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ふつうの魔王  作者: 微糖貞与
第一章 死の山脈
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普通の男




 ごく普通の朝食。


 お皿に並んだトーストと目玉焼きを眺める。

 トーストはきつね色。目玉焼きの黄身は半熟、白身の縁はカリカリだ。

 いたってシンプルな、ありふれたモーニング。


 いや、それじゃあちょっと物足りない。普通ならベーコンくらい足してもいい。あるいはちょっとしたサラダくらい添えてもいい。なんて意見もあるだろう。

 分からなくはない。

 だがもしこの目玉焼きのとなりにめちゃくちゃ美味いベーコンがあったなら? もしくはおしゃれなサラダがあったなら?

 それはもう普通の朝食ではなく、ちょっぴり豪華な朝食になってしまうのだ。

 そんな危ない橋を俺は渡りたくない。

 この目玉焼きのとなりの、ほんの少しの空間を埋めない事こそが、完璧な普通を確保するための安全マージンとなり得るのだ。


 あ、お湯が沸いたわ。



 珈琲はペーパードリップ方式で淹れるが、普通たるものこだわりの淹れ方などがあってはならない。

 無心に、ただ淹れる。

 豆の種類もなんだっていい。

 挽き目すらどうだっていい。

 上嶌珈琲の品質だけを妄信し、すりきれ一杯の粉末にざばざばとお湯を注ぐだけである。


 深く考慮せず、一切の事物を深く追求しない。

 そう、俺はこだわらない。

 いや、こだわらない事にこだわっている。

 何をするにしても、普通の範囲を逸脱しないボーダーラインをいちいち見極め、出る杭にならぬよう努力を重ねる。

 それが、俺の人生だ。

 俺は鋼の意思を(もっ)て、普通を貫いて生きているのだ。


 いいね。

 珈琲はやはりブラックに限ると感じ入る。

 もはや五十近い、初老と呼んでもいいおっさんの珈琲に、ミルクや砂糖を入れるなんて言語道断だろう。

 そんなのは普通じゃない。ブラックこそが正解だ。

 そして温かいトーストにかぶりつく。

 うまくもないが、まずくもない。なんて普通なんだ。

 普通すぎて膝が震える(貧乏ゆすり)。このささやかな幸せを噛みしめながら、感謝と共にゆっくりと飲み込んでゆく。



 パーフェクトな朝食を終えて、鏡の前に立つ。

 歯ブラシを咥えつつアゴに手を当て、顔を左右に四十五度ずつずらして、ヒゲの剃り残しがないかをチェックする。問題ない。

 短く切り揃えられた短髪を撫でつけ、身だしなみを整える。


 この歳になると、イケメンか否かなどは大した問題ではない。

 清潔感がある。加えて事実清潔である。このふたつが肝要だ。

 幸いながら俺はまだ禿げてないし、背は平均より少し高め、多少腹肉は出ているものの、太ってもいない。

 歳の割には健康そのものと言える。

 若い頃はそれなりに美丈夫であった名残か、気合を入れすぎると垢抜けてしまうので、むしろちょっぴり野暮ったくなるよう気を使っている。

 安くなかったグレーのチノパンに、黒いコードバンのベルトを通し、ありきたりだが、身幅に合った白いシャツを羽織る。

 シャツのボタンはひとつかふたつは外している方が自然だろう。そして袖を少しだけ捲り上げ、腕時計を着用する。


 腕時計。

 このチョイスが極めて重要だ。この分岐点を踏み間違えると、後戻りのできない失敗を犯す羽目になる。

 まず昨今流行りのスマートウォッチなんてのは論外だ。ついてゆけん。頑固かもしれないが、俺は昔ながらの機械式時計をこよなく愛している。

 歳を(かんが)みれば、そこそこ高級な時計を持っていても、まあおかしくはない。

 おかしくはないのだが、コーデのバランスを崩して、そこだけ悪目立ちするのは避けたい。ゆえに、欲を殺して高級時計は除外する。

 何も誇示せず、さりげなく袖元に輝く存在が好ましい。

 かつツールとしての機能もしっかり保てるとなれば……。後々のメンテナンスを考慮しても、良心的価格で、かつ良質な製品を量産できるメーカーを選びたい。



 ※マニアックな長文が続くため、割愛いたします。



 そうして俺は黒のダイバーズを一本、携帯用のケースに収めた。これは予備だ。

 そして同モデルの、明るいサンバースト文字盤(ダイアル)の一本を腕に巻いた。

 なぜなら陽春(ようしゅん)(こう)(陽気に満ちた暖かい春の事)、今日は桜も咲いているからだ。



 玄関に向かう前に、小さな仏壇に向かって軽く手を合わせる。

 昨年の秋に妻を亡くし、新年明けて早々、飼っていた柴犬にも先立たれた。

 残された俺はひとり。あと何年か、何十年か生きて。大きな喜びもないが、深い悲しみもない日々を繰り返すだけだろう。

 それでいいと、心から思う。

 普通に生きて、普通に死ぬのが本望だ。

 傍らに飾られた、犬を抱いて微笑む妻の写真に「行ってくる」とだけ声をかけ、立ち上がる。


 一見革靴に見えなくもないレザースニーカーを選び、紐をきつく締め上げる。

 シンプルなデニム生地のサコッシュを斜め掛けにし、黒縁の眼鏡を胸ポケットに挿す。

 するとどうだろう。ほら、見てくれ。

 空気よりもなお空気であり、背景よりもなお背景と化したモブ男。

 今ここに、一分の隙もない圧倒的<普通の男>が爆誕したのである。


 引き戸をガラガラと開ければ、ぬるい桜東風(さくらごち)が頬を撫でた。

 俺は瞼を閉じ、深く息を吸い込みながら、後ろ手でゆっくりと、訪れたばかりの春を邪魔しないようにそっと引き戸を閉めた。






 扉がひとつ閉まると、必ず別の扉が開く。

 救いのない運命というものはない。災難に合わせて、どこか一方の扉を開けて、救いの道を残している。

(ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ)

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