事務仕事も力はいる
商工会の会議所は、前領主、つまりマリー・ロースの夫が新市街の城塞化よりも前に建設したものだ。
これまで建物とだけ書いてきたが、オークが利用する建物であり、その広さはちょっとした球場ぐらいもある。
家具や一部の骨組み、緩衝材を除き、ほぼ全てが石造りである。大広間を待合兼受付スペースと事務スペースに分けてあるが、これらは壁で隔てられていない。大広間には柱も少なく、これは相応の金を出して評判の良い建築家を雇ったからできた高度な設計技術だった。
奥の両側に設置された階段を登った先に建物をぐるりと回れる回廊があり、その回廊沿いにオフィスがいくつも置かれている。この街で財を成した商人がそこで商談や決済を行う。
この会議所の建物ができたおかげで商売のやり取りは随分と円滑となった。試算によれば五割ほども取引にかかる時間が短縮されたという。
オークはあまり長い距離の移動には向いていないため、遠く離れた者同士での信用取引の重要性は他の種族よりも高い。だからこそ商人としての才覚が成長したともいえ、マサルのいる集落のように開拓や畑仕事でその力を活かす機会は随分と減っていた。
その代わりに、力を活かせる建築や土木の道に進むオークが増えた。そうした者達がこの建物の建築にも多く関わっている。
言うなればこの商工会の建物こそオークの歴史の証人であり、旧市街の競技場と同じように、この街の重要な文化遺産となるであろう。
……というのはあくまで将来的な話であり、今現在はあくまでも実用一辺倒の場である。
鍵の開いていた裏口から侵入したリコとダイアナは、直前の打ち合わせ通りに動いた。
ダイアナは二階の、昼間はモーカル家が使っているオフィスへ向かう。
部外者のリコは一階で耳を澄まして、何か怪しい様子が無いか、うかがうことにした。
これはリコの経験則だが……オークは日常の習慣をとても大事にする。かつてオークは凶暴だと思われていたのも、そうした習慣を部外者が蔑ろにしがちだったからだとリコは考えている。
領主が裏山に住み、その娘が旧市街で暴れ、そして消えた。
その領主とつながりの深い商人の家の長男が、誰もいないはずの商工会議所の中に入ったらしい。
全てを最初から計画されたものだと考えるのは早計だったが、何かがこの街の中で渦巻いていて、その渦にアン・マリーは引きずり込まれたのではないか。
暗闇の中で目を慣らしながら、リコは頭を整理していた。
リコが今いるのは裏口から入ってすぐ、事務員たちが作業する木製の大机の所だった。
この世界では紙が既に普及していたが、印刷技術はまだまだ牧歌的である。
事務員たちは版画の要領で取引の結果を出力し、それらを必要な人や場所へと送る。オークは指先の器用さは劣っても、その力を生かせる作業では精度は人族やエルフよりも上がるのだった。
この作業スペースには墨汁の香りが染み付いていて、不思議と落ち着きを覚えられた。
木製の棚には版作りのための道具が並んでおり、書類棚も多く、明るければさぞ壮観だったろう。
リコはこの街に何度も来ていたが、この建物に入ったのは初めてだ。
ダイアナが二階に上がるまでの歩数を耳で数えて、建物の外観と擦り合せて、自分なりに建物の内部構造を頭の中に描く。
やがて静かだった空間から話し声が聞こえてきて、片方はダイアナのもので間違いなかった。話し方は落ち着いたものだったから、相手はやはり身内だったのだろう。
彼女に危険は及ばないらしいことを内心でほっとしたリコだったが、そうもしていられなかった。
話に集中している間に、別の人物が裏口から入ってきたのだった。
大きな影が、リコへの敵意を表現しているかのようだった。
そいつは、いきなりリコめがけて殴りかかってきた。