第21話 開戦
ハウエルズ卿の軍勢は、丘陵の頂上、やや開けた場所に野営地を置いた。目の良いルイスを斥候に出して確認させると、丘陵の頂上に天幕や旗が並んでいるのが見えたという。
そして、それから翌朝まで、敵に動きはなかった。
夜襲は極めてリスクの高い選択肢。夜に敵味方が入り乱れれば同士討ちが起こりやすくなり、命令は通りづらくなり、撤退もままならない状況になりかねない。兵の大半が領民からの徴集兵ともなれば、尚更に無秩序になる可能性が高い。
おまけに、敵は行軍を終えたばかりで、兵たちは疲れているはず。さらに敵の大将ハウエルズ卿としては、あえて賭けのような手段をとらずとも真っ向勝負で大勝できると考えたからこそ侵攻してきたはず。
ミカは念のため、領民たちに交代で見張りを立たせて夜襲を警戒させたが、結局は何事もなく朝を迎えた。
皆で朝食を取り、戦闘準備を整え、それから間もなく。同じように朝の支度を終えたのであろう敵軍が、丘陵を下って姿を現し、陣形を整えていく。
木柵の前に立ち、遠く敵の様子を確認したミカは、後ろ――領民たちの方を振り返る。
領民たちは既に戦う決意を固め、今さら逃げ腰の者はいない。
しかし、緊張はしているようだった。彼らの表情は強張り、ひどく汗をかいている者や震えている者も多い。無理もないことだった。
これまでこの村では、幸いにも概ね平穏が続いていた。昨年に襲来した盗賊団も結局はミカが追い払い、領民の誰も本格的な戦いを経験していない。しかし今から始まるのは、まさに戦争。人間同士の殺し合い。極度の緊張に襲われるのも当然。
「皆、すごく緊張してるね。こうして敵が前に並んでいるんだから、無理もないことだよ……それじゃあ、一度後ろを見てみようか」
ミカが言うと、領民たちは後ろを――村と農地のある方を振り返る。
「君たちの家が見えるだろう。父母や祖父母が建てて、君たちが受け継ぎ、いずれ君たちの子供や孫が受け継ぐ財産である家が。その向こうには、農地が見えるだろう。去年までよりもずっと広い農地だ。去年までよりもずっと豊かに小麦やライ麦が実っていて、夏には収穫できる。この春に種を蒔いた大麦も、秋になれば今までよりも遥かにたくさん収穫できる。君たちが頑張って働いたからこそ得られる成果だ。あの家々で暮らし、あの広い農地から豊かな収穫を得るのは、君たちだけに許された権利だ……それなのに、北を見てみろ!」
ミカが語気を強めて言うと、領民たちは再び北に向き直る。敵軍を見据える。
「あの軍勢を率いるレイモンド・ハウエルズ卿は、君たちの権利を奪おうとしている! あの家々での平穏な暮らしを奪い、あの農地から得られる豊かな収穫を奪おうとしている! 君たちはこれからも平和に、もっと豊かに暮らしていいはずなのに! 侵略者たるハウエルズ卿がそれを邪魔しようとしている! 君たちはこんなにこんなに頑張ってきたのに! 父母や祖父母の代からの苦労がやっっと報われようとしているのに! あの軍勢が全部台無しにしようとしている!」
ミカの言葉を聞きながら、領民たちの顔からは緊張が消えていく。そして今度は、怒りが彼らの表情を満たしていく。彼らは怒気を滲ませながら、戦おうと決意したときの顔に戻っていく。
「そんなひどいことが許されていいのか!? いいはずがない! 僕たちには幸せに生きる権利がある! その権利を守るためにこそ僕たちは戦う! 僕たちが正義だ! 敗けるはずがない!」
元より、彼らの心の中には十分な戦意がある。彼らの怒りをあおってやれば、それを燃料として彼らの戦意を引き出すことは容易だった。ミカが語り終えたときには、領民たちの間には覇気が満ちていた。
それから間もなく、陣形を整えた敵軍が前進を開始し、こちらへ近づいてくる。ミカは領民たちに命じ、戦闘開始に備えさせる。
総勢でおよそ二十五人の領民たちは、それぞれ足元に武器となる農具や、急ごしらえの木の槍を置いている。そして手に持っているのは投石紐。それぞれの足元の武器の隣には、拳ほどの大きさの石も十以上が置いてある。
敵軍はそのまま迫ってくることはなく、木柵の百メートルほど手前で停止。そして、白旗を掲げた騎士が一騎、近づいてくる。
「……あれは敵側の使者だね。話し合いのために出てきたんだ。誰も攻撃しないように」
ミカは皆に命じ、騎士の接近を待つ。騎士は木柵から数メートルの位置まで近づき、停止。木柵を挟んでミカと対峙する。
「お前がこの村に居座る魔法使いか?」
そう尋ねてきた騎士の言葉使いは、下馬せずに高い視点から言葉をかける態度と合わせて、とても一領主家の当主に向けるものではなかった。
「……僕が、この地の新たな領主、ヴァレンタイン家当主ミカ・ヴァレンタインだ。僕が許可していないのに、我が領へ軍勢を侵入させたハウエルズ卿の言い分を聞こうか」
「領主不在でどの家のものでもないこの村は、我が主家であるハウエルズ家が領有する。我が主人レイモンド・ハウエルズ閣下は、この村に居座る魔法使いへの慈悲として、生きて立ち去る機会を与えられる。ただし一切の財産の持ち出しは禁ずる」
概ね予想通りの要求がなされ、ミカは小さく嘆息した。
「そのような言い分は認められない。僕はヴァレンタイン家当主で、この地の領主だ。我が領への侵攻には断固として抵抗する」
ミカが答えると、騎士はしばらく黙り込み、そしてこちらの領民たちを見回す。
「お前たち! この魔法使いを追い出すか、あるいは殺せ! そうすれば、お前たちの命は助けると我が主人が――」
「うるせえボケが! とっとと消え失せろ!」
「誰がミカ様を追い出したりするもんか! ましてや殺すなんて、冗談じゃねえ!」
「そうだそうだ! 殺すとしたらお前だ! お前をぶっ殺すぞ!」
「命は助けるだと!? 命以外には何しやがるつもりなんだよ! 言ってみろ!」
領民たちからは怒号が飛び、騎士は面食らった様子で黙り込んだ。こちらの戦意の強さが予想外だったのか、困惑した様子だった。
そんな騎士の反応を見て小さく笑いながら、ミカはまた口を開く。
「見て分かる通り、我が領民たちはこの僕をこそ領主と認めている。僕も、領民たちも、ハウエルズ卿の要求は受け入れない……これ以上話しても意味はないだろうから、君はそろそろ自軍のもとへ戻っては?」
「……本気なのか? 戦いになればこちらの勝利は確実。お前を惨殺し、村の住民たちには極めて厳しい罰を与えると我が主人は仰っている。それでも本当に戦うというのか?」
「大丈夫だよ。こちらが必ず勝つんだから」
ミカはそう言って、領民たちの方を振り返る。領民たちは皆、力強く頷いて同意を示す。
「…………分かった。お前たちは降伏を拒否したと、我が主人に伝えよう」
騎士はそう言い残し、馬首を巡らせて自軍のもとへ戻っていく。最後に彼が向けてきたのは、ミカたちに同情するような目だった。
ハウエルズ家の家臣という立場に則った振る舞いをしていたが、彼個人はおそらく、そう悪い人間ではないのだろうとミカは思った。
が、己の主人に従い、こちらと敵対することが彼の決断である以上は関係ない。これは戦争なのだから。命と尊厳と財産を、人が生きる上での全てを左右する戦いなのだから。
「皆、後は戦うだけだ! 僕たちの人生を守ろう!」
「「「応!」」」
ミカが呼びかけると、領民たちは獰猛に吠えた。
彼らの咆哮に満足げに頷いたミカは、そして傍らのディミトリを向く。
「ディミトリ。いざというときは頼りにしてるよ」
「お任せください。ミカ様の背中は必ずお守りします」
逞しく力強い従者は、決意のこもった声で答えた。
・・・・・・
「……そうか、戦うか。なかなか良い度胸だ。あるいはただの馬鹿揃いか」
降伏勧告を拒否されて帰還した騎士の報告を受け、レイモンドは不敵に笑う。
たとえ流れ者の魔法使いが村に居座り続けたくとも、村の住民どもは百を超える軍勢を見ただけで震え上がり、そもそも戦いが始まる前に魔法使いを見限ってこちらに下る可能性が高い。レイモンドはそう考えていたが、魔法使いが一体どのように洗脳したのか、住民どもは士気旺盛な様子だという。
それならそれで構わない。元より、真正面から戦って容易に勝てるようにと揃えた兵力。愚かにも抵抗するのであれば、力尽くでねじ伏せてやればいい。
そして自称領主の魔法使いは殺し、領民どもは二度と逆らえないよう暴力をもって叩きのめす。戦闘やその後の占領時に何人死のうが構わない。いっそ、男は皆殺しにして女と子供は本領に連れ去り、この村は本領からの移民で埋め尽くしてしまってもいい。
都合の良いようにこの村を作り変えてしまえば、後は権勢拡大のための第二拠点として好きに使える。ひとまず、メルダース領と係争を起こして本領とこの拠点で挟み撃ちにしてしまうか。
「始めるぞ。本隊を突撃させろ」
もはや勝利を収めた後のことを考えながら、レイモンドは命じる。
率いる軍勢の戦闘要員は、総勢で百十人ほど。そのうち、騎士を含む職業軍人は姻戚からの援軍も合わせて十六人。残りは徴集兵。
まずは、正規兵五人を含む八十人ほどが、本隊として突撃を開始する。
敵側は防御策として木柵を立てているが、その高さはせいぜい胸のあたりまで。乗り越えるのはそう難しくない。そして、柵の裏に控える敵兵力はせいぜい三十人弱。数で押しきり、木柵の防衛線を突破してしまえば、農民の寄せ集めの部隊など簡単に瓦解するはず。
すぐに勝負は決まる。そう思いながらレイモンドが本隊の突撃を見守っていると――敵側も動きを見せる。
「……あれは、投石の動きか?」
敵側の農民たちが何やら紐のようなものを振り回し始めたのを見て、レイモンドは呟くように言った。




