金魚さん約束の決意
熱に頬を赤くして彼は、もしも離れたらと聞いてきた。何の戸惑いがあるはずもなかったのに、私は答えを渋った。気まぐれな猫ならすぐに飽きてどこかへいってくれると思って、傍においていたのに。私はいつの間にこんなに弱くなったのだろうと黙り込んでしまった。
次から次へと浮かんでくる言葉は全て言い訳だったから、言葉にできなくて。熱で全て忘れてくれるかもしれない、それなら今だけは素直になっても大丈夫かもしれない。そんな無意味な条件をつけて、私は私の心の中を零した。
全部を奪われたときから、私はあらがうことをやめた。大人になった。学校だけが唯一干渉が薄れる私の幸せな場所だった。私の最後の抵抗はあの家をでて、寮にはいること。そんな小さなことが私にとっては精いっぱいの抵抗だった。未来を変える力も、自ら運命を切り開く力も何もない、ただの女の子だった私の最大の抵抗。あの日から私はあの人から与えられるものに対する一切の抵抗をやめた。
「砂羽、まだお昼食べないのか?」
教室に帰った私に柚季がそう言った。もうすっかり太陽が空を赤くにじませている。
彼は眠ったまま、目を覚まさない。私は彼と約束した、お昼を一緒に食べようと。
「待ってる。」
目を覚まして、笑いかけてくれるのを。それはまるで永遠のようにも感じた。けれどその時間が嫌だと思うことはなかった。彼に捧げる時間、彼に包まれる全てが心地よかった。
「いつまでそうしてる気なのさ。」
じれったそうにいう柚季の顔を見るのが怖い。私の全てを見てきた柚季に隠していることがある証拠だ。あの暗闇がすぐに知佳との時間を奪っていくことを分かっていて、私はまだ教室でお弁当箱を前に座り込んでいる。
「あいつはやめとけって・・言ったのに。」
「平気。何も、・・何も特別な感情を抱いているわけじゃない。」
嘘をつかない彼と違って、私はいつも簡単に嘘をついて人を遠ざけてきた。
いつまでという質問は、きっと奪われるまでという答えをもつ。
「嘘。」
「ほんと。」
どんどん日が暮れていき、教室が薄暗くなる。少し冷たい空気に知佳の手の温度を思い出すと胸が詰まる。
私はこの感情を何と呼ぶかちゃんと知っていた。どんどん大きくなっていくその存在に戸惑って、幾度も突き放してきた。けれどそれでも彼は私が名前を呼ぶだけで嬉しそうに笑うんだもの。
「嘘。」
柚季が笑った。お腹がからっぽで、限界を超えた状態にある。赤い空に浮かぶたくさんのピンク色の雲を眺めていると、そんな感覚まで奪われる。
「うそ。」
「やっぱり。・・・・・・いつまでそうしてるつもり。」
それはお弁当を目の前に彼を待っている状況ではなく、私を取り囲む状況のこと。
そういえば彼と出会ったころ、私が抱いていた感情はきっと憧れだったのだろう。
自由に見えて本当は何一つ自分の思い通りにはできない私は、自由に生きる彼がうらやましかった。
好きなものを好きといって、怖いから曖昧なままにして、簡単に人を傷つけて、けれど簡単に人を抱きしめて。誰もが彼に惹かれる。特別じゃなくてもいいからと、彼を欲する。
「もう・・・このままじゃ・・いられないのかな。」
私は全て分かっていて知らないふりをした。自分の感情にも気付かないようにして。
白いシーツの中で彼はあんなにも懸命に私を求めてくれていた。
雨の降る日、彼はひどく悲しそうな顔をして、震える声で嘘をついた。
「いられないって。」
「・・・・・・・そう、だよね。」
ただ、動き出せない。私は今でもあの暗闇が全てを奪う力を持っていることを知っている。
私に自由なんてありえない。一度だけ会ったことのある、スーツの似合う人と結婚する。
彼との子供を立派に育てて、会社を大きくする。コンクリートでできたあんなものを、わたしはこれからも大切に守っていかなくてはならない。
「おなかへったな。」
黄色の小さなトートバッグは華がくれた誕生日プレゼント、その中にある冷めきったお弁当は今朝私がいつも以上に見た目を気にしながら詰めたおかずが待っている。そのよこに入ってるスプーンとお箸とフォークにはかわいいクマが笑っている。これは柚季がくれたもの。
これが今私がもっているもの。
「もう、食べな。・・・今ならまだ、やめられるだろう?」
柚季は寂しそうにそういいながら白いカーテンを引いて窓を覆った。暗闇から私を守るようにそっと隠した。このままじゃいられない、私がそういうと柚季は安心した顔をした。きっと柚季の頭にあるのは、私がこの感情を捨ててこれ以上傷つく道を選ばないこと。
だけど私のこのままじゃいられない、にはそんな意味はもうなかった。
「柚季。」
「ん?」
「私ね、知佳と約束したんだよ。お昼一緒に食べるって。だから、知佳がいないならもう食べない。」
伝わって、私の小さな小さな決意のかけら。
別に彼が特別、世界で一番とか、運命の赤い糸を感じた相手だとか、そんなんじゃないんだけど。
『あぁ、そうだね』と悲しそうな顔をしてくれた知佳に何かしたいと思った。それだけで今は十分なくらいに、私は彼でいっぱいいっぱいになっていた。
「・・・そ、う。私はあんたが幸せならそれでいいよ。」
柚季はカーテンのすそを強く握りしめていた。柚季も私も分かってるんだ、それは決して幸せじゃないこと。だけど私が決めたこと。
遠くで一つゆっくりとした足音がする。ときどき立ち止まっては無理にせかされるスリッパの音が放課後の廊下を伝ってくる。この足音に私はお弁当を持って立ち上がった。
柚季はそんな私を優しい目で見ると顎で廊下へと促した。今はただ笑ってみせることしかできない。
けれど私の足はこんなにも力強く、彼のもとへと向かってる。
ここは本当に意味が分からないと思いますが、のちのち分かるように書いているのですいません。
ほんとう毎回ぐじゃぐじゃで・・、もうしわけないです。