水の龍姫 キプリス
魚貴族。
それは、この港町パルナスを治める我が一族を、侮蔑の意味を以って呼称する蔑称であり、また市井の民からは、親しみの意味を以って呼ばれる渾名だ。
名は体を示す。概ねその通りだろう。
潤沢な海産資源に支えられ、豊かな暮らしを享受する民。
そして領地の発展を羨む他貴族たち。
膨れ上がる政治献金とヘイトの中、龍人族の誇りもどこへやら。
金貨でしか己の地位を維持できない。それが我が一族の実態だ。
私の名は、キプリス。
キプリス・サウルス・コストゥラカ。
その魚貴族の長女であり尼僧である。そして星王教の巫女、水の龍姫でもある。
鏡に映る醜悪な顔を見て、癖になってしまった溜息をつく。
右目の眼窩は落ちくぼみ、目玉は瞬膜を被ったまま、明後日の方向をずっと見ている。
左の口角は吊り上がり、そこから耳の際まで、生涯消える事のない裂傷が刻まれている。
僅かに歪んで修復された頭蓋骨は、顔全体のデッサンを絶妙に狂わせたままだ。
私は一度、死んでいる。
我が宿敵にして火の龍姫。カノ・サウルス・ダクティルスの手によって。
七年前のあの天覧試合を、昨日の出来事のように覚えている。
あの女は私の首から上を粉砕したと同時に、私の人生をも粉々にしたのだ。
背後で小さな鈴が鳴る。
沐浴の知らせだ。
極めて高価な薬湯に浸かる事で、私は肉体を維持している。
私の傷は治らない。だからこれは治療ではない。
若さを維持する為でもなければ、美を追求する為でもない。
目的は後遺症の緩和と、戦闘力の保持にある。
私はつまるところ、コストゥラカの人間兵器なのだ。
それは負け犬の私が、今日ものうのうと生き恥を晒している所以でもある。
湯浴み用の薄着に着替え、やたらと長い歩廊を降りる。
薬湯から生じる濃厚な魔素を閉じ込めるため、沐浴の湯殿はたいてい地下に設けられているものだが、ここの深さは別格だ。
なにしろこのコストゥラカの秘湯の成分は、特級回復薬に匹敵する。この事実を知れば、贅沢三昧の王都の法衣共ですら、腰を抜かして涎を垂らす事だろう。
糞が。
「初めまして! 御姫様! 三等薬師のトンチーと申します……」
『ああ! ドキドキする! 心臓が止まっちゃいそう!』
「新人の湯女か」
扉の前で傅く娘を一瞥する。
小柄な獣人だ。髪にペタリと伏せられたイカ耳が可愛い。
「キプリスだ。御手を上げなさい。堅苦しいのは苦手だ」
「はい。御目通りぎゃきゃない光栄…………」
『はっ! 嚙んじゃった! え? 何この人でかいでかいでかい! 顔こわい!』
やはりこうなるか。
「トンチーとやら。私は特殊な能力を持っている。<狂耳>というスキルだ。
これは常時発動タイプの呪いのようなスキルで、私の意思とは無関係に働く」
「たぶれ…み…? まさか……」
『え? うそうそうそ!』
「嘘ではない。念話スキルの一種だよ。君の心の声がね、ずっと聞こえているんだよ」
「みぎゃっ!」
驚きのあまり、跳ねた手毬の如く、背を扉にぶつける少女。
まあ恐れるのも無理はない。
私という怪物は、顔はこのように醜悪な上、七尺にも届く背丈がある。
小柄な獣人族からすれば、脅威そのものだろう。
『落ち着けわたし! 大丈夫! 胸はわたしより小さいからっ!』
〆てやろうかこいつ。
「湯女は不要だ。私は見てくれはこうだが、自分の事は自分でできる。あきらめて帰れ。これは命令だ」
「そんなっ! うっ…! か、帰りたくありません!」
『やっと決まった年季奉公なのにっ! 初日でクビなんていやだっ!』
目を合わせず、背を向けてナイトドレスの肩紐をゆっくりと外す。
可哀そうだが、無視だ。
三等薬師の資格を所持しているなら、下町でいくらでも仕事はあるだろう。
胸元を軽く押さえ、肩がはだけた状態で、振り返る。
まだ扉の前にいる…………。
「自分が何をしているか、自覚はあるか?」
「…………はい」
『いやだ……。いやだ……。どうしよう。クビになったら妹が…………』
「命令に従わず、貴族の軍事行動を阻んでいる。反逆罪に問われたいか?」
「………………」
溜息をつこうとした瞬間、けたたましい鐘の音が響いた。
続けて二度。そして一度。それが二回。二、一。二、一。
そこで鳴り止む。緊急事態警報だ。
少女が口を半開きにして、壁のランプが赤く点滅するのを凝視している。
ランプの脇にはものものしい伝声機がある。
「出ろ」
「は、はいっ!」
『え……、えっと! どうやるんだっけ!』
「九式館内伝声機だ。災害時の衝撃に耐えうるよう、受話器が固定されている。
受話器を本体側に押し込みながら上に持ち上げるんだ。……そう。重いから注意して」
「はいっ! もっ、もしもし!」
「湯女か? キプリス様はそこにいらっしゃるか?」
「はいっ! め、目の前にっ! いますっ!」
「火急の事態だ。すぐに礼拝堂に来られるよう伝えてくれ」
声がダダ漏れだ。
警報を使ってまで礼拝堂に来いだと?
意味が分からん。
「あっ。え? れい……」
「パルナス星王教会の礼拝堂だ! 何人もやられてここはもう血の海だ! 巫女も一人亡くなられた! 時間が惜しい。とにかくここに来てもらうように…………」
再び鐘が鳴る。
テロか?
まあいい。私は私の責務を果たすのみだ。
蒼ざめた少女が、小刻みに震える手で受話器を抱えている。
私は彼女からそれを奪い、「すぐに向かう」とだけ伝えて、床に投げ捨てた。