第2話 通りすがり
この世界のこの時代、世界に対して人間の生きる領域はまだまだ狭い。
豊かで厳しい大自然の中に、村や都市はまるで島のように点在している。人類は人里を一つひとつ増やし、網の目のように繋げながら、生存領域の網を徐々に広げることで発展を成している。その歩みは実にゆっくりとしたもの。
そんな世界なので、旅をする場合は人里を伝うように移動することになる。カロッサ領を発っておよそ一週間、ミカはいくつもの村や都市を通過し、あるいは宿泊し、ダリアンデル地方南東部に到達した。
幸いにもここまで、野盗に路銀を奪われて身ぐるみを剥がされたり、獣や魔物に襲われたりはしていない。第二の人生では故郷を出たことがなかったミカにとって、知らない土地、知らない景色を歩くのはとても新鮮で楽しい。
宿とした村を早朝に発ち、ミカが目指すのは、もっと南の方角にあるという都市。
まだまだ人口の集約が進んでおらず、そもそも人口自体が少ないこの世界、人口が千人もあれば立派な都市と見なされる。そんな中で、とある大領主家の領都であるその都市は、なんと五千を超える民を抱えているのだという。それだけの都市であれば、流れ者が入り込む余地もある。
そしてミカは、この社会においては一割もいないであろう読み書き計算ができる人間。前世の記憶を持つおかげで幼い頃からぺらぺらと喋り、そのせいで生前の父から賢い子供だと見なされ、読み書きを教えてもらった。計算については、前世で義務教育を受けたので、四則演算くらいは生まれたときからできる。それだけでも、この社会では特殊技能と見なされる。
この技能と、そして前世で培った思考力があれば、大きな都市に入れば何かしら金を稼ぐ手段が見つかるだろうとミカは考えている。金を貯めて人を集め、どこか未だ無人の地を開拓し、そして領主になる。それがミカの考えた最高で完璧な計画だった。
「……ん?」
南を目指して黙々と歩き続けていたミカは、ふと首を傾げる。
大小の森が広がる地帯を抜け、今歩いているのは、やや開けた平坦な土地。そこを、右から左へと走っていく数人の男たちの姿が遠くに見えた。
最初は地元住民たちが野ウサギでも追いかけているのかと思ったが、走っていくのはその数人だけではなかった。さらに数人が、そして十数人が、数十人が、西から東へと走っていく。まるで何かから逃げるように。
「んんー?」
ミカのいる辺りにも、西から東へと走る人波が来る。皆、ミカを素通りして走り去っていく。多くはただの農民のようだが、なかには領主の手勢らしい整った装備の者や、馬に乗った騎士さえいる。皆、必死の形相で、逃げろ逃げろと口々に叫んでいる。
これだけ大勢が武器を持って集まっているということは、おそらく戦争。それも、数百人かもしかたしたら千人以上がぶつかり合うような、大規模なもの。おまけに走っている彼らは、どうやら大敗して壊走している最中。
「これ、僕も逃げるべきだなぁ……」
どうやら、無関係な戦争の、壊走の波に巻き込まれたらしい。そう気づいたミカは周囲をきょろきょろと見回し、とりあえず自分も流れに乗って逃げる。
大勢が壊走しているということは、その後に来るのは。
「ぎゃあああっ! 助けてくれえええっ!」
「殺せ殺せぇ! 皆殺しにしてやれぇ!」
断末魔の叫びと、殺意に満ちた凶暴な声が聞こえてきて、ミカは東へ走りながら後ろを振り返ってみる。想像した通り、この戦争に勝利した側であろう軍勢が現れ、壊走する軍勢の後方集団を狩っている様が見えた。
「ひ、ひえええ……」
まずいことになった。ミカはそう思いながら、走る方向を調整する。ただ東に向かって走るのではなく、南東方向、進んでいけば森の中に逃げ込める進路を取る。荷物のうち毛布や保存食などは捨て置き、懐に路銀だけを入れた身軽な状態で懸命に走る。
追撃の軍勢に追いつかれる前に、ミカはなんとか森に飛び込んだ。が、それで一安心とはいかなかった。ミカと同じことを考えたらしい者たちが何人も森に逃げ込み、それを追って追撃の軍勢も一部が森に入る。視界も足場も悪い森の中で、大勢が入り乱れる追走劇がくり広げられる。
「もお~! なんでこんな不運ばっかり!」
もはや追手の表情さえ見える距離で追われ、死に物狂いで走りながら、ミカは叫んだ。大声を出すと余計に息が切れるので良くないとは分かっているが、叫ばずにはいられなかった。
前世では夢を叶えようがなく、無念の中で死んだ。今世では何も悪いことをしていないのに邪魔者扱いされながら育ち、いよいよ自由に夢を追えるようになったと思った矢先、旅立ちから一週間で死にそうになっている。それも、通りすがりの身で無関係な追撃戦に巻き込まれるという冗談みたいなかたちで。
こんな目に遭わせるのなら、どうして自分に第二の人生など与えたのか。神様に内心で不満を垂れながら、ミカは走り続ける。
と、森の複雑な地勢での追走劇は突然に終わる。なし崩し的に同じ方向へ逃げていたミカと何人かの敗残兵たちが、正面方向に回り込んでいたらしい追撃の兵士たちに進路を塞がれる。森のど真ん中で囲まれ、完全に逃げ場を失う。
追撃側は合計で十人以上。それなりに整った装備をしていて、戦い慣れていそうな様子。おそらくは傭兵の類か。対する逃走側はミカを含めて六人。敗残兵たちのうち半数ほどは、逃げる途中で手放したのか武器すら持っていない。ミカは護身用の短剣を一本持っているが、この状況ではだから何だという話だろう。
「けっ、ついてねえな。大して金目のものも持ってなさそうな連中だ」
「仕方ねえ。全員殺して身ぐるみ剥ぎ取るぞ。服なら運ぶ手間もかからねえ。売れば少しは金になるだろう」
「おい、そのガキはちょっとばかり身なりがいいぞ。金を持ってるかもしれねえ。何でこんなところにガキがいるのかは分からねえが……」
傭兵たちは物騒極まる話をしながら、包囲の輪を狭めてくる。ガキというのはおそらく、小柄で華奢なミカのこと。
ミカと共に死の危機にある五人の敗残兵たちは、ほとんどの者が諦めた表情。膝をついて神に最後の祈りを捧げている者までいる。
「そ、そんな……」
このままでは本当に死んでしまう。そう思いながら、ミカは顔面蒼白になる。内心では死への恐怖よりも悔しさの方が勝っていた。
異世界に転生までしたのだ。夢を追うために歩み始めたばかりだ。夢に挑んで死ぬのならば本望だが、こんなところで、こんな馬鹿げた理由で死ぬわけにはいかない。冗談じゃない。
「おっ、戦う気か坊主? なかなか根性あるな」
「ははは、怖い怖い」
短剣を抜いたミカを見て、傭兵たちからは嘲笑が飛んだ。
ミカは強張った表情で、手も足も震えながら短剣を構え、周囲に視線をめぐらせる。この短剣で危機を乗り越えられるとは思っていない。この行動で傭兵たちの気を引くことで数秒を稼ぎ、その数秒で打開策を探す。
が、周囲に落ちているのは枝と葉、朽ち木と石くらい。この状況を切り抜ける術はなさそうだった。内心に満ちる悔しさを、諦念が上書きしていく。
ミカは一歩後ずさり、足元に転がっていた石に靴が触れる。視線を落とすと、そこにあったのはミカの頭ほどもありそうな大きな石だった。
ああ、急に自分の背が伸びて、手足も長くなって、このでっかい石を持ち上げて振り回すことができればいいのに。そうすれば、傭兵を数人殴り殺して突破口を切り開けるかもしれないのに。
ミカは現実逃避に、そんな妄想をめぐらせる。非力なミカには持ち上げることも叶わないであろう大きな石を、目の前の傭兵の頭に叩きつける妄想を――
「ははは、ごえっ!?」
そのとき。ミカの妄想は突如として現実になった。いや、現実以上の光景が生まれた。大きな石はミカの足元から勢いよく飛び出し、目の前にいた傭兵の頭にめり込んだ。傭兵は呻き声を上げた後、その場に頽れた。
「へっ?」
ミカは間抜けな声を上げた。周囲を見回すと、敗残兵たちも、敵である傭兵たちでさえも、地面に頽れた傭兵を見ていた。
一体何が起こった。できることならあの大きな石を振り回したいと強く願ったが、だからといって自分がこの手で投げたわけではないはずだ。そう思って自身の右手を見る。
右手は白い光を発していた。魔法使いが魔法を行使するとき、その手が光るのだと書物で読んだことがある。