筋肉バカ 臨死教官の手始め
朝、騒祭荘の練也自室。
最近は日の出が早いので、目が覚めるのと日の出を知らせる鐘が鳴るタイミングが頻繁に被るようになった。
コッチ側の世界に来てからそれなりの時間が経った事を実感する今日この頃の練也である。
ギルドと傭兵団からそれぞれ支給された数着の服の中から、傭兵団の活動服を出して素早く着替える。上着は、腰に絞りが入ったチュニックのようなデザインで、下はジーンズのようなデザインの服だ。
見た目は質素だが、なかなかどうして作りが良く、丈夫なので練也は割と気に入っている。
バックルの付いたブーツに足を入れて、身なりを整えると練也は部屋を出て共用の水場へ向かう。
「おぉ、お早うさん」
先に来ていたらしいニクスが、練也に気付いて挨拶した。
「ああ、お早う」
実は、二人とも朝は余り強くない。よって、二人の声も平常時と比べると眠気成分が多分に混ざっている。
水場は建物の外にあり、昔ながらのくみ上げ式給水器が二つ据えられている。
ハンドルを上下に動かして、水が出るまで少し待つ。水が出始めたら、すかさず流れ落ちる水の中に頭を突っ込む。
地下で冷やされた水が、練也の後頭部を叩いて頭を冷やす。すると、眠気がたちまち吹き飛んで、そのまま顔を洗った。
「ホンマ、毎朝ようそんな事やるわ。ワシも真似してみたけど、冷たすぎて逆に頭痛なったわ」
「あぁ……それに関しちゃ、個人個人で慣れや体質もあるし、無理にやる必要も無いだろう」
「いや、ソレやる前とやった後のレンヤの顔の変わり具合見たらやってみたくもなるで」
はて、そんなに変わっているのだろうか、と練也は疑問に思った。
しかし、本人は気付いていないが本当に変わるのだ。分かり易く言おう。朝、寝起きの練也は両目が三みたいな感じになってショボついている。しかし、水を浴びた後の練也の目は平常時に見せる切れの長いハッキリした目付きに戻っているのだ。
「あ、手ぬぐい忘れちまった」
「ホレ、ワシの使い差しでええんならどうぞ」
「あぁ……有り難く使わせてもらうよ」
「何や、露骨に迷うなや」
「お前が美女だったら素直に喜んでるよ」
「ワシかて女装すれば美人なんやぞ!」
いつも通りの、朝のじゃれ合いである。ちなみに、ニクスを始めエルフと呼ばれる亜人種は、皆例外無く美男美女として生まれる事で知られている。
ニクスもその名に恥じぬ美男顔で、しかも中性的な顔立ちのせいで少しいじればすぐ女に化けるのだ。
「んぁ……朝から何騒いでるんだい……」
そんな中、地を這うような声で登場したのはマギアだ。
チャームポイントの長い黒髪も、今はあちこちが跳ねていて大変な事になっている。
「コラ、マギア。いくら眠い言うても、せめてもう少し身なりちゃんとして出て来んかい」
練也、ニクス、マギアの中で一番朝が弱いのが見て分かる通りマギアだ。
故に、朝もそこそこの頻度で下着姿に布を引っかけただけのような過激な出で立ちで水場に出現する。本日もそのようだった。
なまじっか美人な顔立ちで、しかも胸は小さいが身体の線はバレーボール選手のように健康的な色気があるため、朝から目の保養……もとい毒なのだ。
「んん?……ああ、後でしまっとくよ」
しかし、発言がこれのためやや減点。彼女曰く、女を捨てたつもりはないが女を忘れる時がたまにあるとの事で、今の状況等が正にそれらしい。
騒祭荘は男女共用であるが、しかし女性の住人は彼女一人しかいない。
「アイツ、あんな様子で今まで良く無事だったな」
「寝ぼけとっても残念美人でも、それでもマギアは龍人やからなぁ……」
「?」
龍人は、字の如く龍の特性を持って生まれた獣人種の亜人だ。そのため、身体能力はずば抜けて高く、とりわけ見た目の体躯と不釣り合いなほどの怪力は、それだけで凶器になる。
「まぁ、暴れたら一番ヤバいって事だけ分かってれば、それでええ……マジでヤバかったでな」
「……ふうん……暴れた事あったか?」
「まあ、な……おっと、この事については本人から言わんようにキツく止められとるから教えられへんで」
あぁ、つまり漏らしたのがバレたらタダじゃ済まないと言う事か、と納得する練也。
「ん……ああ、髪がピンピンしてるぅ……」
櫛ぃ、と呻きながら建物に戻るマギアを何も言わずに見送って二人は一階の食堂へ向かった。
「で? 練也は今日何するんや」
食卓に着くと、出し抜けにニクスがそう訊いてきた。
「ぼちぼち仕事だな」
「昨日までやってたんは何やったんや!?」
練也の予想外の答えに、突っ込まずにはいられなかったニクス。
「アレまでは全部段取りだよ。仕事じゃなくて、準備だ」
「ええと……つまりどう言う事や?」
「俺の仕事は、イスラ傭兵団の団員全員の練兵指導官だ。で、現在の仕事は、連中の体力強化。昨日までやっていたのは、そのために必要な情報収集と、諸々の手回しだよ。仕事の内ではあるが、あくまで準備だ」
イスラ傭兵団の、団内における各種規律や指揮系統、事態対応マニュアルの掌握に始まり、全団員の完全掌握、各人の現段階での体力の把握、他にも各種提案書類や計画書、その他諸々書類、書類、時たま直談判___
「……思い出しただけで嫌になる」
「何をしたんや、ホンマ」
「……俺の仕事のモットーだがな、“八割段取り、二割実作業”なんだよ」
「いきなり何や? どう言う事や?」
「つまり、何か仕事をする前にはそのための物品や環境をしっかり準備しとけ、って意味だ。要するに俺は、仕事の上では、段取りを何よりも重要視してるんだよ」
「ほぉ……およそヒトらしからぬ考え方やな」
「俺の中には、前の世界の先人達が歩いた約五〇〇万年分の歴史があるからな。学ばなきゃバカだよ」
「そこはワシ等エルフがヒトに勝てんところやな」
「まぁ、話を戻すと、手回しも終わって、目標も定まった。から、今日から団員達には体力錬成をやってもらうって事だ」
「大分遠回りしたな」
「させたのは誰だよ」
お前だよ、とお互いに指を差し合って笑いながら朝食を平らげていく。
目が覚めてから、三〇分も経っていない。
練也達の朝は、のんびりしているようで実はなかなか早いのだ。本人達に自覚は無いが。
さて、時間は過ぎ、場所も変わって勤務隊舎の朝礼台の上。
練也の眼下には、本日勤務隊舎に残置される十数名が並んでいる。
イスラ傭兵団は、総員六三名で構成される小規模な集団だ。その中から団長を引いて、六二名を四個隊に分けて、部隊運用をしている。各隊、数日おきに各隊舎で勤務をしており、今日は若手揃いの第四隊、通称若鷲隊が練也の教え子達だ。
背をそらし、大きく息を吸ったらば
「お早うっ!!」
と、弾丸のような勢いの朝の挨拶。自前の肺活量と、鍛え上げた腹筋が撃ち出したその声は、かなり通るし、響く。
おはようございます、ヒロセ指導官殿! と元気な声で返してくる団員達が、たまらなく愛おしく思う。
声をかけて、返事がもらえるのは実はなかなか嬉しい物だ。
「では報告!」
報告とは、現場における最高責任者に対して、部隊長が部隊集結完了と人員及び装備の異常の有無を伝達する物で、練也が新たに織り込んだ規則だ。
台のすぐ前に、ベルナッドが駆け寄る。
「報告します! イスラ傭兵団第四隊。ベルナッド・ダガー以下一二名、集合完了。人員、装備異常無し。報告終わり!」
練也もビックリしたのだが、実はベルナッドが若鷲隊こと第四隊の長なのだ。練也の目からすれば、懸垂と剣技が得意な団員でしか無かったが、人は見た目の印象によらない物である。
「了解した。列に下がれ」
「はっ」
ベルナッドが隊列に戻ったのを確認すると、
「本日の課業を伝達する! 午前は体力錬成、午後からは戦技錬成とする。午前の課業については、各員武装を解除して活動服の状態で再度ここへ集合しろ。そこで改めて詳細な指示を出す。質問は?」
沈黙。
「よし、すぐに着替えてこい! 分かれ!」
号令がかかると、団員達は隊列を崩さないままその場から走り去ってていく。蜘蛛の子を散らさない辺りが、この傭兵団の部隊練度の高さを無言で物語る。
何せ、練也が自衛隊時代に得た経験や知識を持ち込んだのは、テンプレートの作成と、報告の確行だけだ。
それ以外の規律的な動作は、すべてイスラ傭兵団自前の物なのだから、舌を巻かざるを得ない。
まあ、それもイスラ傭兵団の歴史を鑑みれば納得できる話だ。まず、結論から言うとイスラ傭兵団はもともとは、イスラ皇国と呼ばれた今は亡き国の近衛騎士団がルーツにある。
そして、この近衛騎士団は当時、情け容赦の無い戦い方で勇名を馳せていた。彼等の戦い方は、進撃してくる敵を罠で足止めし、弓弩で狙い撃ちにして最後に騎馬突撃によって蹂躙する、と言う防御からの逆襲を主としていた。特に、えげつなかったのが罠である。
今の団員達も針板と呼んでいる設置型の罠がある。これは、名が示すように板に針を打ち込んで、地面に設置して、踏んだ相手を行動不能にする代物だ。
普通、えげつないと言えばその針に毒を塗り込むとか、そう言う事を想像するだろう。彼等は、あえてそれをしなかった。
代わりに、返しの付いたもりのような針を仕込んだのだ。
踏んだら、まず普通に痛い。そして、返しが肉に食い込んで抜こうに抜けない。抜こうとするならば、針を板から外してそのまま足を貫通させるしか無い。
踏んだ兵士は、激痛に喘ぎ、なまじっか死なない程度の怪我で、それでいて見た目は痛々しく、痛いと叫び回るのだから、その光景を見てしまった味方の兵士の士気にも揺さぶりがかかる。
そして、視点を変えるとそう言った心理戦を戦術の中に組み込めるだけの軍隊が、件の近衛騎士団だったのだ。当時は、国外の騎士団からは“騎士道に反するただの賊だ”等と詰られていたそうだが、ついに彼等を打ち破った騎士団は現れなかったそうだ。
では、何故そんな騎士団が傭兵団に姿を変えたのか、そもそもイスラ皇国はどうして消えたのか、と言う話だが、それは別の機会にしよう。
記憶を辿っていたら、いつの間にか五分くらい過ぎていたらしい。着替え終わった団員達が、列を成して戻ってきた。
整列が終わると、ベルナッドが再び練也の前まで駆けてきた。
「第四隊、再度集合完了しました。人員異常無し」
「了解」
さて、と並ぶ団員達の顔をさっと流し見ていく。
どうやら、この間の体力テストが効いているのか、全員、自分を見る目が緊張と恐怖で染まっている。殺意が混じっていないのは幸いであるが、それにしてもやり辛い。
気にしても仕方無いのだが。
「さて……先に言っておくが俺はお前達の体力の無さに失望はしていない!」
大嘘だ。静かにキレて団長室に躍り込んだくらいには失望した。しかし、そんな事は無かったかのように、すらすらと建前を口に出していく。
「お前達に俺が望むような体力が無い事は、前々から察していたからだ!」
これは本当だ。
そもそも、彼等が今までまともにした事が無いような運動をさせたという自覚はある。あそこまで酷いとは思っていなかったが。
「しかし、安心しろ。俺は、貴様等に約束した事は忘れていない! 絶対! 何としてでも! 貴様等全員、他の亜人の軍隊に見劣りしないような軍隊に仕上げてやる!」
蛇をドラゴンに化けさせるくらいに話を盛ったが、実際その気でいるから問題は無い。
まぁ、実際やる本人達はそうでも無いよなぁ……と、自身の目の前の、コイツマジか、と言わんばかりの目が11組、計二二玉に睨まれて思う。
最近よく睨まれるな、と心の中で呟いて改めて向き直る。
「とは言え、俺も悪魔や鬼畜では無い」
どの口が、と二二個の目が訴えているが無視する。
「安心しろ、お前等がギリギリこなせて、それでいて成長が実感できるようにしてやる」
ん? ギリギリまで? 表現がおかしいか? いやいやそんな事は無い、体力錬成なんて物は動けなくなる手前まで追い込むのが基本だ。
眼前の団員達は、もはや諦観に染まった目を隠そうともしていない。
「まあそう嫌そうな顔をするな。お前等だけにやらせようなんて事は無い、俺も一緒にやる」
すると、途端に全員の目が意外だと言外に言った。これも、仕方無いと言えば仕方無い。前回の体力テストの時、練也はただ見て、監督して、報告を聞くだけの、彼等からしたら憎らしい存在だったのだから。あの時の自分の仕事を考えれば、そうなるのも自明なのだが、彼等がそれを理解するはずも無い。
ここまで色々と言ったせいで、団員達の集中が乱されてしまったようだった。
「では、注目っ!!」
そう言う時に、声の弾丸は良く効く。練也が号令を発するや、団員達の浮ついた空気が一気に静まった。
「これより、体力錬成を行う。細目、体力錬成! 詳細目、持久走及び腕立て伏せ等の実施による団員の基礎体力強化!」
宣言が終えると、練也は全員を二列に並ばせた。順番は、持久走の成績が悪かった者から先頭に並べている。
「まずは持久走だ。筋トレできるけど走れない、と言う奴やその逆はそこそこいる。しかし、両方できない奴はもっといる!」
練也が全員の前に立ってそう言うと、何人かが気まずそうな顔になった。ベルナッドもその一人だ。
「せめて、今の格好で長距離を走れるだけの体力は確実に獲得して貰わねばならん……何、いきなり全力でダッシュしろとは言わん。俺が先頭を走るから、お前等は俺に遅れないように付いてこい」
言い終えると、練也は右向け右の号令をかけて、縦列の先頭に立った。
「一歩目を左足から出せ。歩調は俺がかける。全員、歩調を乱さないように意識しながら走れ」
駆け足ヨーイ! の号令が響く。すると、全員が両手を腰の位置まで上げてその姿勢で止まった。
「前ぇ、ススメ!」
その瞬間、練也を先頭に据えた二列縦隊が低い足音を響かせながら生き物のように動き出した。
「一、一、一、二っ! 一、一、一、二っ!」
練也の号令に合わせて、全員が足を動かす。列の後方にいる者達はまだ何とか平気そうではあるが、前方に集中している者達は走り出して五〇〇メートルも通過していない時点で既に歩調の維持が危うくなっている。
しかし、練也にこれ以上の手加減は無い。既に、今の時点で一キロメートルを六分で走るような遅いペースにしている。これ以上遅くしよう物なら、歩いているのか走っているのか練也の方が分からなくなってしまう。
何より、下手に遅すぎるペースで走ると、膝を痛めかねないのだ。
「一、一、一、二っ! おらお前等、朝から元気ねぇぞ!! 俺の一、二の後にソーレッて声出せぇ! 行くぞぉ!」
イチ、イチ、イッチ、ニっ! ソぉーレっ! イチ、イチ、イッチ、ニっ! ソぉーレっ!
これもまた、自衛隊式のかけ声。練也が、新たにこの傭兵団に持ち込んだ新しいルールだが、意外にもすんなりと受け入れられた。
「もっと声出せぇ!! 全っ然聞こえんぞぅ!!」
そう怒鳴る練也の声は、冗談で無く勤務隊舎の窓のガラスをビリビリと痺れさせている。
練也の叱咤に、後ろの団員達も負けじと声を張り上げる。
イチ! イチ! イッチ、ニィ!! ソォーれぃ!!
イチ! イチ! イッチ、ニィ!! ソォーれぃ!!
「良いぞぅ!! だが、もっとだ! お前等ならもっと出せるぞぉ!! ……そぉーら! イチっ! イチっ! イッチ、ニィ!!!」
『ソぉぅレェイっ!!!』
「イチっ! イチっ! イッチ、ニィ!!!」
『ソぉぅレぇい!!!』
声を張り上げる余り、咳き込む者もちらほらと現れ始めた。元々、走るのがそこまで得意では無かった者達に、あろう事にも走らせながら声出しもさせているのだから、無理も無い。
しかし、練也に手加減の文字は無い。
この声出しにも、それなりに意味がある。強制的に腹式呼吸にさせる事と、歩調の維持だ。
特に重点的に狙うのが腹式呼吸だ。これに慣れると、一度の呼吸量が底上げされる。すると、現段階で肺活量が不足気味の団員も、その不足分を補えるようになる。そして、そのまま鍛え続ければ肺活量が六リットル、七リットルに増える日も夢じゃ無くなる。
歩調の維持は、単に走り慣れていない者達に対する練也なりのアシストだ。頭で分かっていても、身体が着いてこないという状況はままある。しかし、そもそも身体が慣れていないのならば、最低限頭の中にイメージだけは持って貰わねば困る。
練也と団員達の大声の競い合いは、その後三〇分以上続いた。
最後には、全員声は萎え、歩調も合わせるのがやっとと言う惨憺たる有様であったが、結果としてどうにか走り切りはした。
「整列!」
しかし、そんな彼等と違い汗はかいているがピンピンしている練也である。ああ、コイツバケモンだ、と誰もが思った。
「これより、一〇分間休憩を与える。その間に、汗の処置と水分補給をしとけ。水分については、朝礼台の位置でマギア副指導官が用意している。しっかり取っておけ。分かれ!」
ああ、コイツカミサマだと全員が心の中で手のひらを返した。
鞭をくれる輩は嫌うが、同じ人物が飴をくれるなら溜飲は下げられるのだ。現金な物である。
分かれの命令を受けた彼等は、我先にと朝礼台まで走って行く。ヤロウ、まだ走れるじゃねぇか、と内心で毒づくも自分もああだったなと言う記憶がよぎってそれ以上は出てこなかった。
それにしても、本当に良く訓練された隊だと練也は思う。
我先にと走って行って、そのまま乱闘まがいの状況になるだろうと思っていたが、彼等は円形に並んで、練也特製レシピのドリンクが入った金属製のポットを回し飲みし始めたのだ。
良好な団結を築いていなければ、あんな事を当たり前のようにこなす事はなかなかできない。羨ましい限りだ、と練也は過去の記憶と比べてみてそう思った。外向きに精強をアピールするのは簡単だが、見た目だけのそれはすぐに瓦解する。真に精強な集団というのは、ああやって一つの水分を皆で当たり前のように分け合えるような事を言うのだ。
その精強さもまた、イスラ皇国近衛騎士団だった頃の出来事に由来する物だ。
そもそも、彼等が遣えていた皇国は、皇帝を国の主としていたにも関わらず、国土自体はそこまで広くなかったようだ。
この仕事に就いて、初日から読み続けた資料の中にあった表現から察するに、イスラ皇国の領地は、このファルナス三つほどの広さしか無かったようだ。
ちなみに、現在ファルナスを間に挟んで睨み合っている二つの大国、モーデン王国とスルガン協商連合はそれぞれファルナスの一〇倍以上の国土を誇る。
話を戻して、そんな小規模だった皇国がどうして存続できていたのかと言えば、それは軍事水準の高さと、当時の気候的特製が根幹にあった。
かつてイスラ皇国は、現モーデン王国と食うか食われるかの争いをしていた。攻められる度に、皇国側はそれを退けていたのだが、多勢に無勢の中で戦術と戦略面において常に上手を取れていたから成せた奇跡だ。
つまり、常に戦況はどちらかと言えば、限り無く膠着に近い優勢だったのだ。そんな戦況を、何年も、何一〇年も、建国から数えたらそれこそ切りが無いくらいに耐え抜いていたのだ。
そこに、強固な団結が発生したとしても別に不自然ては無い。
喉は渇くが水が無い。
分かった、ならば俺の馬の血を飲め。
とは、皇国の防御軍の兵士と逆襲軍の兵士の絆を物語るやりとりとして、この傭兵団、引いては町中で知られた話だ。
だからこそだ。
だからこそ、その強い精神に対して身体が追い付いていない現実が、練也にはどうしても耐えがたかった。
その思いは、着任初日から数日間立ちはだかり続けた書類仕事と格闘している時に芽生え、彼等を直に見れば見るほど強くなる。
勿論、ただのお節介だというのは理解している。自分がどうこうしてやる義理は無いし、それは向こうも義理の上では同じだ。しかし、だからと言って手を引けないのが練也なのだ。
しかも、今なら、いや、ここに関しては最初から“練兵指導官”と言う肩書きがあって来ている。義理は無いが、道理りは通る。それに、義理もただの片思いだと思えば納得も行く。
気が付けば水分補給を終えた団員達が、幾分マシな顔色になって戻ってきていた。
何度も言うが、練也が来る以前から鎧やら何やらをガチャガチャ言わせながら動き回っていた連中なのだ。練也の求める方向の体力が不足しているのであって、スタミナ皆無と言うわけでは無いのだ。
回復がそれなりに早くても、別に驚くような事では無い。
「さて、各人、体調は? 異常ある者は、今もしくは後でも良いから報告しろ」
特に異常は無いらしく、誰も何も言わずにじっと次の指示を待っている。
何よりだ。
「では次の項目、腕立て伏せ!」
団員達の士気が目に見えて下がった。いや、分かるぞ? 気持ちは分かるが、堪えろお前等。
「まあ、そんな顔をするな。この間みたいに、二分間全力でやれ、なんて事は言わん」
そう、今やっているのはあくまで体力錬成だ。限界値を伸ばすのが目的であって、全力を出し切るのはまた別件だ。
故に、やることも少し毛色が違ってくる。
「今回の腕立て伏せは、俺が号令をかけるから、お前達はそれに合わせてやれ。二〇回を一区切りとして五回、計一〇〇回の実施とする。安心しろ、一区切り毎にちゃんと休憩は入れる」
そう言っても、団員達の顔色は優れないままだ。よっぽど嫌なのだろうが、さて何故嫌なのか。
そこで、ふと思い当たる記憶が過ぎった。
アレは、確か前期教育隊の時だったな……腕立て伏せじゃ無かったが、こんな感じで腹筋を死ぬほど嫌がった同じ班の同期学生がいた……何でだったかな……?
「まずは、一回目だ。二列横隊に並び、前後左右の間隔を空けろ!」
頭の中で記憶を手繰りながらも、指示を出す事は忘れない。
団員達も、指示通りに並ぶ。
「腕立て伏せの姿勢を取れ!」
練也の号令に、団員達はすかさずイチ、ニと言いながら姿勢を取った。
「まずは二〇回だ。ペースはゆっくりめでやる。お前等、着いて来いよ!」
顔色に似合わず、ハイと威勢の良い返事が飛んでくる。
「……イチ!」
『イぃチ!』
「……ニ!」
『ニぃ!』
「……サン!」
『サぁン!』
………………
練也の中で、一分間に二〇回以上三〇回未満のペースを守りながら、腕立て伏せを続ける。
初回については、全員呆気無くやり遂げる事ができた。
団員達も、アレこんなもんだったかな、とやや困惑している様子だ。
その困惑の原因を読み取って、ああそう言う事か、と納得した。つまりは、全員が腕立て伏せに対して過剰に苦手意識を持ってしまっていたのだ。
恐らく、練也自身のせいで。
そう言えば、アイツもできないから嫌ってクチだったわなぁ……と記憶の中の同期を思い出す。
そう、誰でもそうだができないから嫌、と思ってしまうのは不思議では無い。できない事を無理矢理やろうとすれば、ただでさえ疲れるのに精神的苦痛までセットになるのだから腰も引ける。
と言う事で。
「どうだ? 意外とできるだろ?」
露骨にならないように調整しながら、フォローを入れる。
言われてみれば確かに、割とできたよな、等の声もちらほらと聞こえる。
「改めて言っておくが、俺はできない事はやらせん。できん事を無理にやらせたら、怪我しかねんからな」
とは言えギリギリまではいじめ抜くつもりだが、それはわざわざ口にしない。
「この間のテストのせいで、腕立て伏せが嫌いだって言う奴も多だろう」
そこまで言い切って、練也は再び腕立て伏せの号令を飛ばす。
「だから、気分が楽になる考え方を教えてやる……結果は出すのに時間はかかるが、成長はリアルタイムだ」
そう言うと、練也はイチっ! と肉声の弾丸を撃ち出した。それを受けて、団員達も腕立て伏せをする。しかし、一回目と比べると腕や胸への負担が明確に感じられるようになっており、動きは少し鈍くなっている。
「どうだ!? この運動が、どこの筋肉に負担を与えているか分かるだろう!?」
『ハイっ、指導官殿っ!』
「よーし、ならベルナッド! どこに負担がかかっているか、言ってみろ!」
「はいっ! 上腕と胸です、ヒロセ指導官殿!」
「よしっ! その感覚を忘れるな! この運動は主としてその二点と腹筋の計三点が鍛えられる。それを意識しながら続けろ! 二ぃっ!」
『ニぃっ!』
「良いか! 腰は下げるなよ! 身体はまっすぐ伸ばしたままにしろ! 最悪姿勢を崩すにしても、腰を上げる方にしろ。下げたら腰を痛めるからな! はい、三っ!」
『サぁンっ!』
そのまま目立った遅れも無く四、五、六___と続けていく。
二回目が終わる頃には、流石にペースは乱れ団員達にも疲労の色が現れ始めていた。実際、現段階ですでに団員の誰もが経験した事の無い四〇回に突入しているのだから、それも仕方無い。
「肩回したり、胸開いたりして、できる限りストレッチしとけ」
そう言って、練也は実際に胸のストレッチをする。手のひらが向き合うように腕を前に伸ばして、そこから腕の高さを維持しつつ手のひらを外に向けながら肘を曲げて腕を引く。肘は肩よりも後ろに引いて、胸の筋肉が伸びるのを意識しながらやるのがミソだ。
「良いか、ストレッチはトレーニング以上に念入りにやれ。それが、疲労軽減にもなるし怪我の予防にも繋がるからな」
団員達の様子を見ながら、自らも全身を入念に伸ばし、ほぐしていく。あぁ、強張った筋が筋肉が悦んでる……と恍惚に浸っている時だった。
「……ヒロセ指導官殿」
コソコソと寄って潜んだ声で話しかけてきたのはベルナッドだった。雰囲気からして、何やら内緒の話を持ち込みそうな気配がある。
「どうした、そんな声を潜めて」
「いえ、皆まで訊くのも不躾かと思って声を潜めているのですが、質問してもよろしいですか?」
「ん? 何だ?」
ベルナッドの質問は、なるほど
声を潜めたくなるのも分かる内容だった。つまり、この体力錬成の意義についてそもそも理解が追い付いていないが故に、どうしてやる必要があるのか、と言う疑問だった。
「そうだな。そこは……まあ、まず個人の継戦能力の向上なんだが、これは午後に直接教えてやる」
「は、はぁ……まず、と言う事は他にもあるのですか?」
「ある」
いまいち要領を得ない様子のベルナッドの質問に、練也は断言をもって応えた。
「こう言っては何だが、お前達は、兵士としては身体が細すぎる。だから鍛える。お前達が細いのが、こう言う運動不足だけが理由だとは言わんが、要因としては大きい」
「細い、ですか?」
「ああ、細い。デブばっかの軍隊も考え物だが、ヒョロガリばっかの軍隊はそれ以前の問題だ」
練也から見て彼等だけで無くイスラ傭兵団の団員全員が例外無くヒョロガリ認定されている。
何せ、全員首が細い。練也としては、その時点で許しがたかった。
「細いと何が困るってな、まず力が弱い事、そして打たれ弱い事だ。特に打たれ弱いのはいかん。怪我しやすいからな」
「っ! 我々は打たれ弱くなど!」
「いいや弱い」
ベルナッドの憤慨を受け流して、その上で練也は彼等の事を打たれ弱いと断じた。当然、ベルナッドはそれに納得できるはずも無く、当初の下手の態度は姿を消して不機嫌さをあらわにしている。
「打たれ強い身体をしているなら、そもそも俺はお前達にこんな事をやらせん」
捉え方次第では侮辱にも聞こえる練也の言葉に、ベルナッドは素直に納得できるはずも無く不満と悔しさを滲ませた表情で歯を食いしばっている。
「そうだな……今すぐの理解が難しいのは俺も承知している。だから、一ヶ月待て」
「一ヶ月、ですか?」
「ああ、一か月だ。それくらいの時期なら、今やっている体力錬成の成果が実感できているはずだ」
だから、それまで頑張ってみろ、と言って練也はベルナッドを隊列へ戻した。
自身の部下が自分の指示に対して疑問を持つ事は良い事だ。それほど興味を持ちながら取り組んでいるという証左でもあるからだ。
その後も、午前中は体力錬成が続けられた。
終わる頃には、全員の腕や腹がプルプルと笑っていた。
そんな彼等の後ろ姿を見ながら、練也は心の中で、彼等に一ヶ月の我慢を強いる事にすまないと謝る。
練也とて、図太いようで多少繊細な部分はある。もしも自分が彼等と同じ立場だった時、今の自分がどう見えるのかを想像してしまったら、申し訳無いと思えてしまうのだ。
「……約束は果たすから、それまで堪えてくれ」
その声は誰に届くでも無く、風と共に流された。