筋肉バカ 仕事の準備をする
どんな事でも、普段は当たり前にこなしている行為でも、そのプロセスの中に慣れない一工程が加われば、非常に面倒になってしまう。その面倒が一回で終わればまだ良いが、恒常的に続き始めると、それはただならぬストレスになり、果ては本人の精神に異常をきたす場合もある。
例えば、異世界で生活を始めた広瀬練也の場合。
誰かと話している分には、相手の言う事は問題無く日本語として捉えられるし、自分が言う事もちゃんと伝わっている。
しかし、文字を読むとなると別問題で、こればかりはどうしても英語表記に見えてしまう。
名前は知らぬがニクスの師匠、及びチャーチルなる人物、死すべし。
さて、それはさておくとしても、この英語表記が練也の精神を蝕んでいる根源である。
さて、ここで一つ想像してみて欲しい。
例えば、漫画Aを渡されたとしよう。このAには二種類あり、一つは日本語で、もう一つは英語で書かれている。
日本語で書かれている分には、日本人であれば問題無く読めるだろう。書いてある文字が、そのまま理解できるのだから。
しかし、英語版だとそうも行かなくなる。ハンデとして英和辞典を渡していたとしても、漫画を読むに当たって、和訳というプロセスが高い確率で発生してしまう。バイリンガルならばそれも心配いらないだろうが、そうで無かったらこの工程は非常に面倒な存在になる。そして、そのまま英語版の漫画Aを読み続けようものなら、物語を楽しむ事よりも和訳の面倒臭さにストレスが勝ってしまうだろう。
練也を蝕むストレスは、正にこの和訳にあった。
忘れかけていた単語も少しずつ思い出して、それなりに読めるようにはなってきたが、しかし英語を訳して日本語に置き換えると言うところは未だに改善されていない。
仮に、それが一枚の紙で済むのならまだ我慢もできたであろう。しかし、現実というものは基本的に優しくない。むしろ、鬼畜じみた側面の方が大きい時さえある。
昨日、夜までかかってようやく一つ羊皮紙の塔を崩したが、同じような塔はあと二つも残っているのだ。
「……ヘゥプ……ミィ」
いよいよ倒錯し始めた練也の頭が、彼に奇行を起こさせてしまう始末。
練也がいるのはイスラ傭兵団の勤務隊舎、その中に設置された指導官室だ。部屋の中自体は小綺麗だが、練也の座るワークデスクの周辺だけは練也を中心に混沌とした雰囲気を醸している。
「まだ目を通してないやつ……」
机に突っ伏したまま目線だけで二つの塔を見上げて、さらにやる気を無くしてしまう。
何をやっても意欲減退してしまうその様は、もはや抑鬱状態と言うべきだ。
こんな具合で練也がグダグダしている時、突然ドアがノックされた。
「? どうぞ、開いてます」
誰か来る予定でもあったか、と思いながらドアの方を見ていると、そこを空けて入ってきたのはヤンセンだった。
その姿を見るやいなや、練也はバネ人形の如く飛び上がって直立不動の姿勢をとる。
「お疲れ様です。本日はどのような要件でしょうか?」
「ああ、楽な姿勢で構わん」
ヤンセンのその言葉で、ようやく練也は姿勢を崩した。
「殊更な要件は無い。この部屋に来たのも、あくまで法衛課課長としての仕事の一部だ」
その言葉で練也は、営内点検みたいなもんか、と納得した。偉い人の仕事もコッチとアッチとで大差無いらしい。
ふむふむ、と一通り部屋中に視線を巡らせてから、ヤンセンは練也に向き直った。
「今の仕事を始めてから数日しか経っておらぬが、どうだ? 不便な事はあるか?」
上官が部下に他愛ない話題を振るところまでとことん営内点検にソックリだな、と内心で苦笑しながら練也は、
「実は私、こちらの世界の文字を読む事に難儀しておりまして。日常生活でもそうですが、このような書類仕事に非常な不便が発生しています」
と、幾分切実な声で言った。
「む? レンヤ殿は、漂流者の印を首に刻まれているのだろう? どうして難儀する事があるのだ?」
しかし、練也の訴えにヤンセンはむしろ怪訝そうな様子を見せる。そして、ヤンセンの怪訝そうな態度も練也は理解できる。
確かに、練也の首の裏には印があり、それが全自動翻訳機と同じ機能を持っている事は間違いない。もともと、首の印には異世界人同士の意思疎通を可能にする役割もあるのだから。
だが、問題は何度も言うが文字が英語表記になる事だ。そして、この事をヤンセンは知らないのだ。怪訝な顔になるのも無理は無い。
ので、練也は状況の理解を得るために説明を始めた。
「確かに、私の目から見てもこちらの世界の言語が全て私の前いた世界の言語に変化しています。そこまでは、問題ありません」
こう言う、ややこしい状況を説明する時に重要なのは、問題が無い部分は問題無いと明言しておく事、そして全ての状況の説明を面倒臭がらない事、この二つだ。
「しかし、問題があるのは私の目に映る文字が、私の母国語では無く、異国語であると言う事です」
「母国語では無い? 異国語? つまり、どう言う事か?」
「そうですね、ニクスの言葉を借りれば、私にはここに書いてある文字が、海を渡った向こうにある大陸の言葉、に映るのです」
「あぁ、異国語とはそう言う意味か。つまり、レンヤ殿には我々の文字がレンヤ殿の世界の異国の文字に見えてしまうと、そう言う事なのだな?」
「はい。一応、多少は解読もできるのですがあくまである程度でしかないので、そのせいもあり難儀していると申し上げた次第です」
ここで、問答が終わり部屋が静まり返った。練也については伝えたい事は伝えたので黙ったままだが、ヤンセンは、ふぅむ、と唸りながら何かを考えているようだ。
そんなヤンセンの姿を見ていると練也も、確かに非常に困っているとは言え甘えすぎか? と心の隅っこで警戒してしまう。
そもそも、練也の読みが外れてなければヤンセンという男は、何故か自分を買ってくれている、はずだ。その期待は、仕事の成果で示せば良いのだが、それにしても買われるほどの何かをした記憶が無いので、やはり少し居心地の悪さを感じる。
練也も内心で唸っていると、ヤンセンが、あっ、と言って手をポンと打った。リアルで始めて見た。
「レンヤ殿、一つ確かめたい事がある。それ次第では、私もレンヤ殿の手助けができるかも知れん」
その言葉を聞いた瞬間、練也は本当ですかと身を乗り出していた。
「まぁまぁ、そう急くな。まず試す前に確認だが、レンヤ殿には……例えばこの書類の主題はどのように見えるのだ?」
そう言って見せられたのは、残った二つの塔の内の一つの一番上にあった“Basic tactics and strategies(基本戦術及び戦略)”と銘打たれたものだった。
「見えるままに読むのであれば、Basic tactics and strategies、と」
「べーしっくたくちくすあん……あぁん? ……すまぬ、何と言っているのかが分からなかった。ちなみに、レンヤ殿にはどのような文字として見えるのだ?」
全て聞き取れなかったのが恥ずかしかったのか、ヤンセンは後半からまくし立てるような勢いで訊いてきた。
練也は、自分に見えるとおりに同じ英文を古紙に書き込んだ。
すると、
「! レンヤ殿は我々の文字が書けるのか?」
「はい?」
素直な驚嘆に、間の抜けた声。
どうやら、ヤンセンには練也が書く英文が向こうの文字として映るようだ。新発見である。
と、同時に一つの懸念事項がニョッキリと顔を出した。
「ちなみに、私の母国語で書くならこうです」
古紙に書いた英文の隣に、今度は日本語で同じ意味の言葉を書き込む。
「これは……どこの国の文字なのだ?」
予想的中。文字としての日本語は通じない事が判明してしまった。ファッキン、ガッデム。
「後に書いた方が、私の母国の文字です」
「ほぅ、これが……二つとも同じ意味なのだな?」
その質問に、練也は首を縦に振った。それを確認すると、ヤンセンは、ならばと、一つの案を提示してきた。
それは___
「……側近の部下、ですか?」
「うむ。それが目下においては最も早く、確実性と効果の高い手段だと考えたのだが、どうだ?」
曰く、ヤンセンから見ると練也は喋れる、聞ける、読めない、と不便極まりない状態であるのは理解できるらしい。しかし、読み聞かせにおいては、読めないと言う不便の根源を迂回できる現状唯一の方法である事を見落としていたらしい。
「言われてみれば……確かに」
練也にも、思い当たる節が多々とあり、ヤンセンが何を言っているのかはすぐに理解できた。
「つまり、読み聞かせ要員として側近の部下をつけたらどうか、と言う事ですね?」
「うむ、そう言う事だ。レンヤ殿の方に問題が無ければ、すぐにでも手配できるが、どうする?」
迷い無く、
「是非に、お願いいたします」
そう言って頭を下げた。
コッチの世界に来てから、二回目の最敬礼。
「うむ、あい分かった。明後日にはレンヤ殿の下に着任できるように手配しよう。流石に、今日明日というわけにはいかぬ」
「いえ、それ以上を求めたら罰が当たってしまいます。充分に有り難いです」
練也は、自身の声に喜色が大いに混ざっている事を自覚していた。内心は、祇園祭もかくやと舞い上がっていた。
「こちらこそ、手を患わせていたようですまぬな。まぁ、今後も何か困った事があれば相談に乗ろう。極力、最善に対処する事を約束する」
その言葉を聞いた時、今ならこの人の靴も喜んで舐められる、そう確信できるほどに練也の心は高揚していた。
やっと、と表現するには期間が短いが、それでもあの拷問的な苦痛が和らぐと思えばそれくらいの事は屁でも無い。
「いや、立ち話がすぎたな。まだまだ油を売っていたいが、これにて失礼する」
そう言い残してヤンセンが部屋を出ると、練也は溢れ返る嬉しさの余りその場で腕立て伏せを始めた。
「一っ、二っ、三っ、四っ、五っ、六っ、七っ、八っ、九っ、十っ!」
姿勢は、背筋を伸ばし顔は正面を向き、手は肩幅よりもやや広く置いて八の字に開く、いわゆる自衛隊式。ペースは一秒一回と異様に早い。勿論、伏せる時はあごを床に着けるのを忘れない。
現職自衛官も目を見張る勢いだろう。
「六一っ、六二っ、六三っ、六四っ!」
いや、本当に目を見張る勢いだ。誤り、現職自衛官も真っ青の方が正確だった。
しかし、百を超したあたりから徐々にペースは落ちて、一四五回目で、練也の天井知らずかと思われた有頂天も、筋肉の限界により頭打ちになった。
床にできた汗の水溜まりが、練也の運動量を物語る。
「あぁ……大胸筋と腹筋と上腕二頭筋がプルプルするぜぇ……」
ゆっくりと立ち上がりながらそう漏らす練也の表情は、恍惚。
全身にじわじわと染み渡る心地よい倦怠感が恍惚度に拍車をかける。
身も蓋も無い言い方をすれば、気色悪い。
しかし、よくよく冷静に考えてみれば何日ぶりの筋トレだろうか。最後に前の世界にいた日はサボった。その前の日もサボっていて、コッチ側の世界に来た初日と二日目もサボっている。
つまり、実に四日ぶりの筋トレとなるのだ。となると、先ほどまでのあの著しい意欲減退は、和訳のストレスだけで無く筋トレ不足から来るストレス、と言う側面も否めなくなってきた。
心に誓う、筋トレ、やらなきゃダメ、絶対。
___筋トレに人生を見出した男の末路である。
Another View
さて、ああは言ったもののどうしたものか。
ヤンセンは歩きながら、頭の中で頭を抱えていた。理由は単純である。
よくよく考えてみれば、自由に動かせるヒトの人員がおらなんだ!
迂闊。ひたすらに迂闊、その一言に尽きる。組織において、迂闊と無能は罪でさえある。そして、恐ろしい事に無能は先天的なものがあるが迂闊は誰にでも起こり得るのだ。
例えば、今、この瞬間のヤンセンのように。
当たり前だが、ヤンセンも練也に約束した事を反故にするつもりは微塵も無い。が、法衛課の人事事情を鑑みるに、いささか困難でもあるのだ。ヤンセンは、確かにある種の一目惚れに近い勢いで練也の事を気に行って、その勢いのままに自分の課に引き入れた。そして、可能な限り練也の支援もしようと、私的な腹積もりも抱えていた。
そもそもの話だが、何故ヤンセンがここまで練也に肩入れをするのか。そこには、それなりの理由がある。
まず、ヤンセンは開放派と呼ばれる思想に属している。これは、亜人優位性の社会では無く、ヒトと亜人が社会面において平等である事を良しとする、この世界における改革思想だ。
彼は、その一員であると同時にファルナスというやや特殊な街においてギルドの課長でもある。つまり、開放派としての行動を取りやす立場にあるのだ。
彼は、殊ヒトとその漂流者についてはほぼ自分の配下に入れて、有効に運用してきた。その成果の一つが、今では練也も所属しているイスラ傭兵団だ。
しかし、開放派がこれまでに示してきた成果というのは微々たるものであった。と言うのも、結局亜人にもヒトにもできることをあえて全てヒトが受け持つ、というところに収まってしまったために、改革のための布石にはなれど決めの一手にはなりきれなかったからだ。
そんな折に現れたのが広瀬練也の、腕相撲伝説である。ギルド五指の怪力で知られるガウス・ゴールド相手に、ヒトである広瀬練也が圧勝した。多少どころでは無い脚色は混じっているが、実際の事実でさえ宣伝効果としては充分な威力を内包している。
つまり、ヤンセンは広瀬練也のその伝説を知らしめる事によって、練也を旗印に決めの一手と成そうと考えているのだ。
そのためのアプローチも兼ねて、ヤンセンは練也に肩入れしている。無論、一目惚れによるところが七割以上を占めているが。
と、ここまで内輪の事情を語ったが、しかし現状が変わるわけでは無い。
話を最初に戻すと、つまり少なくともヤンセンの配下にいるヒトの人員は、全員何かしらの職務があり、簡単には抜けられない状態にある、と言う事だ。
「むぅ……」
困った。いや、非常に困った。
アレをコウしてコレすれば上手くいくか……いやダメだ、が頭の中で延々と繰り返される。
ええい、この際いっそマギアかニクスを寄越すか? それなら、なかなか悪くないのではないか? むしろ良いのではないか? いや、良いに決まっておる!!
何度も同じ事を繰り返した結果やけくそになったヤンセンの頭が、とうとう暴挙に出てしまった。しかも、暴挙に出た頭と言うのは質が悪い事に、往々にして自分がとち狂っていると言う事実に気付けない。
あえて、ここでフォローを入れるとするならば、それをする事により異種族混合組織の先駆けとして開放派の目標の体現を示せる、と言うところがあるが、勿論ヤンセンは気付いていない。
なお悪い事に、何の段取りもしていない唐突な決定と実行は、周囲にとって迷惑以外の何物でも無いと言う事にも気付けていない。
色々な事に気付かないまま、ヤンセンは光明を得たと思い込んで、その後の業務と、練也への部下の手配を暴走の勢いに任せてやっつけていってしまった。
やっつけてしまったのである。
とっちらかった頭で出した答えほど、当てにならないものも無い。
つまり、側近の部下が必要なのは練也だけで無くヤンセンも同じく、と言う事だ。
くわばら、くわばら。
Another View...end...
後日、すこぶる不機嫌なマギアが練也の仕事部屋にドカドカとやってきた。
「!? な、え、どうしたんだ? こんな所に?」
マギアの長い黒髪が、まるでメデューサの髪のように逆立っているように見えてしまうほどだ。
「……ん」
全身から吹き出るオーラとは裏腹に、マギア本人は癇癪を内側に抑え込んだ様子で、一枚の書類を練也のデスクに置いた。
無愛想さが怖い、練也は情けないながらもそう思ってしまった。
書類に手をとっ……誤り、書類を手に取って目を通す。
Personnel notice(人事通達)
Maguire Laurent.(マギア・ローラン。)
Isrra mercenary team headquarters group, order the change to the military leadership group.(イスラ傭兵団本部班、練兵指導部への異動を命ずる)
組織図を理解していないから、色々と知らない部署名が出てきているが、この際さて置く。
「……つまり? 俺の……部下?」
練也の質問に、マギアはフンと鼻を鳴らすだけだ。知り合って日は浅いが、練也が知るマギアは、少なくとも否定はしっかりする方だと認識している。で、否定では無かった。
マジで?
「あぁ、今イライラしてるのは、別にこの異動についてじゃ無いよ。ちょっと、叔父さ……課長と色々あってね」
「そ、そうか……だったら、俺からはよろしく頼む、とだけ言っておくよ」
他に何か言ったら地雷になりそうなんだもん、とは思うが口にはしない。本当に地雷になりかねないから。
「一応、課長からはアタシの仕事の内容はだいたい聞いてるよ。とりあえずよろしくね」
こうして、練也の仕事の土台が着々と完成していった。ちなみに、今回の人事異動もまた“臨死教官”の渾名の要因の一つである。
“臨死教官”の降臨まで、あと僅か。