コヴェナント
「すう~…。ん? 濃いぞ」
春風に乗って、むせ返るほど濃厚な植物の匂いが鼻腔に絡みつく。
や、ちょっと待て。こんな湿気むんむんの春風があってなるものか。
おそるおそる目を開けば、どう見てもそこは森。
その縦横無尽に巨木がうねり、波打つ様に舌を巻く。
深緑に苔むした大地と、彩り鮮やかな植物が蔓延る広大な原生林。とてつもないスケールの大樹海だ……。
「へ…?」
間抜けな声を漏らして、その場に膝から崩れ落ちる。
何だこれは? 何が起きたのか全く理解できない。
桜がない。そこにあるべきはずの、いつもの景色がどこにもない。
ハッとして腕時計を見る。デイデイト表示は変わらず1日の月曜日。だが時刻の針は十一時五十分を指している。はあ? 時間が飛んでるぞ!
慌ててサコッシュを漁り、スマホを出して確認する。
十一時五十分。同じだ。時計は狂っちゃいない。九時だったはずなのに、一瞬で三時間もジャンプしている。
まさに狐につままれた気分だ。
空白の三時間。俺が夢遊病患者のように、無意識に移動してここへ来たとでも?
いや、ありえない。毎日の通勤は直線距離で約五キロ。それですら徒歩とバスで三十分もかかっている。車でぶっ飛ばしたとしても、三時間足らずじゃ、県ひとつ跨ぐのが限界だ。
そもそもその程度の移動範囲内に、こんな屋久島級の森なんて存在しない。
スマホを操作するが、マップが出ない。圏外だ。
神隠しか?
アブダクション?
まさかの異世界転移か?
普通じゃないワードばかりが頭に浮かぶ。
普通じゃなさすぎて吐き気が込み上げる。
落ち着け。そうだ、杉だ。杉を探すんだ。杉さえあるなら、ここは普通に日本のはずだ!
暴論かもしれないが、杉があれば少なくともここが地球だと信じられるんだ! ン~…、だけどもない! 杉どころか見覚えのある木が一本もないじゃないか!
過呼吸になりかけて、ぎゅっと胸を抑える。
パニックで毛穴が開き、うなじの辺りに怖気が走る。
苔にめり込んだ膝元に、パラパラと白い石が転がる。
「…………え、歯?」
石に見えたそれは、俺の歯だった。
舌で咥内を探ると、何本かぐらついている。震える手で前歯に触れると、痛みも抵抗もなく、いとも容易くすっぽ抜けた。
血の味の奥に、ケミカル臭がツンと漂う。
やばい……、死ぬわこれ。
肌がひりつく。
毒ガスなど嗅いだ事はないが、直感で分かる。ここの空気がダメなんだ……。
麻酔に似た全身麻痺が始まっている。
人間は呼吸をする生き物で、どうしても空気を吸ったり吐いたりしてしまう。
ここの大気中におそらく毒があって、それが今、俺を殺そうとしているんだ。
力なく前のめりに倒れ、地面と同じ高さになった俺の視線の先に、小さな黒い影を発見する。
影は不規則に蠢き、シルエットが定まらない。
幕のない骨組みだけの雨傘のようでもあり、見ようによっては頭のないタコか、あるいはヒトデに近い摩訶不思議なデザイン。そもそもこれといった形を持たない軟体動物なのかもしれない。
そいつはめんどくさそうにだらだらとうねりながら、俺の傍へじわじわとにじり寄って来る。
…………近い。
勘弁してくれ。
この小さな、体高二十センチあるなしの生物? はすこぶるキモかった。
中心から星型に伸びた触手の表面は、びっしりと黒い棘に覆われていてヤスリのようだ。それらが動く都度、要所々々が明滅して中身が透けて見えるのだが、細いな骨のようなパーツも窺えるし、臓器らしきものさえある。
リアルだ。
現実と見紛うほどよくできたCGはさんざん見慣れているが、こいつは明らかに幻像ではない。本物だ。この生々しさには、問答無用の説得力がある。
「異界のかなたより、こなたへと、其方を招き入れたのはこの儂じゃ」
喋った!
化け物から甘ったるい声がした。日本語だ。しかも芝居がかった古風な物言いだ。
少女の声色に一人称が<儂>……。の…、のじゃロリ、だと?
「夢ではないの。儂の名はオドラデク。この星の柱の一柱じゃ」
驚きのあまり言葉が出ない。
この神と名乗るヒトデに返事をする心の余裕が、全くない。
「其方と契約を結びたいと思うておったが、さしぐみに死にかけておるの。やれ、森の魔素が濃すぎたかの……」
言いながら、オドラデクの触手が波打つ。
その先端のひとつが花びらのように開き、花冠と化して神々しい光を放つ。
小さく分裂しながら、蛍のように漂う無数の光。あるものは鋭く輝き、またあるものは丸みを帯びて膨らみながら、俺の全身を柔らかく包み込んでゆく。
「疾く、契約を……」
ブウ…。
悪臭が漂った。
俺のオナラだ。全身の筋肉、もちろん括約筋も弛緩しているせいで、ごく自然に屁をこいてしまったようだ。
光に包まれながら放屁するなんて、なかなか恥ずかしい。
だが、そんな恥じらいも間もなく終わる。
そう。もう限界なんだよ。
できれば普通に、死にたかったわ…………。
「ふふ。音鳴らで返事をするとはいとをかし。ほれ、魔素ものうなったし契約を…………。ん?」
この五十年間、いついかなる時も動き続けた俺の心臓が、脈打つのをやめた。
ごくろうさま。とだけ、ぼんやり思った。
ただ、それだけだ。
十一時五十三分。
異世界の、名も知らぬ森にて俺は非業の死を遂げた。
「ありゃ…。事切れておる」