チャンスはいくらあっても困らない
領主の娘のアンを巡る騒ぎは内輪もめである。
責任が重い当事者が全て死んでいる上は、事件を裁ける者はいなかったが、騒擾というやつは後始末を怠ると必ず信用を落とす。
モーカル家をドタバタの内に継ぐはめになった嫡男のマカ・モーカルは、街の実質的な権力構造の中でも一番上になってしまっていた。
彼の采配次第ではアン・ロース・ガナこそ正統な統治者だ、ないがしろにするとは許せぬ、と反乱を起こす者が現れかねない状況に追い込まれたのだった。
これに助け舟を出したのは、その人物に最も親しい者でさえ、意外な人物だった。
「アンさんを古き神の森の別当ということにしてはいかがでしょうか」
提案をしたイベに、マカは下顎の牙を震わせた。これは心が動いたときの挙措である。
明日にはガナの街を去る旨をマカ・モーカルの屋敷に伝えに来たマサルとイベ、リコに、マカは応対していた。
応接室のテーブルには一族だとわかったアン・ロースもついており、彼女は着慣れなさそうなドレスを着ていた。
マカはお茶を入れてくれた妻に礼を言ってから、イベに努めて落ち着いた素振りで訊ねた。
「この場合の別当というのは……この街においての集落の代表にする、ということでしょうか?」
別当には様々な用例があるが、基本的には事務長や代表の意味が強い役職である。それについてマカは確認したのだった。
「はい。生前にマリー様が望んでいた形とは違いますが、将来的にマサルさんと結婚されるにしても、その方が何かと都合が良いのではないでしょうか」
「……父上にその提案は聞かせたかったな」
何かとそつのないマカが、そんなことをぼそりと呟いたのは、疲れもあったのだろう。マサルがタマニを手伝うなどしていた間、マカは街の後始末や他の仲間への説明、父親の葬儀に加えて、アンを手伝う形でマリー・ロースの葬儀にも追われていたのであり、睡眠時間は平時の半分ほどになっていた。
彼は自分の発言の後に顎をペシペシと叩くと、努めて大きく頷いた。
「アン様のご意思で決めることですが……先に私の考えを言うと、イベさんの案はとても良いものだと思います。アン様は領主見習いをしながら街で暮らせますし、集落のみなさんは街と無理の無い形で繋がることもできます。商人の中には今でも古き神のことを特別視する者は多くいますから、説得もし易いですよ」
一般的な人族やエルフと違い、オークは生活の上での事情があれば宗旨変えを簡単にする。それもまた生きるための知恵である。
だがそれとは別に、在地の古き神については尊重する精神がまだまだ残っていた。
アンと結ばれたマサルが街を支配しても、アンがこのまますぐに領主として立っても、モーカル家がなし崩し的に後釜におさまっても、必ず角が立つ。
イベの提案とは、その角を面取りできる性質のものなのだった。イベは巫女として人々の利害や気持ちを調整する感性が鋭く、それが街に来てからの一連の出来事で、磨かれているらしかった。
マカがざっと話を噛み砕いてくれたところで、アンが何かに気付いたかのように、口を開いた。
「あの、少し話がそれて恐縮なのですが……」
アンは他の誰より、マサルの方を見て言ったので、彼は少し戸惑いつつも頷いた。
彼女が少しでも前に進むきっかけを作れるのならそれで良い、とマサルは半ば割り切っている。
「気にしないで。ここにいる人はみんな、アンさんの味方だよ」
気休めで言っているわけではない。お茶を用意するとき、マカの奥さんがアンを気遣っている様子も見て取れた。
ちなみにダイアナ・モーカルはマカニの住んでいる家におり、あの憎めない次兄が早朝から建築仕事をして帰ってくるのを世話してやっているらしい。
いようと思えばアンと一緒にいられたはずだが、彼女なりに距離をはかっている時期なのだろう。
また、他のメイドはそれぞれの実家に戻ったとのことである。
アンは「はい」とマサルの言葉を受け止めてから、話した。
「お母様はリコさんの武器を見て、お二人のお父様のことを思い出してから、普段よりも楽しそうにしていました。私の出生のこととは関係の無い、お母様だけの楽しい思い出があったんだと思います」
姉妹の父親のことは、マサルもきちんとは聞いてはいない。
ただ、姉妹にとってはあまり明るい話題ではないのは察しが付いている。その話題を持ち出されて二人がどう思うかとマサルは心配になった。
リコはイベに視線を送ってから、アンに答えた。
「あたしもさ、今になって親父のことを、あんたのお袋さんからもっと聞いておけばって思ってるよ。でもそれより、あんたがどうしたいかの方が興味あるかな」
イベは黙ったままだったが、リコの物言いには満足したようで、美味しそうにお茶を啜っていた。彼女にはなんというかこう、とぼけた所があるのが、マサルにも段々とわかってきた。
イベの確認とも言えるセリフに、アンは迷わずに答えた。
「別当のお話、アン・ロース・ガナが正式にお受けします。そしてこれまでの無礼を、この機会に謝らせてください」
こうして、彼女が大人になるための階梯は確かにかけられたのだった。