火は自らを焼くにも薪を欲した
バラニ・クラニがどれほどの信仰を持っていたか。これは後によく議論の的となった。
王族出身の彼女は成り行きで修道院に預けられ、各地を旅し、当代の女王を輔弼した。
その行動を見てもかなり世俗的な人物であり、後半生は宣教のための旅をする以外では、本山よりも王都で女王の相談役として過ごすことが多くなった。
彼女は司教とはならず、自分の縁者を探し出して名目上の代表として本山に預け、自らはほぼ一般と同じ暮らしをするようになった。
それは政治的な緊張感を和らげるための所作ではあったものの、彼女がかなり歳下の夫と結ばれるためだったと情熱的な物語では扱われたのだった。
しかし、そう思われても仕方ないほど、この夫婦は仲が良かったという。
現に二人の間の子は多く、後々に至るまで血を残した。
彼女の残した多くの著書は当時の様子を克明に、かつ叙情的に記しており、一級の歴史資料となるのだが……ある章にこんな記述がある。
……わたくしの信仰とは、わたくしの出来ぬことを神に託したものでありました。
しかしそれは、まったく、父と母に自らを愛してもらいたいと願うのと、変わらぬものでありました。
司教様が亡くなられるとき、わたくしだけを枕元に呼び、こう申されました。
『自分に欠けたものを探すよりも、満たされるものを探しなさい。あなたにも、全ての人にも、それをする喜びは共にあります。私にとっては、あなたがそうでした』
ああ、まったく、わたくしはそのときに一度、滅びたのです……。
この当時の司教は、後の叛乱事件の際に横死したゲンイの前の代である。
バラニにとっては父親同然の人であった。
実の父親は早くに死に、育ての親は高位聖職者であり、特別な愛を求めるわけにはいかなかった。
そんな彼女がどんな生活を経て、歳下の夫との愛を育むようになったか。それは多くの想像の余地を残しているが、彼女が精神的な充足を得たことは、まるで彼女がこの国の大樹となるのと変わらない結果を残した。
若く、失政もあった女王は、バラニとやがて友情にも似たものを持ち、その死を迎えるまでにはジュカの国は周辺の国々や街道の安全を保障し、恵まれない子供や家族達に仕事を与えるようになっていった。
ちなみに女王の近衛隊長は叛乱が落ち着いた後に突如として辞任したそうなのだが、別に政治的な理由ではなく、ただの結婚が理由である。
相手は国家騎士団の男性で、二人で退職金をもらって山奥で夫婦揃って旅館を始めたという。
奇妙な縁で、この旅館の建物は元々、バラニの夫の実家であった。彼の父親は女王に顔を覚えられたことを機に、王都に移り住んでそこで新たに旅館を始めたのである。そのため売りに出された建物を、新婚夫婦が買ったのだった。
なおバラニの夫……デューロ・クラニは各地を結ぶ通信事業を興してそれを修道院や王都の有力者だけでなく民衆にも開放して成功し、その利益を元に孤児院も経営した。
この通信事業のおかげで手紙や取引も増えたが、この夫婦が一番楽しみにしていた手紙は、商売に関するものでも信仰に関するものでもなく、とある集落の友人から届く、近況だったそうな。