ヒトデ人間
死ぬのが怖かった。
まあ、誰だってそうだろう。
いつかは死ぬ。この重要で、残酷な課題を頭の片隅に追いやり、実際忘れたまま俺は日々を過ごしてきた。
だが考えた事くらいはある。己の死を思い描いたのも一度や二度じゃない。
何が嫌かって、痛いのが嫌だよ。
長く苦しまず、ふわっと死ねたらいい。そう思っていた。
その点だけで見れば、この死に方は悪くない。少なくとも痛みや苦しみもなく、あっさりと逝けたのだから。
瞼が開く。
「あ…」
岩肌らしきゴツゴツとした天井に驚いた。
仄暗い。何もかもがぼんやりと霞がかっている。
死んだはず、だが……?
ん~…。
どうも死んでいない気がする。
青臭い。ジャスミンか山査子だろうか? ほのかに甘い香りも混じっている。
かすかな水音が聞こえる。せせらぎだな。近くに川があるんだろう。
少し暑い。肌はじんわりと湿り気を帯びている。
やっぱり俺は、生きている。
石床に寝ていたせいか、背中ばかりが冷たい。まだ痺れの残る上体を起こして、辺りを見渡す。
浅く、狭い洞窟の中だ。せいぜい二十畳あるなしか。
壁面には溶食の跡がノッチとなって刻まれているが、乾燥している。
岩溝のパックリと開いた裂け目が、外界との接点、つまり出入り口となっている形だが、ブドウ科のそれに似た蔦に阻まれていて、光量が足りない。
逃げ腰で裂け目に近寄り、闇雲に蔦を払えば、オレンジ色の光が洞窟内を明るく照らし出した。
美しい。夕陽の光線だ。
こりゃまた時間が飛んでるな……。
時計を確認する気力も湧かず、その場にへたり込んだ。
もはや何をする気もない。
あのまま死ねば楽だった。
とりとめもない考えが浮かんでは消えるが、もうどうでもいいという感情に掻き消されて意味を成さない。
『まあそうよの。いぶかしく思うて然るべしよの』
頭の中で細い声がした。
あのヒトデだ!
『オドラデクじゃ。じゃが恙みなく蘇生も契りも整うた。まずはひと安心じゃの』
安心だと?
癪に障るセリフだ。俺は温厚な部類の人間だと自負しているが、さすがに怒りが込み上げてくる。訳も分からず安心なんてできるか! 俺の普通を返せ!
「どこにいる! 姿を見せろ!」
『それは叶わぬ』
「クソがっ!」
カッとして足元にあった岩を蹴って怒鳴った。普段の俺なら、いや人間なら持ち上がるかどうかも怪しいサイズの岩だったが、小気味よくぶっ飛んだ挙句、壁面に激突して砕け散った。
……はい? と思ったが、今オコだから俺。この尋常じゃないキックについては怒りのせいだと強引にスルーして、オコを続行する。
「その時代がかった喋り方もやめろ! めんどくさい!」
『叶わぬ。どう聞こえておるのか……。口調は其方の勝手なイメージじゃ。
今しがた其方を蘇生する際、儂は儂の依代を其方の死体と雑ぜ合わせた。
依代とは其方がヒトデと呼んだあの器よ。その働きにより其方は甦った。
ゆえにこうして其方に儂が憑依することもできる。儂は新たな依代を得、依代は魂を得、其方は不滅の肉体を得た。万事丸う収まったと思わんかえ?』
「はあ?」
瞬く間に怒りの潮が引き、逆に青ざめる。
こいつはいったい何を言っているんだ?
ヒトデと雑ぜ合わせたとか言わなかったか? あの気持ち悪いのと? 俺を?
「嘘だろ…」
思わず両手を広げて見る。……何だこれは? 俺の手じゃない。
微妙にだが、手相が変わっている。いや手相なんかどうでもいいんだって。
真っ白だ。女の柔肌よりも白いとさえ感じるが、貧弱さはない。むしろ獣じみた力強さが滲む、深みのある艶と、青く走る血管……。
特にひどいのが指先だ。爪が分厚くて硬い。それが第一関節の根元からがっつり生えている。末節骨が丸ごと爪になったみたいだ。
「ひぃ」
そういえば歯が抜け落ちていた。あれはどうなった?
慌てて口をまさぐる……が、ちゃんとある。
あるが、このやたらと尖った犬歯は何だ?
「…牙だ。バケモンじゃないか」
『違わぬ。末永く健やかに生きられる肉体を目指したところ、そうなってしもた。神の器と雑ぜ合わさった其方は、もはや人とは言い難い。つまるところヒトデ人間よの。人ではあるが人でなし…。プフ』
「…………ヒトデ人間」
震える手でスマホを取り出し、カメラを起動する。
爪のせいでタップすら難しい。なかなか自撮りモードになってくれない。
しつこくチャレンジして、ようやく画面に映った己の顔を見て驚愕する。
言葉も出ない。
蒼白い顔で牙を剥くそいつは、まるでB級映画の吸血鬼だ。
……いかつすぎる。
若返っている気もするが、そういう問題じゃない。
牙もたいがいだが目がえぐい。皮膚同様に色素が欠落してしまったのか、灰色の虹彩に、真っ赤な瞳孔……。ちょっとまて、このクソでかい目ヤニみたいなのは何だ?
まさか、瞬膜か!
驚いた拍子に、目頭から、シャッターを切る速さで瞬膜がぱちくりした。
「い~やレプティリアンかい!」
『否。ヒトデ人間じゃ』