第49話 このまま何事もなく
モーティマー領は、ダリアンデル地方南東部の北西の辺りに位置している。モーティマー家は十四の農村と、それらの中核となる小都市を領有し、領内の人口はおよそ五千に及ぶ。この時代のダリアンデル地方においては、なかなかの大領主家と言える。
そんなモーティマー家において、家督争いに端を発した内戦が巻き起こったのは、聖暦一〇四四年の五月のこと。先代当主の病死に伴って長女ベアトリス・モーティマーが新たに当主の座についたところ、先代当主の弟、すなわちベアトリスの叔父がその座を奪い取らんと反乱を起こした。領都から離れた領境の小さな城を任されていた彼は、当主の座を奪わんと行動を起こした。
領地を二分する家督争いは、短期間のうちにベアトリスの勝利で幕を閉じた。正統な家督継承者であるという揺るぎない事実の力はやはり大きく、モーティマー家に仕える軍人たちの多くがベアトリスの側についた。領都の民もベアトリスに従い、各村も多くはベアトリスに味方した。両陣営とも戦力増強のために傭兵を雇い入れ、その数は概ね同じだったので勝敗にはほとんど影響を与えなかった。二度の激突によって叔父の軍は瓦解し、己の拠点である小さな城に追い詰められた叔父は、最後は自分の指揮下の軍人たちに殺された。
「……まいったわね。どうしようかしら」
叔父の首を抱えて降伏し、許しを乞うてきた裏切り者の軍人たちを皆殺しにした後。ベアトリスはため息交じりに独り言ちる。
勝利は掴んだ。当主の座を守った。が、内戦の爪痕はあまりにも大きい。
内戦による領民の死者は、推定で数十人に及ぶ。常備兵力たる騎士と正規兵は、処刑された裏切り者とこちら側の戦死者を合わせると、実に半数近くが失われたかたちとなる。
それらも誠に手痛い損害だが、さらなる悲劇は、今年に収穫できるはずだった麦のうち少なからぬ量を失ったことだった。
叔父は領境の城の周辺にあるいくつかの村のうち、自分に従うことを拒否した村の農地に火を放ち、収穫の迫っていた麦を焼き払った。同じ目に遭いたくなければ自分のために兵を出せと他の村を脅すために。
さらに彼は、ベアトリスに味方することを選んだいくつかの村の農地にも火を放った。前領主の娘に与する村はこうなるぞと他の村々に対して喧伝し、ベアトリスの陣営の戦力を削ろうと考えたようだった。むしろ逆効果となり、農地を焼かれた村は叔父への反発から、その他の村は叔父の蛮行が自分たちの村へ及ぶことへの危機感から、より多くの民兵を出してくれたが。
結果として、失われた麦はいったい何百人分になるか分からない。このままでは多くの領民が飢えることになる。
とはいえ、足りない麦を領外から買えば済むという話でもない。ベアトリスも叔父もモーティマー家の名で傭兵を雇ったため、彼らへの報酬の支払いで手元資金は大きく目減りする。今年の税として納められるはずだった小麦も少なからぬ量が焼け、見込み収入も激減。そんな状況でも、領地を維持するためには常備兵力を急ぎ回復しなければならない。とてもではないが、必要量の食料を輸入する余裕はない。
「まったく、あのクソ爺、好き放題してくれて……やっぱり、奪うしかないかしら」
他領からの掠奪。そんな盗賊じみた真似をするのはベアトリスの趣味ではないが、このような状況では手段は選んでいられない。モーティマー家の権勢を維持しながら、領地の窮状を脱するためには、選択の余地はない。
おそらく叔父は、己が領主の座につくことこそが最大の目的で、維持できそうにない村は見捨てて飢えるままにさせる腹積もりだったのだろう。しかし、ベアトリスとしては同じような真似はできない。他の村々からの支持を維持するためにも、モーティマー家の内紛のせいで窮地に陥っている村を見捨てるわけにはいかない。
愚かな親類の尻拭いをするのが領主になって最初の大仕事というのも腹の立つ話だが、とはいえこうなった以上は仕方がない。やるしかない。
何かと交流もある近隣の領地から奪えば禍根が残る。掠奪に出るとすれば、もう少し離れた位置で小領地が集まっている場所がいいだろうか。ベアトリスはそんな思案を巡らせる。
・・・・・・
六月のヴァレンタイン領では、小麦とライ麦の収穫と脱穀作業が始まっていた。
「これ、本当にこの一束からとれた小麦なのか……す、すげえ……」
脱穀機を使って一束の麦穂を脱穀し、唖然としながら呟いたのは、領民ジェレミーだった。
彼が脱穀したのは、昨年の休耕中にクローバー栽培の行われた農地から収穫された小麦。一束の脱穀で得られた麦の実は、犂もクローバー栽培も導入していなかった頃と比べて、二倍かそれ以上の量があった。
「クローバーの効果、しっかり発揮されてるみたいだね」
「はい。ミカ様の予想されていた通り、去年にクローバーの栽培が行われた農地は目に見えて収穫量が増えています」
領民たちが驚きと歓喜に湧く脱穀作業の様を見ながら、ミカはマルセルと話す。
クローバーには農地の地力を回復する効果があるため、休耕地にクローバーを蒔いてその上で家畜の放牧を行うと、畜糞が肥料となる効果も合わさり、翌年の収穫量が増える。ミカは前世の知識をもとにそのような予想を立て、実際に試した。結果は期待通り、いや期待以上だった。
「これなら、今年の休耕地には全面にクローバーを蒔いていいかな?」
「ぜひそうしましょう。他の領民たちも、反対する者はいないはずです。これほどの効果があるのですから」
この世界の法則は、魔力が絡む事象以外は前世と同じ。なので、この世界のクローバーにも地力を回復させる効果があるはず。ミカはそのように予想したが、とはいえ確信はなかった。また、休耕地に手を加えることに慎重な姿勢を示す領民もいた。なので、昨年にクローバー栽培を行った休耕地は全体の四分の一ほどに留まっていた。
しかし、クローバー栽培の絶大な効果が表れ、ミカの予想が正しかったと分かった今、誰もが収穫量の増加を求めてクローバー栽培の規模を広げたがる。
そして、休耕を挟まずに大麦や燕麦や甜菜を作付けした農地に関しても、生育具合は順調。同じ農地を二年続けて使うことに対する領民たちの懸念も払拭されようとしている。
これで、いよいよ今年から、クローバー栽培を取り入れた三圃制が本格的に始まる。
秋には農耕馬が届けられ、そうすれば犂を使って耕せる農地面積はさらに広がる。その分だけ収穫量も増える。脱穀機とふるい機のおかげで、大量に収穫された麦の脱穀作業も十分にこなせる。
この調子でやっていける。他領よりもずっと上手く領地を運営し、発展させていける。ミカは確かな手応えを覚えながらそう考える。
「それじゃあ、夏の収穫と脱穀が終わったら、残りの休耕地にもクローバーの種を蒔こう……引き続き、皆で作業を頼むよ」
「お任せください」
領民たちの作業の統率はマルセルに任せ、ミカはこの場を離れる。
犂を牽く作業以外では、農業に関してミカの出番はほぼない。収穫と脱穀の作業が順調に進んでいることを確認した後は、森の開拓や城の土台造りなど、自分の念魔法を最大限に活かせる仕事に臨む。
・・・・・・
ミカが開発した道具のおかげもあり、夏の収穫と脱穀の作業が迅速に終わった後の七月。領民たちの仕事が一段落したこの時期を利用して、二組の男女の結婚式と宴会が開かれた。
今年新たに夫婦となったのは、陽気な領民ジェレミーと、前々から彼と良い仲だと言われていたイェレナ。そして寡黙なルイスと、彼と同い年の幼馴染である女性領民。
例年のように東のフォンタニエ領から招かれた神官に簡単な儀式を執り行ってもらった後は、二組の夫婦の結婚を、二日かけて村の皆で祝う。一日目はジェレミーとイェレナを、二日目はルイスと彼の伴侶を盛大に祝福する。
「ほらルイス! どんどん飲め! 昨日は俺が散々飲まされたんだから、今日はお前の番だぞ!」
「いや、俺は酒はあんまり……」
「もう、止めてあげなさいよ。ルイスが可哀想よ?」
昨日の主役の一人だったジェレミーが、今日の主役の一人であるルイスの杯にエールを溢れるほど注ぐ。それを、同じく昨日の主役だったイェレナが窘める。ルイスと同じく大人しい気質である彼の伴侶がその様を微笑ましく見守り、仕方なくエールをあおるルイスを周囲の領民たちがはやし立てる。
「結婚した四人とも幸せそうだし、ビアンカとディミトリの子も冬の前には生まれるし、今年は明るい話題が多くて嬉しいねぇ」
「本当ね……私たちもあと二か月で結婚できるし、幸せなことばかりね」
アイラと寄り添い合いながら、ミカは領民たちの賑やかな様を微笑ましく眺める。
ジェレミーとルイスは、若い領民の代表格として頑張ってくれている。そんな二人がそれぞれ愛する女性と結ばれたのは、ミカとしても本当に喜ばしいこと。
今年の春にはビアンカの懐妊も分かり、夫であるディミトリも嬉しそうにしていた。二人の初めての子は、おそらくあと三、四か月ほどで生まれる。家臣たちが新たな幸せを手にしようとしているのは、やはり喜ばしい。
クローバー栽培を取り入れた三圃制も始まり、秋には農耕馬が来る。農業生産力が格段に向上したおかげで、移住者を集めて領地規模を拡大する目途も立ち始めた。砂糖生産に関しても、第一歩となる甜菜の栽培が始まっている。
森の開拓はますます進み、農地面積はさらに広がっている。城の土台となる人工の丘も形になってきた。あと数か月もすれば、土台が完成して丸太柵を建てる作業に移る予定。
まだ準備段階や構想段階のものも多いが、少しずつ領内社会の完成形が見えてきている。
そしてアイラの言った通り、二人の結婚のときもいよいよ訪れる。アイラは春に、ミカはもうすぐ十八歳の誕生日を迎え、二か月後の九月には自分と彼女の結婚式が開かれる。自分は愛する人と結ばれる。領主としてだけでなく、一人の人間としてさらなる幸福を得る。
このヴァレンタイン領の領主となって、そろそろ二年。自分は当初の予想以上に順調に歩みを進めていると、ミカは強く実感している。
「このまま何事もなく、僕たちも結婚を迎えたいねぇ」
アイラと手を繋ぎながら、ミカはしみじみと呟く。
そのように願っているときに限って、邪魔が入るのが世の中というもの。
丘陵北側の地域から不穏な報せが届けられたのは、それからおよそ一週間後のことだった。