第15話 完璧な冬
十二月に入ると、空気はいよいよ冬らしくなる。領地間の人の往来は激減し、経済活動もほとんど止まり、社会はまるで眠りについたように静かになる。
ヴァレンタイン領もそれは同じ。元より領外の人間が来訪したり通過したりすることの少ないこの田舎の小領は、冬が来ると森と丘陵に囲まれた陸の孤島となる。外からやってくる者など皆無。三か月ほどの間、領主と領民を合わせておよそ百人だけの世界が生まれる。
この小さな世界において、ミカも含めて多くの者は、屋外での活動時間を大幅に減らして屋内で長い時間を過ごす。何をするかと言えば、それは人それぞれ。手先の器用な者は内職を兼ねて何かを作り、隣近所の者と盤上遊戯、ミカの前世で言うところのボードゲームなどに興じる者もいる。なかには、忙しい他の季節の疲れを癒さんと、昼寝ばかりして過ごす者も。
領主館の大部屋。そのテーブルでは、領主ミカの従者であるディミトリと、領民の筆頭であるマルセルが、ペンを片手に紙と睨み合っていた。そうして、文字の読み書きの練習に励んでいた。
「……少しずつ、分かってきたような気がしますね」
「そうかぁ? 俺にはまだ、変な模様の集まりにしか見えねえよ……」
マルセルがペンを走らせながら言うと、ディミトリはミカが用意してくれたお手本と自身の書いた文字を見比べ、顔をしかめながら答える。
領民のまとめ役のような立場にいるマルセルは、今後もミカの補佐役を務めるにあたり、読み書きができた方が便利だからと自ら望んで。そしてディミトリは、護衛が主な仕事とはいえ、領主の従者を務めるなら基本的な読み書き程度はできた方がいいだろうとミカから言われ。毎日それぞれ一定時間を勉学に充てている。今日はこの数週間での習熟度をミカから見定められるため、マルセルも領主館に呼ばれて二人でテーブルについている。
「ほんと、まさか俺が文字を勉強する日が来るとはなぁ。腕っぷしには自信があるが、こういうのは……マルセルさん、あんたよく自分から勉強することを願い出たな」
「ははは、実は文字の読み書きを身につけるのは、昔から密かな夢だったんですよ……子供の頃から賢いだの頭が回るだのと言われて育って、いつのまにか村の皆の代表として領主家の方々と話す立場になっていましたが、それでも所詮は小村の一領民です。前領主家の方々も、領民に文字の読み書きを教えてくださるような気質ではありませんでした。なので、お願いを聞き届けてくださったミカ様には本当に感謝しています。読み書きができるようになったら、より一層の貢献で御恩を返さなければ」
黙々と文字の書き取りをしながら、マルセルは語った。
「なるほどなぁ……マルセルさんがそう言ってるのに、ミカ様の従者を務めてる俺が弱音を吐いてるわけにもいかねえか。せっかく期待をかけてもらってるのに、期待外れにはなれねぇ」
「ディミトリさんは、本当にミカ様を慕っているんですねぇ」
大きな背中を丸めて目の前の紙と向き合うディミトリを微笑ましく見ながら、マルセルは言う。
「そりゃあそうだよ……俺ぁ故郷の村じゃあ、でかくて無駄に力が強い大食らいだって周りから馬鹿にされて、家族からはみそっかす扱いされてたんだ。しまいには厄介払いするように戦争に送られて、わけも分からねえまま敗けて追われて殺されかけて。そこをミカ様に助けられたら、人生が丸ごと変わっちまった」
語りながら、ディミトリの口元には自然と笑みが浮かんだ。
「ミカ様はあっという間に領主様になって、俺はその従者だ。館に部屋をもらって、領主のミカ様が食べるのと同じ内容の飯を、毎日満腹になるまで食わせてもらえる。ミカ様はいつも、俺のことを強くて頼りになる、期待してるって言ってくださる。それだけじゃねえ、この村の皆だって、いつも俺を頼もしいって褒めてくれる。こんな風に、馬鹿にされずに誰からも認められてると、何ていうか……」
「自分の居場所がある?」
「そう、そんな感じだ。自分の居場所があると思える。こんな人生を生きられるなんて思ってもみなかった。ミカ様が俺を従者にしてくださったからこうなったんだ。たった半年足らずでこうなった。これからもミカ様にお仕えしていけば、もっと人生が良くなっていくかもしれねえ。いや、間違いなく良くなっていく。明日や、来週や、来月や来年が楽しみだと思いながら生きるなんて、生まれて初めてだ……だから、ちゃんとミカ様に恩返しをできるようにならねえと。そのために俺ももっと頑張らねえと。もう貧乏農家の三男じゃねえんだから」
ディミトリは自分の名前を一文字ずつ書き写す。ゆっくりと、しかし着実に。
識字率が一割にも満たないであろうダリアンデル地方では、貧民は自身の名前さえかけない。ディミトリは今、少しずつ、貧乏農家の三男から成長を遂げていく。
「さーて、二人とも調子はどうかな?」
そのとき。館の二階から、二人がまさに話題にしていたミカが下りてきた。ディミトリとマルセルが手元の紙を見せると、ミカは笑みを浮かべる。
「うん、数週間でこれだけ書けるようになったのなら十分すぎるよ。マルセルはさすが、呑み込みが早いね。それにディミトリも、思った以上に筋がいい。簡単な読み書きができるようになれば十分だと思ってたけど、この調子ならいずれ書物も読めるようになりそうだ……さすがは、僕の頼れる従者だね」
「ほ、本当ですか……もっと頑張って、ご期待に応えます」
「うん、期待してるよ。だけど焦らずに、一歩ずつ着実にね」
ディミトリは喜色を浮かべながら主人に頷く。そのディミトリと目が合い、マルセルは優しい笑みを返した。
・・・・・・
冬の多くの時間を屋内で過ごすのは、領主であるミカも例外ではない。
日照時間が短いのでいつもより遅く起床して早く就寝し、なので起きている時間そのものは他の季節よりも短いものの、ただ屋内でぼうっと過ごすにはあまりにも余暇時間が多い。そんな冬を、生家でのミカは、毎年読書にふけってやり過ごしていた。
カロッサ家は小領主家の部類だが、家の歴史はそれなりに長かった。一応、大帝国の時代まで家系図を遡れる由緒ある家だった。家と共に歴史を歩んできた小さな城には、代々の当主が集めてきた、小領主家のわりには豊富な蔵書があった。邪魔者の庶子も一人静かに読書をしている限りは文句を言われないので、百冊を超える書物を、ミカはそれぞれ何度も読んだ。
しかし、このヴァレンタイン領――旧ドンダンド領の領主館には、ミカが館の新たな主となった当初、書物がなかった。領地領民を捨てて逃げたドンダンド家の人々は、その際、大した数のない書物を含めてすぐに持ち出せる金目の物をあらかた持ち去ってしまった。
前世ではインドア派の文化系だったミカにとって、読書は今世における唯一の趣味。前世とは比べものにならないほど娯楽の少ない今世において、数少ない楽しみ。このままではあまりにも退屈な冬が到来してしまうため、ミカは秋のうちに、アーネストに書物を注文しておいた。
前世の中世ヨーロッパと比べれば、この時代のダリアンデル地方では植物紙が普及している。ある魔法植物の分厚く大きな葉、その表皮の下にある繊維の層をごく薄く切り、乾かすことで、前世のものよりは多少ざらついているが、十分実用に耐えうる白い紙が手に入る。
また、一部の有名な書物に関しては、大都市では木版印刷による量産も行われているという。そのため、書物は間違いなく高価なものではあるが、それでも前世の中世ほどではない。ミカが金貨二枚を予算としてアーネストに「中古で、読めるのであれば状態が悪くてもいいので色々な物語本を集めてきてほしい」と頼んだところ、彼は八冊の書物を集めてきてくれた。
そのうち半数はミカが生家で読んだことのあるものだったが、この際関係ない。読めれば何でも構わない。手元に書物がある安心感を覚えながら、ミカは冬を迎えた。
「はい、お茶をどうぞ」
「ありがとう、ヘルガ」
ある日の午前。館の大部屋の一角。椅子に腰かけて読書にふけるミカは、傍らの小さなテーブルに木製のカップを置いてくれたヘルガを向いて礼を言う。
「ミカ様は本当に、読書がお好きなんですねぇ」
「そうだねぇ。特に物語本が好きだよ。頭の中で物語の世界を旅すると、書物を閉じたとき、現実がより愛おしく思えるんだ」
「まあ、深いお言葉ですねぇ」
柔和な笑顔で言ったヘルガは、ミカの読書を邪魔しないように気遣ってか、すぐに離れていく。
ミカは温かいお茶を一口飲み、ほっと息を吐いて再び書物に視線を落とす。
これぞ自分流の、完璧に正しい冬の過ごし方。なんて穏やかで幸せなのだろうとミカは思う。