第35話 婚約①
事前の約束通り、アイラは夕方までにはパトリックのもとへ帰ってきた。
あのミカ・ヴァレンタインという青年から、今日という日の記念にと金細工店で買ってもらったらしい黒いブローチを身に着けた娘は、市街地巡りの様子を実に楽しそうに語った。
曰く、ミカは最初から最後まで、とても紳士的に振る舞ってくれたという。周囲から好奇の視線を向けられてもアイラと連れ立って歩くことを恥ずかしがる様子はなく、アイラと距離を開きたがるどころか、アイラの提案に快く腕を差し出し、はぐれないよう組んでくれたと。
そして彼は、アイラの格好やぬいぐるみはもちろん、アイラの考える幸せ――母との思い出を大切に抱きながら、自分の望む姿でいるという幸せそのものに深い理解を示してくれたという。
さらに、彼は自身のことも多くを語ってくれたという。領地を発展させ、庇護下の者たちに豊かで平和な生活を与え、そうして良き領主として生き抜くことが己の夢であると、高潔な信念を語っていたという。
先日彼と初めて会った際のことも合わせて、これほど何かを楽しげに語るアイラを、パトリックは本当に久しぶりに見た。娘が同世代の男をこのように好意的に評する様を初めて見た。
そしてアイラは言った。自分はあの青年と一緒になりたいと。彼を信じると。そう明言し、しかし家長である父を尊重して最終的な判断を委ねた上で、自分の客室に帰っていった。
その少し後に、アイラの護衛につけていた騎士が報告に訪れた。
軍事における側近格の一人であるその騎士は、距離を置いて跡をつけながら二人の様子を観察した結果――ミカ・ヴァレンタインは最後まで、アイラと一緒にいることを厭う様子を一切見せなかったと語った。すれ違う通行人から、立ち寄った露店や商店の店員から、何度奇妙な目を向けられようとも、アイラが自分の連れであることをまったく隠そうとせず、恥ずかしがることもせず、紳士的に彼女の傍に寄り添っていたと語った。
「……つまり、娘が語ったあの青年への印象は、好意によって飾られたものではなかったということか」
騎士の報告を受け、パトリックは呟くように言った。
「閣下、いかがなさいますか?」
「…………どうしたものか。いや、本当に悩むところだ」
昔から身の回りの世話を務めてくれている使用人に問われ、パトリックはそう返す。これほど悩むのも滅多にないことだと思いながら、思案を続ける。
アイラは理解し難いところの多い娘だが、それでもパトリックにとっては可愛い末娘だった。今も心から愛している亡き妻が、最後に生んでくれた大切な娘だった。
なので、どれほど奇抜な服装をしようと、子供のようにぬいぐるみなど持ち歩こうと、好きにすればいいと思っていた。ヒューイット家の財力を考えれば、アイラ一人を養うことなど何ということはない。このまま好きなようにさせて、無理に結婚はさせなくてもいいと考えていた。次期ヒューイット家当主となる長女――アイラの姉も、パトリックと同意見だった。
今回のエルトポリ訪問において、義理の姪であるサンドラ・ユーティライネンとの政治的な相談の他、アイラの嫁入り先を探す相談も一応は目的のひとつと定めていた。しかし、後者に関してはあくまでついでの相談だった。サンドラからは特に良い話はもらえなかったが、パトリックも元より諦めているようなものなので、特に落胆はしなかった。
そこへ来ての、突然のこの事態。パトリックはまず混乱し、そして今は悩んでいる。
ミカ・ヴァレンタインという人物については噂程度にしか知らなかったので、この数日であらためて調べた。サンドラより彼についての情報提供を受け、ユーティライネン家と近しい商人や職人からも話を聞いた。
一方で、アイラがそう望んだということにして、ミカに彼女と二人で市街地巡りをさせた。ミカの振る舞いをよく見ておくようアイラに言い聞かせた上で送り出し、さらにそこへ護衛を兼ねた監視をつけ、ミカの振る舞いを客観的にも観察させた。ミカが単に有力領主家との姻戚関係を欲してアイラに近づいているのではなく、本当にアイラに対して理解を抱き、アイラの傍にいることを厭わないのかを試した。
情報収集の結果、少なくとも悪い評判は聞こえなかった。流れ者ではあるが、どうやら領主家の生まれであることは本当らしく、言動に粗野なところはない。魔法の才を活かして真面目に領地運営に臨み、周囲とも友好関係を築こうと努力している様子だという。アイラの話も合わせて考えると、領主としては真っ当な気質なのだろう。他家の侵攻を退けるなど、能力もある。
彼の領地が小村ひとつだけの弱小であることに関しては、この際もはや気にしない。一応は領主身分で、アイラの伴侶になり得る人物が見つかっただけでも幸運と思うべき。
そして、アイラと共に市井に出向かせた結果を見る限りでは、アイラに対する扱いについてもどうやら問題ない。アイラの主観でも、護衛の客観でも、ミカはアイラを尊重していた。人目のある場所だろうとアイラと並んで歩けることを示した。
そして何より、初めて話したときの彼の反応。
パトリックは彼の前で、あえてアイラの姿を異様、奇天烈と表現した。こうすると、相手の反応は二つに分かれる。アイラを奇妙がることを許されたと思って「確かになかなか変わったお嬢様ですが」などと笑いながら言い出すか、ヒューイット家当主の前でその娘を笑ったと思われまいと、努めて表情を動かさないように振る舞うか。
しかし、ミカ・ヴァレンタインはそのどちらでもなかった。彼はなんと、不愉快そうな顔を見せた。よく見なければ分からないほど微かに、僅かな時間だけ、しかし確かにパトリックの言い様に不満を表した。まるで、アイラが悪く言われたことを、彼女の代わりに怒るように。
演技であのような反応を示せるとはとても思えない。あの反応は強く印象に残っている。あのとき受けた印象が自分の勘違いではなかったと、情報収集の結果も市街地巡りの観察結果も示している――ように思える。
できることならば、娘には人並みの幸せを掴んでほしい。あの変わり者の娘を理解してくれる者がいるのならば託したい。ミカ・ヴァレンタインの評判や振る舞いを、あのときの彼の反応を信じたい。
しかし、それは賭けだ。彼を信用できそうな判断材料がいくつあっても、実際のところは分からない。彼が流れ者かつ新参者の弱小領主であることは変わらない。
「……分からんな。賭けてみるしかないか」
長い思案の末、パトリックは言った。
何よりも、アイラ自身が望んでいることだ。彼女自身がミカ・ヴァレンタインに人生を賭けようと決意しているのだ。
未来など見えず、正解など分からない世界で、誰もが賭けを重ねながら生きている。可愛い末娘だけが何らの賭けを経ずに人生を歩めるということはあり得ない。
やらせてみるしかあるまい。
・・・・・・
アイラと楽しい一日を過ごした翌日、ミカはエルトポリでの細かな用事を済ませた。様々な買い物を済ませ、ヴァレンタイン領への帰還の準備も済ませ、ディミトリやジェレミーに都市観光をさせてやる時間も設けた。
そうして、明日にはエルトポリを発とうかと思っていた午後。またパトリック・ヒューイットから接触があった。ヒューイット家の使者が宿屋を訪れ、パトリックとアイラがエルトポリ城での会談を求めていると伝えてきた。
そして、その日の夕刻前。エルトポリ城の応接室にて、ミカはパトリックとアイラと対面した。アイラは随分と緊張している様子だった。
城の主であり、二人の近しい親類であるサンドラも会談の仲介役として同席する中で、パトリックが口を開く。
「ヴァレンタイン卿。ヒューイット家当主として、正式に提案させてもらう。我が娘アイラ・ヒューイットを、卿の伴侶としてヴァレンタイン家に迎えてほしい……娘は卿に惚れきっている。私としても、この変わり者の娘を卿がもし受け入れてくれるのであれば願ってもないことだ」
その言葉を受けて、しかしミカは驚かなかった。正直に言って、ここへ呼ばれた時点で用件は予想していた。
アイラから好意を持たれていることは察していた。というより、確信していた。あれほど分かりやすい笑顔を向けられて気づかないほど鈍感ではない。
そしてどうやら、アイラは社会から相当に奇妙な目で見られているようで、そんな彼女を理解し受け入れられる自分をよほど貴重な存在と見て、パトリックが目をつけたことも理屈としては理解できる。
とは言ったものの。
「……本当に、僕でよろしいのですか? 僕は得体の知れない流れ者上がりで、アイラさんと知り合ってまだ数日の身です。それに、我がヴァレンタイン領はまだまだ脆弱な小領地です。もしアイラさんがヴァレンタイン家に嫁げば、その将来は安定しているとは言い難いかと思います」
ミカはパトリックとアイラそれぞれに視線を向けながら、念を押すように尋ねる。
「アイラ、自分で答えなさい。そうしたいのだろう」
「……はい、お父様」
パトリックに促され、アイラはミカへ向けて語り始める。




