第57話 本陣奇襲
歩きづらい森を出て、丘を急ぎ下りながら南東の味方本陣の方へ移動したミカたちは、そこで予想外の光景を目の当たりにする。
「げえっ! ツノグマ!」
巨大なツノグマが本陣に襲いかかり、直衛たちを蹴散らし、立てられた家紋旗を次々に引き倒す様を前に、ミカは思わず声を上げた。
おそらくは戦場北東の一帯を覆う森から飛び出してこちらの本陣を奇襲したのであろうツノグマは、昨年の末にヴァレンタイン領に現れたものに勝るとも劣らない大きさ。
おまけに、このツノグマは身体に鎧を纏っていた。革製の胴鎧のような防具で、弱点である横腹や首回りを覆っていた。この鎧と硬い毛皮や分厚い脂肪を合わせれば、槍でも矢でもそうそう貫けないだろう。
人工的な防具を身に着けているということは、このツノグマは人間に飼われている。しかし、凶暴な魔物であり、人には決して懐かないと言われるツノグマを飼うことなど本来は不可能。
それを実現する術はひとつ。ツノグマとの激しい戦闘がくり広げられるその向こうにミカが視線をやると、そこにはツノグマに向けて何やら指示を発している者がいた。
「……使役魔法か」
動物や、魔力量によっては魔物さえも従順にさせて従わせる使役魔法。ツノグマを使役するほど強力な使い手が、モーティマー家の配下にいるとは聞いていなかった。ローレンツの情報収集能力をもってしても、縁のない領地が抱える魔法使いを全て把握するのは難しいということか。あるいは、あの使役魔法使いはまだ若いようなので、この数年で魔法の才に目覚めたばかりで周囲にはまだあまり知られていなかったのか。
どちらにせよ、恐るべき強敵であることは間違いない。
鎧を纏ったツノグマなどという脅威が暴れ回れば、人間はただでは済まない。本陣にいた直衛の数人が既に凄惨な死体に変わり果て、そして残る数人も、そう長く持ちそうにはなかった。直衛たちが守るその後ろには、本陣に残っていた領主たちの姿。ローレンツは未だ無事な様子で、ミカはひとまず安堵する。
味方本陣を奇襲した敵の別動隊は、このツノグマと使役魔法使いに加え、使役魔法使いの護衛であろう数人の兵士と、さらには肉体魔法使いらしき動き方をする騎士が一人いた。こちらの本陣を守っていた肉体魔法使いは敵の肉体魔法使いの牽制を受けていて、とてもツノグマに対応する余裕はなさそうだった。
本来、本陣の奇襲というのは容易なことではない。敵側に気づかれないためには少数で戦場の周囲を移動する必要があり、しかし多くの場合、精鋭に守られた本陣を打ち破るには相応の戦力が必要となる。この両立が難しい。
両立させる手段としては、こちらも精鋭を揃えて投入するか、あるいは個人で強力な戦力となり得る魔法使いを投入するか。しかし、別動隊に精鋭や魔法使いを割けば本隊が弱体化する上に、精鋭も魔法使いも失えば極めて痛い人材である以上、孤立して死ぬ可能性も高い本陣奇襲に臨ませるにはかなりの勇気がいる。
連合軍は、単独で超遠距離からの攻撃が可能である戦力――すなわちバリスタを持参したミカを用いることでこの本陣奇襲を成した。一方のモーティマー軍は、鎧を纏ったツノグマという極めて頑強な戦力を正面に立てることで、戦力損耗のリスクが比較的小さいかたちでの奇襲を実現したようだった。
「や、やばいっすよあれ!」
「とんでもねえことになってる……あれじゃあ皆やられちまう」
「ミカ様、どうしますか?」
ジェレミーが驚愕し、フーゴが唖然とする横で、ディミトリがミカに指示を仰ぐ。ミカは本陣のとんでもない状況を前に気圧されながらも、数瞬の後に表情を引き締める。
「近づいて戦うのは怖いけど、敵の別動隊を撃退しよう。せっかく敵の大将たちを退却に追い込んだのに、このままだとこっちが逆転負けするかもしれない。あの本陣が全滅したら、ツノグマがそのままこっちに襲いかかってくる可能性もある。それなら、味方が多いうちに戦う方がいい……それに、ツノグマを相手取るのは初めてじゃないし」
そう言って不敵な笑みを浮かべ、ミカはバリスタの射撃準備を命じる。ジェレミーと協力してバリスタの弦を引き、フーゴに矢を――より貫通力の高い鉄の鏃を備えた矢を装填させ、味方本陣に近づく。
バリスタの矢は、装填したものも含めて残り数発。しかし、この一発目を外せば二発目の装填をする暇はおそらくないので、チャンスは一度きりだと思うべき。
「ヴァレンタイン卿!」
「メルダース卿、それに皆さんも、下がっていてください! あのツノグマは僕が!」
援軍の登場に安堵の表情を浮かべるローレンツに告げ、視線はツノグマに定めたまま、ミカはゆっくりと前進する。バリスタの射線を開けるようにジェレミーとフーゴがミカの左右前方に立ち、ディミトリがミカの傍らに控える。
距離は数十メートル。的は大きい。鎧は所詮は革製。人力の攻撃は通らずとも、バリスタの矢が直撃すればいくらなんでも貫通するはず。当てれば勝てる。
そう思ってミカがバリスタの引き金を引こうとした、そのとき。
敵の使役魔法使いが何やら笛を鳴らし、その直後にツノグマは攻撃を止めて凄まじい速さで逃げ出す。ミカは慌ててバリスタの矢を放つが、こちらから見て斜め方向に高速で移動する目標に攻撃を命中させるのは容易なことではない。矢はツノグマの尻を掠めただけに終わり、射線上に運悪く立っていた敵兵の一人を、その兵士が構えていた盾ごと貫いて地面に突き刺さる。
馬鹿でかいバリスタを空中に浮かせながら近づけば、当然に目立つ。いくら鎧を纏ったツノグマでも、バリスタの矢が直撃すれば致命傷を負い得ることは敵側にも分かるはず。あのツノグマは、無理に分の悪い戦いに臨ませて失いたくはない貴重な戦力ということか。ミカはそう思いながら、急ぎバリスタを置いて連射式クロスボウに持ち換える。
「おわっ!」
クロスボウによる追撃を行おうとした刹那、ミカの前で大盾を構える二人の領民のうち、ジェレミーが叫んだ。彼の構える大盾には矢が突き刺さり、僅かに貫通した鏃の先端が盾の裏側からも見えていた。
敵側を見ると、使役魔法使いがクロスボウを手にしてこちらへ向けていた。あのクロスボウが、彼の自衛用の武器ということか。
クロスボウの一撃でミカを仕留められなかったものの、ミカの注意を引いて数瞬の時間を稼いだ使役魔法使いは、その数瞬で己のもとに辿り着いたツノグマの背に飛び乗る。そして、そのままツノグマと共に逃げ出す。
「危ねえっ!」
ディミトリが声を張りながら円盾を構え、ミカを庇うように位置取る。次の瞬間、硬質な音が響いて盾が揺れ、ディミトリの前に剣が落ちる。
剣を投げたのは敵の肉体魔法使いであるようだった。一か八か剣を投擲して念魔法使い――ミカを仕留めようとしたらしい肉体魔法使いは、その不意打ちが失敗に終わったのを確認すると、腰にもう一本下げていた剣を抜きながら走り去る。
ツノグマと使役魔法使いと肉体魔法使い、そして生き残っている二人の敵兵は、奇襲のための移動経路にしたのであろう北東の森へと撤退していく。ミカは彼ら目がけてクロスボウを連射し、敵兵の一人を射殺したが、それ以上の戦果は得られなかった。
「追撃……は止めておこう」
下手にしつこく追撃して、敵が反撃してきたら。障害物になる木々が多い森の中で、投射武器を使ってツノグマや肉体魔法使いと戦うのはあまりにも危険。そう考え、ミカは言った。
「旗を! 家紋旗を急いで立て直すんだ!」
ひとまず戦闘が終わったことを受け、総大将ローレンツが叫ぶ。本陣に立てられた家紋旗が下がっていては、こちらが敗北したのだと本隊の兵たちが勘違いし、逃げ出しかねない。旗の立て直しは最優先事項だった。
「いやあ、助かったよヴァレンタイン卿。あのツノグマを撃退するとは、さすがは強力な念魔法使いだな」
「お役に立てて幸いです……来るのが遅くなってすみません」
直衛たちへの指示を済ませて歩み寄ってきたローレンツに、ミカは本陣の惨状を見回しながら答える。
よく見ると、直衛の死体だけでなく、本陣に残っていた領主の一人の遺体も見える。どうやら救援が完璧に間に合ったとは言い難いらしいと、上半身と下半身が泣き別れになった遺体を見ながらミカは考える。
「そんなことはないさ。元より本陣の護衛は卿の役目ではなかったのに、駆けつけてくれたのは本当にありがたい」
「メルダース卿の言う通りですよ。感謝するわ、ヴァレンタイン卿」
「全滅していてもおかしくなかったのに、おかげで助かった」
ローレンツに続いて、本陣にいた他の領主たちも礼を伝えてきた。
「恐縮です。敵本陣の奇襲にも成功したので、敵軍は間もなく退いていくと思いますが……」
「……こちらの本陣もかなり混乱させられたからな。それに気づいた一部の兵たちも動揺しているようだし、果たして戦況がどうなるか」
そう話しながら、ミカとローレンツは戦場正面の方を向く。