第44話 ツノグマ①
十二月に入ると、空気も冬らしくなる。この村に来て二度目の冬が訪れようとしている中で、ミカは相変わらず開拓を進める日々を送っていた。
いつものように木を伐採し、切り株を掘り起こす作業を着々と進めていた、そのとき。
「ミカ様! ミカ様ぁー!」
ミカがいる位置よりも東の方。領民たちが豚の放牧を行っている辺りから走ってきたのは、ジェレミーだった。彼はひどく慌てた様子だった。
「ツノグマです! ツノグマが出ました!」
「えっ!? す、すぐ行く!」
ジェレミーの叫びを聞いたミカは、血相を変えて走り出す。魔法で振るっていた自身専用の大きな斧をそのまま浮遊させて運びながら、皆のいる方へ急ぎ向かう。その傍らに、護衛のディミトリも続く。
「ディミトリ、僕のクロスボウの用意を!」
「了解です!」
ディミトリはミカの護衛として森へ同行する際、自身の得物である戦斧の他に、ミカ専用の連射式クロスボウも持ち歩くようになっている。ミカの指示を受けて、彼は背負っていたクロスボウを手に取ると、腰に下げていた弾倉を取り出す。片手に斧を持ったまま、器用にクロスボウへ弾倉を装着する。
「ジェレミー、怪我人はいる? ツノグマの大きさは?」
「俺がミカ様を呼びに出たときには、襲われたのは豚だけで、皆は無事でした! ツノグマは三メートルはありそうでした! 多分、大人の雄です!」
ミカを先導しながら走るジェレミーは、問われてそう答える。
「そっか……きっと、冬眠前の餌が足りずに森の浅いところまで出てきちゃったんだろうね」
ツノグマはその名の通り、額に角の生えた熊のような見た目の魔物。一般的な熊より一回りも二回りも大きく、その毛皮は分厚く硬い。体躯に見合った怪力を誇り、前脚の一撃は重装備の騎士さえ殺すほどの威力。まともに戦う場合は弓やクロスボウをいくつも用意するか、長い槍と大きな度胸を持った十人以上の兵士を揃えた上で囲んで仕留めるべきと言われており、ダリアンデル地方において最も危険な生き物のひとつとされる。
そんなツノグマだが、基本的には森の奥に棲み、人里に現れることは少ない。冬眠準備にしくじった個体が、冬前に餌を求めて森から出てくることが偶にある程度。今回もそのような事例のひとつと思われるが、よりによって自分の領地に出てこられるとは運が悪いとミカは思う。
それから間もなく、ミカたちはツノグマの出現場所に辿り着く。領民の多くは既に森を出て村の方へ逃げていったようで、一部の男たちが自衛用の木の槍や投石紐を構え、ツノグマを警戒しつつ距離をとっていた。
そして彼らの視線の先では、縄で木に繋がれた数匹の豚が囮にされていた。鳴きながら木の周りを逃げ回る哀れな豚たちは、ツノグマに追いかけ回され、一匹また一匹と仕留められていた。
ジェレミーの報告通り、ツノグマはかなり大きい。額の角の先端が鋭く尖っているのは、雌よりもさらに狂暴な雄の証。
「皆、大丈夫!?」
「ミカ様! 私たちは無事です。死人も怪我人もいません」
ミカが男たちの方へ駆け寄ると、指揮をとっていたらしいマルセルが答える。
「豚のうち気性の荒いものが逃げ出さないよう縄で繋いでいたのですが、その縄をそのまま木に結びつけて、豚たちが囮となっている間に皆を逃がしました。ルイスの発案です」
「そっか、犠牲がなくてよかった。ルイス、お手柄だね」
ミカが視線を向けて言うと、寡黙なルイスは投石紐を手にしたまま無言で頷く。
「ミカ様、ツノグマは追い払いますか?」
「いや、できれば仕留めたいな。あのツノグマはここに来れば美味しい餌を簡単にとれると学んでしまったから、また森から出てくるかもしれない。仕留めてしまった方がいい」
領民の一人に問われ、ミカはそう答えながら斧を地面に下ろす。そして、ディミトリが傍らに置いてくれた連射式クロスボウを魔法で持ち上げる。
「僕がこのクロスボウで仕留める。皆は半円の陣を組んで、牽制を――」
「ミカ様! ツノグマがこっちを向きました! 豚を全部仕留めちまったみたいです!」
ディミトリの報告を受け、ミカはツノグマの方を向く。すると、ツノグマと目が合う。
ツノグマは賢い。ひとつの獲物を捕らえて満足するのではなく、目につく獲物を全て仕留めた上で、寝床に持ち帰って少しずつゆっくり食べようと考えるだけの知能がある。
全ての豚を仕留め終わった今、ツノグマが残る獲物――ミカたち人間を、まとめて仕留めてしまおうなどと考えたとしてもおかしくない。
案の定、ツノグマはこちらを獲物のおかわりと見なしたのか、近づいてくる。小さくて弱そうだが、彼にとってはおそらく未知の生き物である人間の群れを、多少警戒する素振りを見せながらも徐々に距離を詰めてくる。
「じ、陣形を!」
ミカは叫ぶように言い、ツノグマと向き合い、クロスボウを構えて弦を引く。
春に戦った手練れの肉体魔法使いもかなり怖い敵だったが、凶暴な魔物となると、また違う恐ろしさがあった。ツノグマの視線を受けると、まるで本能を直に刺激されるような、根源的な恐怖が心の内から湧き起こってくる。身体の震えがクロスボウに伝わらないのは幸いだった。
領民たちも怯む様子を見せながら、しかし領主であるミカが逃げないので、彼らも逃げない。急ぎミカの左右に並び、それぞれの武器を構える。
そしてディミトリが、刃から鞘を取り外した戦斧を構え、ミカのすぐ隣に立つ。いざとなれば身を盾にして主人を守るために身構える。
秋に鎧下が届いて以降、ディミトリは荒事担当の家臣として普段からそれを着込んでいる。鎧下は布鎧という別称を持つ程度に防御力があるが、鎖帷子を着た騎士を叩き殺したという逸話もあるツノグマを相手にするにはさすがに心許ない。彼が身を盾にする事態にならないよう、遠距離からツノグマを仕留めなければとミカは考える。
距離を詰めてきたツノグマは、二足歩行の人間たちよりも高い視点に立って威嚇しようと思ったのか、後ろ足だけで立ち上がる。
「グオオオオオォォォッ!」
そして、雄叫びを上げる。声というよりは、もはや振動と呼ぶべき咆哮だった。
「おおおぉぉ……」
それを受けて、ミカは怯え交じりの感嘆を思わず零す。あまりの迫力に驚き慄く。
ジェレミーの報告は概ね正しかったようで、立ち上がったツノグマは頭から足先まで優に三メートルを超えていた。まるで怪獣だった。
「っ!」
せっかく的が大きくなってくれたのだから、今のうちに狙うべき。そう思ってミカはクロスボウの引き金を「魔法の手」で引く。それと同時に、弦が勢いよく前に跳ね出て、矢が射出される。
「グオォッ!」
一射目は、巨大な的へ見事に命中した。首のあたりに深々と矢が突き刺さったツノグマは、苦しげに呻いて前脚を下ろした。
そこへ、ミカはさらに矢を放つ。およそ一秒に一射の速さで、合計三発。一発目は右前脚に、二発目は口の中に、三発目は目に命中した。矢を食らう度にツノグマの体躯が震え、そしてばたりと倒れた。
「す、すげえ! さすがミカ様!」
「これほど巨大なツノグマが、これほど呆気なく倒れるとは……お見事です」
興奮するジェレミーの隣で、マルセルがそう言った。他の領民たちも、口々に驚きとミカへの称賛を語る。
「あはは、皆ありがとう……さすがは大型のクロスボウだね」
「はい。この威力で連射できるとなりゃあ、どんな生き物も敵いませんね」
皆の称賛に笑顔で答え、ミカはディミトリと話す。
本来はペダルを取りつけて弦を引かなければならない大型のクロスボウ。そこから放たれる矢は極めて強力で、生き物が耐えられるものではない。ダリアンデル地方において最強の生物であるツノグマの、いかに分厚く硬い毛皮と言えども、有効射程内であれば鎧さえ貫く矢にはさすがに敵わないようだった。
「それにしても、でかいですね」
「そうだねぇ。僕も間近でツノグマを見たのは初めてだけど、こんなに大きな生き物がいるなんて驚きだよ」
倒れたツノグマのもとへディミトリと共に歩み寄り、念のため至近距離でもう一発頭に矢を打ち込みながらミカは言う。
「うわあ、凄え! でっっけえ!」
「こりゃあ、まさに化け物だなぁ」
「近づいて槍で戦うことにならなくてよかった……」
「ははは、まさかディミトリさんよりでけえ生き物がいるとはな」
「うるせえ、ぶっ飛ばすぞ」
他の領民たちもツノグマの死体を囲み、口々に感想を語る。誰かが軽口を叩き、ディミトリが大して怒った様子もなくぶっきらぼうに返す。
聞くと、この村にツノグマが現れたのは数十年前に一度だけだそうで、多くの者は当時まだ生まれておらず、ツノグマを間近で見るのはこれが初めてだという話だった。
「ミカ様、これ、どうやって村まで運びますか?」
「……うーん、どうしようか」
領民の一人から問われたミカは、ツノグマの巨体を見下ろし、少し困った表情で呟く。