イノシシに命とられて
毎日20時頃に更新予定です。一章当たり十話前後を予定。
スポーツの動画や記事で、整った顔立ちの選手の顔から下がムッキムキ。
マサルが今見ているものから連想したのはそれだ。
しかし彼が置かれた状況は、連想したものよりずっと切迫していた。
「では、真剣勝負だ。必要なら貴様も武器を使え」
自分の身長と同じぐらいの長さの長刀を構えた女性は、それをひらひらと、挑発的に舞わせている。
ボタンの無い麻の衣服をきつきつに紐で締めているから、その下の大きな胸も揺れに揺れて、強調されてしまうが、本人は恥ずかしがる様子もない。
剣舞を誇らしげに続ける様は、戦いを楽しんでいるのがわかる。
その耳は肩幅ぐらいまであり、尖っていて、いわゆるエルフと呼ばれるファンタジー世界の住人と似た特徴が多く、実際に彼女はエルフを自称していた。
そんな女性とそっくりな顔の、しかしゆったりとした外套を着込んだ別の女性が、マサルを庇うように前に出た。
「おやめなさい、リコ! この方はまだ体に慣れきってないのよ!」
その言葉に、マサルはうんうんと頷いた。
もっとも時間を置いたからといって慣れるとは、とても思えないのだが。
リコと呼ばれた女性は、よく通る声で叫んだ。
「だから気合を入れてやると言ってるんだ! そのオークの体にな!!」
身長はざっと二メートル超。
筋肉プラス脂肪で体重も二百キログラムを超えているはず。
手の指は四本だから違和感が強い。
いわゆるオークの体になったマサルにとって、人間よりも便利になった所といえば、周囲の見晴らしがとても良いことぐらいだった。
森の木々の頭だけでなく、山までよく見渡せて、これがピクニックか何かだったら、さぞ気分が良かったろう。
マサルを庇ってくれているはずの女性は、彼のお腹辺りまでしか庇えていなかったが、それでも心強かった。
人間だったときの最後の記憶の場面では、マサルはたった一人で恐怖と戦ったのだから。
「くっそ、なんでこんな所にいるんだよ!」
マサルの目の前、ほんの三メートル先でイノシシが牙を剥いていた。本州に生息しているニホンイノシシはたしかオスの方が牙が目立つはずだから、多分オスなのだろう。
テレビや動画サイトではサイズがわからなかったが、こうして目の前にするとつくづく大きく感じた。
それはマサルだけの感慨というわけではなく、実際に体長が一八〇センチはあり、ニホンイノシシでもそうそういないはずの大きさだった。
こんな山の主とさえいえるような個体が、街から徒歩二十分の山の登山道に出てくるのは、いくらなんでも異常だと言って良い。
まるでマサルを狙って山奥からわざわざ出てきたかのようだが、そんなのは馬鹿らしい妄想だろう。
マサルは高校の卒業旅行が諸事情でだめになったせいで暇を持て余し、小学校の頃によく遊びに来ていた山になんとなく来ただけなのだから。
自分の心臓の音が聞こえる。眼球がぎちぎちに膨れて、口の中は唾が乾く。
明確な敵意を向けられるなんて、小学生の頃に中学生の集団から絡まれたとき以来だった。そのときはからかわれただけで済んだけれど、今度はそれで済みそうにない。
全国ニュースではイノシシを退治したなんて豪快な話が流れるけれど、ローカルではただただ襲われて、深刻な怪我を負った人たちが話題になる。
マサルは仲間内と比べてもそこまで恵まれていない。高校を出る歳になっても身長が一七〇センチに全く足りていないのが少しだけコンプレックスだった。
普段はそんなこと気にはしない。気にはしないが、これだけはっきりとした脅威を目の前にすると、つい考えてしまう。
自分の体がもっと大きかったら。もっと丈夫だったら。他に何か選択肢があったんじゃないのか。
『その選択肢を与えてやろうというのだ』
一瞬、そんな声が聞こえた気がしたのだが、確かめる術は無かった。
イノシシが唸り声と共に、文字通りに猪突猛進したのだった。
胸の骨が折れて、肺に突き刺さったのがわかった気がした。心臓に刺さらなかっただけマシだったのだろうか。
わからない。
背中からもろに地面に落ちたが、そこからイノシシの頭ですくい投げられた。
マサルが覚えてるのはそこまでだ。
体がどこまでも広がっていくような感覚がした。
死とはこういうものなのだろうか。そんな思考らしい思考をした自分に気付いたとき、眩しさを感じて、瞼が動いた。
すると目の前に、イノシシの顔があった。
「ウオワアアアアア!」
信じられないぐらい大きな声が出た。いや、そもそも自分の声と最初はわからなかった。戸惑いながらも何度か声を出してみて、ようやく自分の声だとわかった。自分が知ってるものよりずっと低い声だ。
そのうち自分の体の変化に気付いた。まず、体の色がおかしい。皮膚はがさがさで、色は黒っぽい。テレビで見るカバとか水牛を思い出させる色だ。
それに指も両手共に四本で、千切れたとかではなく、造り自体がその数なのが付け根の数でわかる。
やがて自分が寝そべっているベッドの横から、声がした。
「お、落ち着いたか? わしがわかるか?」
恐る恐るといった様子で木の柱の影から顔を見せたのは、二足歩行をするイノシシだった。
思わずまた大声を出しそうになったが、よく見れば、さっきまで自分が襲われていたイノシシとは似ても似つかない。もっと豚に近い感じで、威圧感も無い。シワが多くて、もしかしたら年寄りなのかもしれない。
いやいや、まて。
もっと、先に気にすることがあるだろうが。
マサルは冷静になろうと努めた。
「なんで、動物が歩いて、喋ってんだよ」
まずは、そこからだ。