人には人の自由の尺度がある
あの小さな決戦の日から、三日。マサルとリコは古き神の森への帰途に着いて……はいなかった。
彼らはまだ本山の、あの最初に来たときに世話してもらった部屋を借りていた。
「こっちに来て一番時間を食ってるじゃねえか!」
リコの怒りの弁ももっともだったが、何せ思いっきり事件に関与してしまったため、ああだこうだと一応は辻褄の合う説明を役人の前でする必要があった。
夫婦が偽証をしないようにとわざわざ別々に呼ばれて、何かちょっとした記憶違いや表現の違いがあると、一々確認される。
それでもまあ、あの山中で燃やされたエルフたちのことが記録に残るのならと、マサルも我慢した。リコの鬱憤を晴らすために、夜は違った意味で我慢する必要があったが。
とはいえ、目的も何も無い状態でのんびりできる時間が大量にあったのも本当であり、マサルはデューロに読み書きを習うことにした。
いつ帰れるかわからないからイベに一度ぐらいは手紙を出しておこうと思ったのがきっかけで、デューロは自分の使っていた辞書まで見せてくれた。
その手製の辞書は元々、バイザと奥さんが使っていたものだとかで、子供の頃にバイザが勉強をサボるとや、後で奥さんが辞書片手にあれこれと教えてやっていたのだという。
言ってみれば縁結びの辞書である。
そんな生活も一週間目を迎えた頃……マサルはデューロからある相談をされた。
「近頃、バラニ様が凄く寂しそうな顔をするんだよなあ」
「そうなの? 不謹慎かもしれないけど、ゲンイさんが亡くなった今は、前よりは居心地が良さそうなもんだけど」
「うーん……多分、先のこととか考えてるんだと思うんだよね。俺もずっと従者でいられるわけじゃないから、心配でさあ」
従者にも人生がある以上、たとえそのまま修道士になったとしても、いつまでも従者でいられるわけではないのだという。
マサルは読み書き練習用の炭を一度机に置いて、真面目に答えた。
「そういうことを俺に言うってことは、デューロも将来のことで悩みがあるんじゃないの?」
「うーん……そうなんだよねえ……ここでやるだけやったら親父の仕事を継げば良いんじゃねえかな〜なんて思ってたんだけどさ、やっぱりバラニ様が気になるんだよなあ〜。まさかこんなことになるなんて考えもしなかったし」
それはそうだろう。デューロはまだ子供なのに、これだけ働いてるだけでもマサルからすると大変に思える。
その子から読み書きを教わってもらっておいてなんだが、デューロにはもう少し自由さがあって良いはずだった。
「デューロがバラニさんのことを心配なら、正直にそう言えば良いんじゃない? どうせ今ここで一番偉いのって、バラニさんなんだから、どうとでもなるよ」
「そっか……そうだよな。わかった、今夜にでも言ってみるよ!」
こういう切り替えの良さは、自分でも若いつもりのマサルからしても、気持ちよく感じられる。
上手くいけばいいなあ、なんて気軽に思っていたマサルであったが、翌日、デューロの口からとんでもないことを聞かされることになった。
「バラニ様としちゃった……」
「は? 何を?」
「こ」
「こ?」
「交尾」
マサルは大きくため息を吐いてから、キョロキョロと室内を見回し、更には外の様子まで確認してから、慌てて戻ってきて、デューロに言った。
「そのこと、他の誰かに言った?」
「言えるわけねえじゃん……」
「……バラニさんは何か言ってた?」
「わたくしのことを信じてくれますか、って……」
「そ、そう」
わりとマジな内容である。
まさかこんな形で人様の一生を左右することになるとはマサルも思ってなかったのだが、殺す殺されるよりはよっぽどマシではあり、複雑であった。
「えーっとさ、一応確認だけど、フージ教の修道士の人って結婚できるの?」
「できるけど、本山とか修道院にはいられないよ。他の人に影響出ちゃうから」
「じゃあ、結果的に修道士ではいられなくなるわけか……」
「そうだね。教区の責任者とか、商会や町内の相談役とか、そういうのになるんだ」
その点、バラニは能力も実績もあるし、就職先には困らないだろう。
だから問題があるとすれば、デューロ本人の気持ちだった。
「で、どう? 今でもバラニさんのこと支えたい?」
「えっと……なんか、支えたいっていうか……」
「うん」
「一緒にいると、凄く落ち着くようになった」
「そうか……」
これが現代社会なら年齢的に児童虐待なのだが、そもそも児童労働もまかり通る中で、人生を選ばなければならない社会である。
少なくともデューロに限って言えば、彼は自分で人生を選べる所にいる。
マサルは長考の後に、デューロに言った。
「バラニさんも慎重な人だから、すぐにどうこうってことはないと思う。でももし、もしだよ? デューロがバラニさんの所から離れたいと思ったら……いつでも俺の集落に来なよ」
「……わかった。でも、多分、行かないよ」
「そっか」
デューロは自分でも気付かない内に、机の上に置いた辞書に手を乗せていた。
その顔は、自分も父親のように母親を愛せるか、自らに問うているようにも見えた。
マサルはその出来事をリコにだけ話したが、彼女は一言、こう答えた。
「やっぱりバラニの奴、歳下趣味だったんだな」
ちょうどその翌日、マサルたちは身柄を自由にされたのだった。