第41話 実りの秋
聖暦一〇四三年の九月。ダリアンデル地方南東部。他の多くの農村と同じように、ヴァレンタイン領は大麦の収穫時期を迎えていた。
昨年からの開拓によって拡大した農地で、豊かに実った大麦の穂が、領民たちの共同作業で次々に収穫されていく。農地面積そのものが今までよりも広がっていることに加え、犂によって耕された効果も合わさり、収穫量は例年よりも明らかに多い。領民たちは収穫作業に追われる忙しさを喜びとしながら、精力的に仕事に臨んでいる。
一方で、この地の領主であるミカ・ヴァレンタインは、別の仕事――晩秋に小麦やライ麦の種蒔きが行われる農地を、念魔法を用いて犂で耕す作業に追われる。ミカが魔法で犂を牽き、ディミトリが傍らで護衛や補佐を務め、さらに後ろから犂を支える役割を領民たちが交代で担う。今は、陽気な性格の若い領民ジェレミーが犂を支えている。
「いやー、ほんと夢みたいっすよ。俺はあんまり難しい計算はできないですけど、マルセルさんの計算では、麦粥とかエールにしても村の皆だけで食べきれないくらいの量があるらしくて。アーネストさんに売ってお金に換えて、どの家にも銀貨が何十枚も入ってくるだろうって話でした。俺、そんな大金を持つの初めてっす。まあ、金の管理をするのは俺じゃなくて親父ですけど」
「まとまったお金が入ったら、いよいよ皆の生活が豊かになるねぇ。僕も領主として嬉しいよ」
楽しげに語るジェレミーを振り返りながら、ミカは微笑を浮かべて言う。
ミカの前世で言うところの中世前期によく似たこの世界では、それぞれの領地がある程度完結された社会を作り、自給自足に近い生活を送っている。このヴァレンタイン領でも、領民たちは生活に必要な道具の多くを木材で自作し、家の建築や修繕さえ自らの手で行い、鉄製品など現状では自給できない一部のものだけを行商人アーネストが来訪した際に購入している。
元より収入源が少なかったこともあり、これまで領民たちが使う現金は、一世帯あたり年間で銀貨数枚ほどだったという。そんな彼らからすれば、銀貨数十枚でも、今まで手にしたことのないほどの大金となる。
「でも、そんなにたくさん銀貨があったら、何に使えばいいんですかね? 金持ちの農家が何を買ってるかなんて、俺には想像もつきません」
「そうだねぇ……例えば、農具を修繕したり買い直したりすれば、来年からはもっと仕事が楽になる。今より良い靴や外套を買えば、外で過ごすのが楽になる。そうやって、まずは仕事や生活を今よりも少し快適にするものを買うのがいいんじゃないかな? ただし全部は使わずに、少しずつ貯めておくと、もし不作だった年もお金に困らずに済むよ」
前に向き直って犂を牽き続けながら、ミカはジェレミーの疑問に答える。
「へえー、そうやって使えばいいんですねぇ。それじゃあ、高い酒とか塩とか甘いものとか、そういうのはあんまり買わない方がいいんですか?」
「皆も自分へのご褒美が欲しいだろうから、もちろんそういう贅沢品を買うのもいいと思うよ。だけど、贅沢のために使うお金は、今はまだ少しだけにしておくべきだろうね」
「それじゃあ、帰ったら親父にもそう伝えます。ミカ様がそんな風に言ってたって」
「うん、ぜひ教えてあげて」
ヴァレンタイン領の領民たちは、これまで自分たちが満腹になることにも苦労する貧しい生活を送ってきた。
そんな彼らは、このまま農業改革が進めば、今までとは比べ物にならない現金収入を毎年得ることになる。数字を含む文字の読み書きができず、かけ算もおぼつかない者が大半である現状、それだけの大金を手にしても持て余すのは間違いない。どのような用途で、どの程度のペースで金を使えばいいのか分からずに戸惑う。
消費すればなくなる嗜好品などに浪費するのではなく、仕事の効率を上げてより収入を安定させたり、生活の質を根本から向上させたり、非常時に備えたりするためには、どのように金を使い、あるいは貯めればいいか。今までとは比較にならない枚数が舞い込む貨幣をどのように数え、管理すればいいか。そうした教育を領民たちに施していく必要もあるだろうとミカは考える。
・・・・・・
この世界のこの時代、領主の伴侶は領主家の重要な働き手の一人。領地全体の管理に追われる領主に代わって、城や館の運営を統率するのがその役割となる。
収入や支出の計算と帳簿付け。家内の仕事の采配。食料や消耗品の管理。家臣や使用人の少ない小領主家では、さすがに野良仕事や水仕事などの重労働は家臣や使用人に任せるとしても、布作りなどの家内作業を務めることも多い。
来年には正式にヴァレンタイン家の領主夫人となるアイラは、自ら希望して、早くもその役割を少しずつ果たすようになっている。ヒューイット家よりも遥かに小規模で、家臣や使用人も遥かに少なく、色々と勝手の違うヴァレンタイン家の仕事の回し方を、ビアンカやヘルガやイヴァンの補佐を受けながら徐々に覚えている。
そうして館の運営を学ぶ過程で、ビアンカたちともすっかり打ち解けている様子。彼女が早くもヴァレンタイン家に馴染んでいることに、ミカは心から安堵している。
ある日の午後。領主館の二階に置かれた領主執務室。ミカはアイラから、丁寧に揃えて積まれた書類の束を見せてもらっていた。
「帳簿は十年分ずつまとめてあります。どうぞご覧になってください」
「それじゃあ、見せてもらいますね…………わあ、凄い。さすがですね、どれも完璧です」
書類の束を確認しながら、ミカは答える。
この村の収穫量や領主家の収支をまとめた帳簿は、村が築かれた五十余年前から毎年分が存在しているが、前領主家の二代目当主ドンド・ドンダンドの代からのものは記録のまとめ方があまりにも雑になっていた。
ミカは自領のこれまでの歩みを正しく把握するためにも帳簿を作り直したいと思いつつ、開拓や農作業で忙しいためになかなかそこまで手が回っていなかったが、それを聞いたアイラは自らこの作業を担うと言ってくれた。
彼女が毎日少しずつまとめ直した帳簿は、ミカが言葉にした通り、完璧だった。さすがは名家で教育を受けた令嬢と言うべきか、彼女は領主家の人間として相当に優秀。おそらくだが、生家で邪魔者扱いされて領地運営の実務を学べなかったミカ以上に能力があるようだった。
「これだけの帳簿を、たった三週間でまとめ直してしまうなんて、アイラさんは本当に凄いです」
「ありがとうございます。ミカさんのお役に立ててよかったです」
ミカが手放しで称賛すると、アイラは嬉しそうに笑う。
小さな領地の帳簿なので毎年の量は大したことはないとはいえ、この短期間で数十年分をまとめ直すというのは、実際に驚くべき仕事ぶりだった。
「ミカさんは念魔法で開拓作業をなさるので、一般的な領主よりも屋外での仕事が多くなると思います。なのでこうした事務仕事は私ができるだけ担って、ミカさんのご負担を減らせるように頑張りますね」
「ありがとうございます。本当に助かります。アイラさんのような素晴らしい伴侶を迎えられる僕は幸せ者です。本当に心強いです……愛してます」
ミカが称賛の言葉を畳みかけ、最後に愛を伝えると、アイラの顔が真っ赤になる。彼女はしばらく硬直した後、恍惚とした笑みを浮かべる。
ああ、なんて愛しい。ミカはそう思った。
「あの、アイラさん。ひとつ相談が」
「は、はい」
「……アイラさんが嫌でなければ、僕のことはミカと呼び捨てにして、敬語ではなく気楽な口調で話してください。僕たちはもう、一つ屋根の下で一緒に暮らしてる仲ですから」
ミカが提案すると、アイラは少し驚いた表情になり、そしてまた笑みを浮かべ、頷く。
「わ、分かりました。嬉しいです。ミカさんも、どうかそうしてください。夫が妻と話すように、私と話してください」
ミカは頷き、アイラの手をとる。
「それじゃあ、二人でそうしよう。これからもっと親しくなろう、アイラ」
「う、うん。よろしくね…………み、ミカ」
微笑して言うミカを見つめ返しながら、アイラは耳まで真っ赤になって頷いた。
二人の間に甘い雰囲気が漂い、互いに手をとり合ったまま顔を近づける。そして、
「……失礼ながら、お二人ともそこまでに」
執務室の入り口あたりに控える、アイラの世話役兼お目付け役である使用人が言った。
我に返ってアイラと一歩離れ、ミカは入り口の方を振り返る。ヒューイット家から派遣されて館に滞在している女性使用人は、気持ちは分かるが結婚まで我慢してくれ、と言いたげな生暖かい目でミカたちを見ていた。ミカは気まずさを覚えながら半笑いで彼女に頷き、アイラは恥ずかしくなったのか顔を伏せてしまった。