金魚さん手紙が届く
朝、玄関の前に立っていたのはあの男の秘書を務める山田さんだった。
おはようございます、と丁寧に頭を下げる彼は桜さんと似ていて、人間なのに機械みたいだった。
あの人の傍にいる人は皆こうなのだろうかと思ってしまう。そして今日も山田さんはただ渡すように頼まれたものだけを私の手に掴ませて、そのままどこかへ行ってしまった。
白い封筒、冷たい温度。
「砂羽?」
学校についてもなおその封を切れずにいる私の隣で知佳が私の名前を呼んだ。
「知佳。」
「何それ、手紙?」
たいていあの男からの手紙は私に不幸を運んでくるもので、白い封筒は私のトラウマとなりそうだった。直筆で書かれていることはなく、黒いインクが文字を形作るだけ。
「ゴミ。」
とは言っても捨てられず、いつかは開けなければならないのだけれど。私は心の中でため息を零してポケットに押し込んだ。破って捨てることができるなら、どんなに楽か。こんな小さな紙切れで縛りつけられている自分がとてもみっともなかった。
「ふーん。砂羽、手紙嫌い?」
「わかんない。」
家に届くのは事務書類以外は全部白いあの封筒だけ。手紙に求めるものなんてない。
「そっか。」
知佳が私の席を去ると教室がしだいに静まり、朝のSHRが始まった。いつ開けよう、そこにはあの人の要求が書かれている。唯の一度でさえ私の望んだことが、一文字さえも書かれたことなどない。
黒いスーツの先生が教卓を離れると、また教室はざわついた。私立であるこの学園に入学できただけでも私にとっては幸せそのものだった。
中学までは傍にいる子の多くが私に眼を光らせて、その行動のほとんどをあの人に報告していた。
白い封筒一つであのころのことまで思い出すなんて、私はやっぱりあの頃から何も変わっていないと机にため息を零す。
「はい、席に着いてください。」
小さく震える手からペンを離して保健室に逃げようとしたところで教室に響く教師の声に私は俯いた。
逃げ場所なんてあるはずないのに、私はため息に笑いを混ぜて零した。逃げようとする私に誰も気づかない、それで十分幸せ。そんな私を置いて授業は始まった。黒板はすぐに文字に埋め尽くされていく。
鳥は鳴く、理由などない。そう書かれた一文に眼が行く。その時だ。
トントン、と後ろから肩をたたかれて私は小さく体を揺らすとそっと振り返った。
「壱谷さんにだって。」
後ろの二つに結う可愛いクラスメイトは蚊の鳴くような小さな声でそういうと、そっと私に何かを手渡した。そんなことは初めてで、クラスの子と授業中に話すのは何か用があるときだけだったので、私は少し戸惑いながら前を向いて渡されたものを見た。
ルーズリーフが丁寧に四つ折りにされ、その上の面には手紙と書かれていた。
私はそれが誰からか、すぐに分かった。
『砂羽へ。』
綺麗だとはいけないけれど、優しい文字が鉛筆でつづられている文章の一番上に私の名前があった。
窓から入ってくる風から緑の匂いが伝う。太陽に愛された者の匂いだった。
『今日はあったかいから良かったら外でお昼一緒に食べない?
って言うつもりでさっき机に行ったんだけど、嫌だって言われるの怖くてさ、笑っちゃうね。』
手が震えて、その紙が揺れた。
『そういえば今日先生デートだから服、気合いはいってんね。
髪の毛も綺麗にしてるし、本気の相手なのかな?
そろそろ結婚できないとちょっとやばそうだよね、さすがに二十八歳は。』
体中が温かい空気に包まれていく。
『手紙、いっぱいかくよ。そしたら“手紙だ”って喜んでくれる?』
この一枚で十分だった。
幸せすぎて、この手紙一枚でずっと生きていける気がした。
何も要らない、これ以上の幸せなんてない。私はぎゅっとその手紙を握りしめて最後の一行を見た。
『砂羽が笑っていられますように。知佳より』
あぁ、私はこの人が大好きだ。
私の不安をいつも簡単に奪ってくれる、温かい陽だまりに連れて行ってくれる。
気まぐれ猫の彼が与えてくれるものは全て温かい。
開こう、あの白い封筒を。そこに何が書かれていても、私は怖くない。
机の上に広げたノートにそっと知佳からの手紙を置いて、ポケットから汚れを知らない真っ白な封筒を取り出す。並べてみると知佳の手紙は不格好で、笑いそうになる。
チャイムが鳴ったら届けに行こう、ありがとうって、お昼一緒に食べようねって私の言葉を。
二十八歳ってまだ若いかな。
よくわからんがそれくらいまでには結婚したいという願望?・・・笑