健康寿命と書いて夏休みの宿題と読む
ガナの領主であるマリー・ロース・ガナが裏山の別荘を居館にしてから、もう二十年が経っている。
人族よりも寿命の長いオークやエルフにとって二十年は短い……そう思いがちだが、一日食わなければ腹が減る以上、生活に不安が伴えば時間の感覚は人とそう変わらない。
もっと突っ込んで言うならば《寿命が長ければ長いほど、富める者とそうでない者とのすれ違いは起こり易い》。
マリーが何を考えて居館を街ではなく山に構えたかは多くの者にとって謎だったが、夫が亡くなってからのその生活スタイルは、ある重大な問題をもたらした。
都市の権力構造に間隙が出来てしまったのだ。
それまでは領主と商人は二人三脚で街とその利益を支配し、他の領主や都市との交易競争を生き残ってきた。
ガナの街は街道の要所にあり、オークとエルフ、そして人族など多種多様な出自の者たちとの間の確執も無かったことから、前領主であるマリーの夫の指導によって市場が成長し始めてからは、あっという間に城塞化した。
他が百年費やした発展を、四十年とかからずに達成したといえばわかりやすいだろう。
それが今や、マリーは不便な場所に引きこもって、わざわざ取次役を使い、自分の娘や女の騎士たちに身を守らせているものだから、重要な決裁に遅滞を起こしている。
いっそ街の商工会に任せてくれれば良かったが、それもかなわない。
商人たちは他の都市の有力者と婚姻するなどしてなんとか商売を円滑に進めていたが、それには多額の結婚資金が必要だった。商工会のメンバーの中には、その結婚資金が回せず、破産してしまった者さえいる。
商人たちはマリーの娘であるアンに自分たちの娘を預けることで意思疎通を図るなどあの手この手でなんとかやってきたが、不満自体は溜まり続けていた。
そんなときである。「アン様が婚姻する」という情報がメイドの一人から商工会の役員にもたらされた。
これが他の都市の領主やそれに類する者との結婚話なら良かったのだが、そうではなかった。
オークやエルフたちの間では有名な、あの古き神の森の変人集落の族長との結婚である。
信心深い者が小さなコミュニティでほそぼそとやっていた頃ならともかく、今や商売のためなら宗旨変えをするぐらいは平気でやる時代である。
カビの生えた神を権威付けに利用した所で、何になるというのか。
そして何より、虎の子と言って良いアンの結婚話を領主の一存で決めるということ自体、これまで我慢を重ねてきた者達への裏切り行為とみなせた。
そのアンがふらふらと商工会の会議所のそばを歩いていた。アンといえばドヤ街の方で暴れることもある高慢さがあったのに、まるで生気が抜けたようだった。
それを見て……魔が差した者がいた。
アンは会議所の塔の中にある隠し部屋に監禁され、領主との交渉材料になってしまった。
こうなってはもう後には引けない。
ガナの街は多くの者達が知らぬ間に、大きな抗争の中心地となってしまっていた。
夜が更けようとしている。この夜の中で、どのオークが笑うのか。この時点では誰にもわかってはいなかった。