第16話 楽しみに
十二月の末。メルダース領の北西に位置し、五つの村を領有するハウエルズ領。
この地の領主であるレイモンド・ハウエルズは、居城の執務室で側近から報告を受けていた。
「タウンゼント家、ピアース家の双方より、侵攻に参加すると返答がありました。それぞれ二十の兵を、三月の下旬までに援軍として寄越すとのことです。見返りについても、閣下の提示された通りで問題ないと」
「……そうか、よくやった。ご苦労だった」
側近に答え、彼を下がらせた後、レイモンドは椅子の背に体重を預けて思案する。
冬明け、レイモンドはハウエルズ家の抱える手勢と領民からの徴集兵、そして金銭や将来的な権益を対価に姻戚の領主家から借りる援軍を率い、軍事行動を起こすつもりでいる。
狙うのは、旧ドンダンド領。ハウエルズ領から見て南の方にある丘陵の、さらに南向こうにある小さな村。
レイモンドは野心に生きる人間だった。ハウエルズ家の権勢を拡大し、ゆくゆくはこの地域の中心的な領主家へと成長させることが夢だった。なので内政に励んでハウエルズ領を着実に発展させ、姻戚との関係性を強化し、さらには領境争いを理由に隣領を二つ征服し、領地規模を大きく増した。領内人口は一千三百に届き、ハウエルズ家はこの地域における有力領主家のひとつと見なされるようになった。
そんなときに聞こえてきたのが、領主家が逃亡して領主が不在となったという村の噂。現在その村には流れ者の魔法使いが居座って領主ごっこをしているようだが、レイモンドに言わせればまったく馬鹿げた話。そんな得体の知れない奴が領主と認められるはずがない。
村が実質的に領主不在である以上、次の領有は早い者勝ち。大義名分作りなどの工作をする必要もなく、新たに村を手に入れられる絶好の機会。その村が丘陵南側にあるというのもかえって都合がいい。これまで手の届かなかった地に、権勢拡大の第二拠点を置くことができるのだから。
その村と隣り合うメルダース家、コレット家、フォンタニエ家は、小領主であるが故に魔法の力を恐れて手を出していないようだが、レイモンドは違う。念魔法使いと言っても所詮は人間。人間である以上、剣で斬れば死ぬ。矢で射抜いても死ぬ。五十人の盗賊を撃退したなどという逸話も、誇張が含まれているに決まっている。
そして、あの領地の人口は僅かに百人程度。戦えるのはその三割程度か。姻戚からの援軍を合わせて百人以上の兵力に加え、こちらの切り札――ハウエルズ家の抱える魔法使いも投入して侵攻すれば、勝利は容易なはず。
自称領主を排除し、後はハウエルズ家の好きなようにする。そうなることは既に決まっている。
冬明けを楽しみに待ちながら、レイモンドは侵攻の準備を着実に進める。
・・・・・・
ダリアンデル地方においては、聖暦と呼ばれる暦が用いられている。これは大昔、ダリアンデル地方がロメル帝国という名の大帝国の領土だった頃から使われている暦で、ミカが生家を旅立ち、魔法の才と自分の領地を手に入れたのは、聖暦一〇四二年のことだった。
そして、本格的な冬が始まって数週間が経ったこの日、ダリアンデル地方は聖暦一〇四三年の一月一日――新年の初日を迎えた。
「それじゃあ皆、お酒は行き渡ったねー?」
ヴァレンタイン領の領主館の前庭。ミカが呼びかけると、集った領民たちは元気よく答える。
ダリアンデル地方で広く信仰されるラーデシオン教において、大きな祝祭は初春にあるが、一応は新年を祝う文化もある。農村部では村全体で酒を飲んで祝うことが多く、ミカの生まれ故郷カロッサ領でも新年には各村の広場に領民たちが集まり、祝杯をあげていた。
余裕のある領地になると、この祝いの酒を領主家が民に振る舞うこともあるという。今年のヴァレンタイン領は、麦も順調に育っており、余裕がある見込み。また、この地の領主になったばかりのミカは、領民たちとの良好な関係をより強固にするためにも、彼らを喜ばせる機会を逃さない方がいいと考えた。
結果、皆が掲げる杯に入っているのは、ミカが用意した果実酒。領主館の敷地内で採れる林檎を発酵させた酒で、今までは冬明けに領外へ売られて領主家の収入の足しになっていたという。とはいえ大した量は作れないので売上はたかが知れており、であればいっそ民に振る舞ってしまおうとミカは考え、果実酒はこうして百の杯に収まっている。
普段はなかなか飲めない甘い果実酒を前に、領民たちの表情は明るい。楽しげに会話する者。普段飲むエールとは違う芳醇な匂いを楽しむ者。乾杯前にこっそり一舐めしようとして他の領民に引っぱたかれる者。新年にふさわしい、賑やかな雰囲気が館の敷地内を満たしている。
「あはは、皆お酒が楽しみで仕方ないみたいだから、短く一言だけ話そうか……去年は僕にとって素晴らしい年だった。この村の領主になることができてとても嬉しかった。君たちもきっと、僕が新しい領主になったことを喜んでくれてると思う」
ミカが言うと、領民たちは口々に同意してくれた。「当たり前じゃないっすか!」というジェレミーの元気な声が、一際目立って聞こえてきた。
「皆ありがとう、よかったよかった……君たちの喜びに応えるためにも、今年を去年よりさらに良い年にしていきたい。このヴァレンタイン領をもっと豊かに、君たち領民をもっと幸せにしていきたい。そのためには、君たちの協力が不可欠だ。だから、僕たち皆で力を合わせて、今年も頑張ろう! 乾杯!」
ミカが杯を掲げると、領民たちも威勢よく杯を掲げて応えた。
そして、宴会が始まる。幸いにも空が晴れて日中は多少暖かく、領民たちは果実酒を、それがなくなるとエールを飲み、各家から持ち寄られたパンやスープを食べる。領主家からは、イヴァンが絞めてヘルガが焼いた鶏が三羽、領民たちに振る舞われる。
皆が楽しそうに飲み食いする様を眺め、ミカはにんまりと笑う。幸福と呼ぶ以外にないこの光景の主が自分なのだと思うと、とても誇らしかった。
と、そんなミカのもとへ、何人かの若い領民たちが集まってくる。
「ミカ様! 杯が空じゃないですか? 俺がエールをお注ぎしますよ!」
「いや、俺に注がせてください!」
「じゃあ、私はその次に!」
「おいおいお前ら、ミカ様にどんだけ飲ませる気だよ」
ディミトリが少し呆れた表情で言う横で、ミカは小さく吹き出す。
「いいよいいよ。せっかくの新年なんだから、できるだけ頑張るよ。皆に注いでもらえるように、ちょっとずつもらおうかな」
ダリアンデル地方において庶民の酒であるエールは、ミカの前世における酒と比べると酒精が弱く、よほどの量を飲まなければ泥酔したりはしない。領民の一人から自身専用の銀製の杯に少し注いでもらったエールを飲み干し、また別の領民に注いでもらって飲みほし、それをくり返す。
結果、集まってきた領民たち全員から酒を注いでもらっても、ミカは平然としていた。
「あの……ディミトリさんの杯も空だから、エール、注ぎますよ」
ディミトリにそう声をかけたのは、彼に熱を上げているビアンカだった。彼女と目が合ったディミトリは一瞬固まり、
「……ああ。じゃあ、もらおうか」
そう言っておずおずと杯を差し出す。ビアンカは持っていた壷を傾け、ディミトリの杯にエールを注ぐ。エールが零れないよう、彼女がディミトリの間近まで近づいたことで、二人の腕が振れ合う。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとうな、ビアンカ」
「……っ! いえ、どういたしまして」
おそらくディミトリとしては狙っていないのだろうが、名前を呼ばれたビアンカは目を丸くして小さく息を呑み、頬を赤く染めながら答えた。
そして彼女は、ミカにエールを注いでくれた領民たちに話しかけられ、おそらくは顔が赤いことをからかわれながら皆で離れていく。
「……ねえ、ディミトリ。ビアンカとはいつ結婚するの?」
「んぶっ!?」
離れていくビアンカたちの背を眺めながらミカが尋ねると、杯に口をつけていたディミトリは驚いたのか、せっかくビアンカが注いでくれたエールを少し零す。
「げほっげほっ……あの、俺は別にそんな」
「ディミトリ、さすがにそれは無理があるよ。ビアンカはあんなに分かりやすく君を好いてるし、君も彼女に注目されて分かりやすく喜んでる。二人とも独身で、歳も近い。だからもう決まりだと思ってたんだけど……違うの?」
「……いや、俺はビアンカと一緒になりたいです」
観念したのか、ディミトリは素直に気持ちを認めた。
「それじゃあ、あとは時期の問題だね。きっと彼女も、君に想いを告げられるのを待ってるよ」
「はい、それは……分かってます。だから……夏までには。夏には麦が大収穫されて、この村には今までより生活の余裕ができると思います。ビアンカの家も。だから、収穫期が明けて皆が一段落する頃に結婚できるよう、夏の前にはビアンカに求婚して、あいつの両親に結婚の許可をもらいたいと思ってます」
そう語るディミトリの表情には、しっかりと覚悟が宿っていた。それを認めたミカは、微笑で頷く。
「うん、それはいい考えだね。それじゃあ……夏までに、いい報せを聞けることを楽しみにしてるよ」
ミカはそう言って、ディミトリを応援するように彼の背中をぽんぽんと叩いた。ディミトリは少し照れたように苦笑し、頷いた。