踏破することは難しい。道に迷って体力が尽きるか、森の奥に棲む危険な獣や魔物に襲われる可能性が高い。
が、通り抜けることが不可能というわけではない。大森林の向こう側の地域には大きな領地もあるそうなので、そこの領主家が危険な賭けとなることを覚悟の上で軍勢を差し向けてきた……という可能性もゼロではない。
そう考えたからこそ領民たちのもとへ急ぐミカだが、先導するジェレミーの話では、森の奥から姿を見せた集団にはどうやらそのような意図はなさそうだという。
「遭難者?」
「は、はい! とてもじゃないけど、ヴァレンタイン領を攻めるつもりで森を抜けてきたような感じじゃないです! 皆ふらふらのぼろぼろで、森で遭難したって雰囲気で……」
「……そっか。とにかく、その人たちの事情を聞いてみないとね」
そう話しながらミカが領民たちのもとへ辿り着くと、そこには確かに、領民たちの他に何人もの見知らぬ人々がいた。ざっと見たところ、十人以上もいるだろうか。
彼らはジェレミーの言葉通り消耗しきった様子で、気を失っている者も少なくない。森を彷徨ってなんとか抜け出すことの叶った遭難者だと言われれば納得できた。
そんな彼らを、領民たちは気遣っていた。得体の知れない人々ではあるが、女性や子供もおり、盗賊や逃亡犯罪者などには見えない。それもあってか、消耗しているらしい彼らをひとまず介抱していた。
領民たちを率いていたマルセルも、森から現れた人々の一人――疲れ果てた表情で地面に座り込んでいる、身なりからしてどうやら騎士らしき男に話しかけている。男の腕の中には、意識のない様子の少女。どうやら彼は、その少女を抱きかかえて森を歩いてきたらしかった。
「……ミカ様!」
「マルセル、彼らは一体……?」
領主が駆けつけたことに気づいて振り返ったマルセルに、ミカは状況を見回しながら尋ねる。
「まだよく分かりません。この人の話では、大森林の南で戦争が起こり、彼らは森へ逃げ込んでそのまま森を抜けてきたそうですが……彼も意識が朦朧としていて、今すぐ詳しい事情を聞くのは難しいかと」
そう言ってマルセルが視線を向けた男は、確かに話を聞けそうな状態ではなかった。頭がふらふらと揺れ、今にも倒れてしまいそうだった。
「ミカ様、どうしますか?」
「……とりあえず、この人たち全員を村に運ぼう。水を飲ませて休ませて、彼らが回復してから詳しい事情を聞こう」
彼らはどう見ても、害意を持って森から現れたわけではない。そう判断したミカは、ディミトリから尋ねられてそのように答えた。
・・・・・・
森を抜けてきた逃亡者たちは、総勢で十六人。彼らはひとまず、領民たちが共用の倉庫として使っている丸太小屋に収められた。農具などを引っ張り出して小屋を空にした上で、その中に並べられた。
皆に水を飲ませ、眠らせ、その翌日。逃亡者たちの中で最も身分が高そうな者――マルセルと話していた騎士が目を覚まし、食事もとってある程度回復したとの報告を受けたミカは、彼を領主館へ招いた。
「少し元気になったみたいでよかったよ。僕がこの村の領主、ヴァレンタイン家当主ミカ・ヴァレンタインだ」
館の大部屋で、ミカはテーブルを挟んで騎士と向かい合う。暗い茶髪を長く伸ばした騎士の齢はおそらく三十歳ほどで、理知的な雰囲気を漂わせていた。
ミカの傍らには、戦斧の柄を床に突いて持つディミトリ。ミカが穏やかな表情を浮かべる一方でディミトリは睨みを利かせ、騎士が不穏な動きを見せないよう念のため警戒を続ける。
「私はストラウク家に仕える……いえ、仕えていた騎士ヨエルと申します。我々を保護していただき感謝の念に堪えません、ヴァレンタイン閣下」
「……色々と大変な事情がありそうだね。聞かせてもらえるかな?」
「はっ。ご説明いたします」
主家に「仕えていた」とあえて過去形に言い直した騎士ヨエルは、ミカに促されて逃亡の事情を語り始める。
間に大森林を挟み、ヴァレンタイン領のある一帯から見て南に位置する地域。そこにはいくつもの小領地と、人口数千人規模の大きな領地が二つ並び立っていたという。
大領地の一方を治めていたストラウク家は、もう一方の大領主家であるランゲンバッハ家と、数年前より対立を続けてきた。少しずつ勢力を拡大してきた二家のどちらがこの地域における覇権を握るのかを争ってきた。
つい先日、その争いに決着がついた。もう何度目かになるランゲンバッハ軍との戦いで、ストラウク家当主の嫡子が不運な戦死を遂げ、軍の士気は崩壊。壊走の際に手痛い損害を負い、立て直しもままならない中でストラウク家の居城と城下町が包囲された。
ストラウク城は石造りだが規模はそれほどでもなく、城下町も未だ発展の途上にあり、領都としての最低限の機能を備えた小さなもの。常備軍の残存兵力は少なく、かき集めた民兵の士気は皆無に等しかった。数でも士気でも勝る敵の攻勢は苛烈で、間もなく陥落のときが訪れる。
ランゲンバッハ家に降伏を申し出たが拒否され、嫡子の戦死も相まって自家の存続に絶望したストラウク卿は、もはやこれまでと考えた。生き残っている騎士や兵士たちに城の防衛ではなく民の逃亡を支援するよう命じた。ヨエルたち騎士や正規兵は、主君の最後の命令に従い、既に敵の軍勢が入り込んで壮絶な略奪と殺戮がくり広げられている城下町から一人でも多くの民を逃がそうと奮闘した。
できるだけ大勢を連れて城下町を脱出したヨエルたちだったが、そこへ敵軍の容赦ない追撃が迫る。脱出の一行は散り散りとなり、その一部――ヨエル率いる数十人は、追手から逃れようと大森林に足を踏み入れた。
大森林の奥は危険なので、進んではならない。その教えがあるのは大森林の南側も同じだったようで、ヨエルたちはこれが危険な行為だと分かった上で、敵が追撃を諦めるほどに奥深くまで森を進んだ。
また南へ戻っても、森の外には未だ敵兵がうようよしている。捕まればどんな目に遭わされるか分からない。なのでヨエルたちは、分の悪い賭けとなることを承知で大森林の踏破に臨んだ。
木々の密度の濃い、大森林の奥深く。太陽の光さえ届きづらく、方角も曖昧になり、足元が不安定な地勢では歩みは遅くなり、真っすぐに進むことも難しい。そんな過酷を極めた状況で、ヨエルたちはひたすら歩き続けた。最初は五十人以上もいた逃亡者たちは、途中ではぐれ、あるいは魔物や獣に襲われ、もしくは足を負傷し、さらには疲労が限界に達して進むことを諦め、徐々に脱落していった。
ヨエルは皆を鼓舞しながら進み続け、数日をかけて遂に森を踏破。ちなみに、彼が抱きかかえて運んでいたのは自身の娘や親類ではなく、疲れて歩けなくなっていた見知らぬ少女だという。
「そうか、そんなことが……大変だっただろう。絶望的な状況でも十五人を生かし、自分も苦しいだろうに他人である少女を抱えて歩き続けるなんて、君は本当に立派な人だね」
「……恐縮です。叶うことならば、もっと多くを救いたかったのですが」
ヨエルは自身の他に十五人を生き残らせたことよりも、その他の者たちを死なせたことに意識を向け、悔しがっているようだった。ミカとしては、着の身着のままで逃げ出した者たちがよくぞ三分の一ほども生き残ったものだと思ったが。
「今後、どこか行くあてはある?」
「いえ。我々の故郷はもはや失われ、ストラウク領の外には頼れるあてもありません」
ミカの問いに、ヨエルはそう言いながら首を横に振った。表面上は冷静さを保っているが、彼の内心の不安はどれほどのものか。
「……そうか。君も他の者たちも、まだまだ消耗しているだろう。ひとまず、今しばらく休んで気力体力を取り戻すといいよ。今後のことは、一緒にゆっくり考えていこう」
「……あらためて、心より感謝申し上げます。我々の命を救っていただいた御恩は、必ずお返ししますので」
ヨエルはそう言って、深々と頭を下げた。




