第17話 投石紐と三圃制
冬の間は屋外での活動時間が大幅に減るとはいえ、皆無になるわけではない。比較的暖かくなる晴れた日の昼間には、多くの者が家を出て、農地の手入れや魔石肥料の撒布であったり、野菜畑での冬野菜の収穫や春野菜の作付けであったり、このヴァレンタイン領においては森の開拓であったり、様々な仕事に臨む。
そしてミカは、この冬の間に、領民たちに自衛訓練を施すことにした。一週間に一度ほど、領民の成人男性を集め、彼らに集団戦闘の基礎を教える時間を設けるようになった。
横隊や包囲陣など、簡単な陣形の構築。陣形を維持しながらの移動。隣り合う者たちと互いを守り合いながら、面で敵と対峙する練習。訓練の全てはミカが生家の家臣たちの訓練を観察したり、書物を読んだりして覚えた知識に基づくものだが、それでもやるのとやらないのとでは大違いだとミカは考えている。
いざというときにミカの命令で皆が組織立って動くことができれば、少数の盗賊や、森の奥から時おり現れる獣や魔物を撃退する程度のことは難しくない。もし他の領主家が襲撃してきても、ミカの魔法に加えて領民たちが敵の予想以上に堅実な防御を示せば、損害の拡大を恐れて敵が退く可能性が高まる。現状はまだまだ弱小領地であるこちらとしては、敵を退ければそれだけで十分に勝利と言える。
だからこそミカは、領民たちに集団戦闘を教え込む。
そして、領民たちがある程度迅速に陣形を組んで動けるようになった後、ミカが新たに始めたのが、投石の訓練だった。
「それじゃあ皆、注意事項を守って、的を狙っていこうねー!」
一月の下旬。ミカの呼びかけに応えながら、領民たちは村の北側の開けた場所で、並べられた木板の的に向けて石を投げる。
その際に用いられるのが、投石紐という道具。これは中央部分の幅が広くなるよう編まれた一本の紐状の道具で、この幅の広い部分に拳ほどの大きさの石を乗せ、紐の両端を握って振り回し、最後に紐の一端を手放して石を投げる。慣れれば正面に真っすぐに石を飛ばせるようになり、遠心力の乗った石の一撃は、当たりどころによっては人の命さえ奪う。
遠距離攻撃の手段があれば、戦いは一気に有利になる。しかし、弓には技術が要り、クロスボウは高価なので、領民の男たち全員に持たせることは現実的ではない。投石紐ならば、改造した紐一本とそこら中で拾える石で、十分な威力と数十メートルの射程を持つ攻撃を放てる。
なのでミカは、全ての成人男性に投石紐を扱う技術を身につけさせることにした。女性や成人前の者たちも、希望者は訓練に参加することを認めている。
「ジェレミー、お前の投げた石、全然当たんねえな」
「ほんとほんと。的は結構でかいのに、一回も当たるところ見てねえぞ」
「あれー? おっかしいなぁ」
他の領民たちから呆れ交じりに言われ、ジェレミーは首を傾げる。
「大丈夫だよ、ジェレミー。的には当たらなくても、ちゃんと正面に向かって飛んでるから。いざ戦いで投石をするときは、敵の集団を目がけて皆で一斉に投げることになるだろうから、石の数が重要になる。君の投げる石も、攻撃の密度を高めるのに十分な効果を発揮してくれるよ」
「じゃあ、俺もまったくの役立たずになるってわけじゃないんっすね……よかったぁ」
自分の奮闘も無意味にはならないと分かり、ジェレミーはほっと胸をなで下ろす。
「ジェレミーに比べて、ルイスはすげえよな」
「ええ、百発百中ね」
「立ててある的だけじゃねえ。こいつ、俺が空に放り投げた木の板を石で撃ち落としたんだぜ」
「ほんとかよ! ルイス、お前何でそんなに上手く投げられるんだ?」
「……何でって言われても。狙って投げたら当たるってだけだよ」
領民たちに言われたのは、ルイスという名前の若い領民。寡黙な性格の彼は、怪訝な表情でぼそりと答える。
「きっとルイスには、天性の才覚があるんだろうね。戦いのとき、君は皆とは別で敵を一人ずつ狙ったり、獣や魔物の弱点を狙ったりする方が活躍できそうだ」
ミカに言われたルイスは、無言で頷いた。
「ルイスは別格としても、他の皆も概ね真っすぐに石を投げられるようになってきたし、この調子ならいざというときも安定して戦えるだろうね。一安心だよ」
万が一誰かが暴投し、石が飛んできた場合に主人を庇えるようディミトリが隣で警戒する中で、ミカは皆の訓練風景を見回して満足げに言う。
この時代のこの世界は、ミカの前世に例えるならば、大小のヤクザ組織が無数に乱立して社会を構成しているようなもの。ヤクザたる領主たちはそれぞれの縄張りで税という名のみかじめ料を徴収し、その金で荒事や頭脳労働を担う配下を抱え、縄張りの中の治安や社会機能を維持し、外敵から縄張りを守っている。
そんな世界において、領地の存続と領主領民の生存を保障してくれるのは、究極的には力だけ。物理的な力がなければ何も守ることはできない。
もちろん、いくら物騒な世界とはいえ、対立と戦争ばかりが領主の生きる道ではない。多くの場面において、領主たちは対話や貿易、政略結婚などの平和的手段で他家と交流している。実際、ヴァレンタイン領と領地を接する領主家の当主たちも、ちゃんと理屈の通じる対話をしてくれる者たちだった。
そしてミカ自身も、平和な手段で他家と交流することを望む領主。まずは隣領を敵に回さないことを目指し、初対面の隣領領主たちに現時点でできる限り友好的な態度を示した。つまりは贈り物をした。金貨二枚という大金を投じ、予備も含め四本もの蒸留酒を揃えた。
しかし、やはり最後には物理的な暴力、組織的な軍事力がものを言う。利益。野心。面子。様々な理由から戦いは不意に巻き起こる。ミカも故郷にいた頃、周辺地域で大小の戦争が起こった話を何度も聞いた。カロッサ家も兵を出して参戦し、家臣や領民に死者が出たこともあった。
この地においてひとまず隣人たちとは友好関係をひとまず築いたミカだが、決して安心はできない。ただでさえ弱小で、魔法使いである領主個人の強さに戦力を大きく依存しているヴァレンタイン領は、いつどのような理由で狙われるか分からない。もし他家に襲われれば。自力でどうにかするしかない。
だからこそ、少しでも領地の戦力を充実させなければならない。このような備えは欠かせない。
・・・・・・
晴れた昼間に森の開拓が着実に進められたことで、二月も後半に入る頃には、ヴァレンタイン領の南の森は相当な面積が切り開かれた。耕作の障害物となる目立つ石なども領民たちの人海戦術で取り除かれ、現在は春の大麦の種蒔きに向けて、ミカの魔法で犂が牽かれている。
「この調子で進めれば、三月に入る頃には耕す作業も終わりそうだねー」
「ええ。去年の秋に続いて、本当にご苦労さまです」
「これも我が領の発展のためだからね、楽しい仕事だよ」
この日の午前の作業を一段落させ、魔力を消耗して心地良い疲労感を覚えながら、ミカはマルセルに答える。
この半年ほど、時間を見つけては森を切り開いて農地を拡大してきたが、いくら念魔法の助けがあったとはいえ、さすがに耕作地を倍増させるには至らなかった。とはいえそれなりの面積が切り開かれたのは間違いなく、この新農地も利用して、ヴァレンタイン領では今年から三圃制の取り組みが導入されることになる。
「来月にはこの農地に大麦の種を蒔いて、そして……向こうの休耕地の一角には、クローバーの種を蒔くことになるわけですか」
「うん。生家の書物で読んだ大帝国時代の農法がどれくらいの効果を発揮するか、来年の耕作が楽しみだね。って言っても、まだ今年も序盤だけど」
休耕地の方を向きながら、ミカはマルセルに言った。マルセルも微苦笑で頷いた。
今までこの村では、ダリアンデル地方の大半の領地と同じように、二圃制が採用されていた。農地が二つに分けられ、一方が耕作地に、もう一方が地力回復のための休耕地になっていた。
今年からは、新たに三圃制が導入される。ミカはさらにそこへ、地力回復のためのクローバー栽培も取り入れる。クローバーの効果については「古い書物で読んだ」ということにしてある。
今まさに小麦やライ麦が育っている農地では、夏に収穫がなされる予定。切り開かれたばかりの新農地では、春に大麦の種が蒔かれ、初秋に収穫がなされる。
そして、今年休耕がなされる農地では、新たな試みとしてクローバーが植えられ、そこで豚が放牧される。豚たちは休耕地で柔らかいクローバーを貪り、そこで糞を落とす。クローバーの作用と家畜の糞によって、休耕地はただ一年休むよりも多くの地力を蓄える。
ただし、クローバーが栽培されるのは休耕地の四分の一ほどに限られる。この世界のクローバーに前世のクローバーと同じ地力回復効果があるかはミカにも分からない上に、いきなり休耕地全体に手を加えることには領民たちも抵抗があるだろうと配慮した上での決定だった。
犂を用いることで農地面積あたりの収穫量を増やし、開拓によって農地そのものも拡大していけば、もし三圃制やクローバー栽培が上手くいかなかったとしても直ちに飢える心配はない。ミカがそう語ったことで、マルセルをはじめ領民たちも納得し、新農法の実験的な導入に賛成してくれた。
「三圃制もクローバー栽培も未知数ではありますが、村の皆はきっと上手くいくだろうと言っています。ミカ様が話に聞いたり書物で読んだりして導入を決められたのであれば、心配することはないだろうと……私も同感です。犂のおかげで今までより明らかに豊かに実っている麦を見れば、この村の農業はますます成功していくのだろうと思えます」
そう言って、マルセルは順調に育つ麦畑を見回す。
「皆の期待に応えられると信じてるよ。きっとうまくいく」
ミカも、昨年に自分で耕した麦畑を眺めながら、自分自身に言い聞かせるように言った。