旅行先では雨が降ったときのことも考えておけ
「あれ、何の松明だ?」
そんなつぶやきが、夜も随分と更けて半ば寝入っていたマサルの意識を揺り起こした。
ふごっ、と鼻息を鳴らして布団から起き上がったマサルの目に、縁側で涼んでいるリコの姿が映った。
彼女の裸体は月明かりに照らされて、薄青のドレスを着たようだった。
美しいのは間違いないが、マサルとしては少し心配になる。
「そんな格好で縁側に座って」
「こんな時間に誰も見やしねえよ……って、そうそう、松明だよ、松明。ほら、あそこ」
「ん〜……?」
這うようにして縁側まで来たマサルは、何度かまばたきをしながら、教えられた方向を見た。
確かに、二つ……いや三つの松明らしき明かりが、谷間を移動しているのが見えた。
「温泉の見張り番の人かなんかじゃない?」
「まあ、賊かなんかならあんな松明なんて掲げやしないか……悪いな、無駄に起こしちまった」
リコにそう言われたマサルだったが、その顔はにやけていた。
月明かりに浮かぶオークのにやけヅラは、自分の旦那のものとはいえ、リコは戸惑いを隠せなかった。
「な、なんだよっ、気色わりいな」
「いやいや、リコも怖がりとこがあるんだなと思ったら、こう、うひひ」
「くっ……さっきまで情けない声出してたくせに」
と、その晩は笑い話で済んだのだが、翌日になってみると、この出来事は呑気なものではないことがわかった。
『山狩りのための協力を集落の者達にお願いする』
集落の目抜き通りに立てられた看板にそんな文言を記したのは、近くの砦の将兵だった。
この掲示について集落の者は誰も聞かされてなかったとかで、集落の代表者が集会場で対応について話し合う光景が見られた。
マサルやリコにとってはこれは大迷惑で、というのも、こんな状況では集落の中で噂話を聞いて回るわけにもいかないのである。
完全にはしごを外された形だが、抗議できる筋合いでもない。
とりあえずは事の次第がはっきりするまで、旅館で待機することになった。
「ははあ、多分、お二人が夜中に見たのは兵隊さんの見回りですよ」
食堂でデューロの母親がお茶を出しながら、そんなことを言った。
「兵隊さんときたら、前々から、ここら辺に山賊がいるだの、何かとケチを付けては頼んでもないのに見回りをして、腹が減ると集落のもんを持って行くんですよ。どっちが山賊なんだか」
兵隊の恨まれようといったら相当なものだが、松明の件については先入観もそれなりに含まれてはいそうだった。
「うちの子をバラニ様に預けたのもね、下手に集落に置いておくと、兵隊に取られちまう気がしたからなんですよ」
「そんなことは……」
無いと言い切れる状況でもないのかもしれない。母親からしたら大切な一人息子である。その点、フージの本山なら帰ってこようと思えばこうして帰ってこられる。
マサルは言いかけた口を閉じて、うんうんと頷いてみせてから、居心地が悪そうに話を聞いていたデューロを見た。
彼は旅館の料理で使う串をナイフで削り出す作業をしていて、食堂の床に座り込んで器用にナイフを扱っていた。
「デューロは将来、何になりたいの?」
「俺? うーん……あんまり考えたことないんだよな」
母親の前だから遠慮してるのかもしれないし、本当に考えてないのかもしれない。
そこでリコが、考えていたらしいことを口にした。
「折角、親父とお袋がいるんだから、難しく考えなくても良いさ。狩りで良い獲物でも取れたら、それを売りに他所の土地に行くってこともできるんだしよ」
「ふふふ、リコさんは良いことを言うねえ。ご両親もいい人なんだろうねえ」
そう言われてリコは少し表情を濁したが、何か言うようなことはしなかった。
それでもデューロの母親は、さすがは客商売を長くしているだけあって、何やら察したらしかった。
「ああ、そうだそうだ。デューロ、お父さんにお弁当を届けておくれ。いつもの狩場にいるはずさ。お客さんたちも暇だろう? 一緒に行くといいよ」
マサルもリコも外に出る口実が出来たのはありがたかった。
デューロは内心、父親と狩りに行きたがっていたのか「仕方ねえなあ」と言いつつも、喜びが顔にも出ていた。