じれったさと戦う
朝の露が消え始めた頃になっても、両軍は激突しなかった。
指呼の間でありながら、双方共に朝食を作り、シズの丘周辺には炊煙が幾筋も立ち上っていた。巡礼者がいるときでも、これほどの賑わいはなかなか無い。
どこかに飛び去っていた鳥たちは、目ざとくおこぼれをもらおうと戻ってきた。
鳥よりも両陣営を慌ただしく行き交うのは、フージ教の修道士である。
亡くなったゲンイ司教の遺体を囲んで祈りを捧げている者たちの他は、本山に残っていた者は全て、食材や調理道具を運んだり、料理を手伝ったりしていた。
「なあ、こんなときに食べてていいのか?」
「いいもなにも……戦なんて飯より大事でもねえだろ」
「そうだけどさあ」
「きっと、講話の条件かなんかを話し合ってんだろ? 俺らは食えるときに食っときゃいいんだよ」
そんな会話が両陣営のそこかしこで聞こえてくる。
厭戦とまではいかないが、戦場全体の空気が弛緩しているのは誰の目にも明らかだった。
女王の部下たちは軍隊というよりも女王の私兵としての性格が強い。
一方の義勇軍は既に自分たちの正当性を証明している。
どちらも無理に勝利を掴みたいわけでもない。自分たちの寄る辺を失いたくないのである。
そうした動機は煽れば瞬く間に燃え上がるが、白けるのも早い。
「こんな馬鹿げた方法、よく思い付くよ」
そう呟いたのは、女王の営舎で食事をしていたリコであった。
デューロは報告も兼ねてバラニの所に帰ってきたが、マサルは義勇軍側の陣営に留まったままである。
外では誰が聞き耳を立てているかわからないため、こうしてバラニや女王とテーブルを共にしているのだが、なんとも複雑な心境であった。
この騒動の元々の原因は目の前でスープを上品に口に運ぶ女王であるが、民衆を徒に煽った者もいる。
もはや誰を罰するかではなく、如何に事態を収拾するかが大事なのだが、それはそれとして納得できない部分もあるのだった。
「大体、これでお前の言う『悪党』とやらが現れなかったら、どうするんだよ」
「そのときは女王様が麗しき御手で兵を差し向け、敵軍を血に染めるでしょうね」
バラニの物言いは慇懃そのものだったが、女王はスプーンを静かに置いた。
「私は、私がしたいようにすることが我が国にとって一番良いことだと教えられてきた。殺すにしろ、死ぬにしろ……人に指図は受けぬ」
これもまた一つの君主の在り方ではあった。君主もまた人である以上、その生き方を完璧に制限するのは不可能なのだった。
それが許されるか、許されないか。ときに神が、ときに民が、ときに自然が、裁定者となるのが、この世界である。法とその精神はまだまだ未熟で、道のりは果てしない。
女王は自分自身でも知らぬ内に本心と変わりないものを吐露したことに気付いて、やや眉間にシワを寄せた。
それから口元を拭いて、食器を下げさせた。
「リコといったか。文句もあろうが、夫と別行動をとったのは、お前なりにバラニの言うことを信じたからだろう?」
図星である。バラニの言うことが実現するのであれば、どちらかの陣営ではなく、両方に対して同時に働きかけがあるはずだった。それが最も混乱を広めるのに有効だからだ。
そして、それが起こったのはじきであった。
「バラニ様。ゲンイ様への祈りで相談したいことがあると、修道士が来ています」
それを聞いたバラニが、テーブルの下でデューロの手をぎゅっと握ったのを、リコはたまたま目にした。
彼女にとっても、この作戦は大きな賭けなのかもしれない。
自分もまた、マサルを信じよう。そう改めて思ったのだった。