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筋肉バカ 傭兵団に入る


Another View


 

イスラ傭兵団の勤務隊舎は、実は騒祭荘から歩いて一〇分程度と結構近いところにある。


とは言え、非正規ではあるものの軍事施設なので住宅街や街の喧噪からはかなり遠のいた立地になっている。


その隊舎の前の営庭で、三十人余りの男達が木剣で斬り合っていた。剣技の錬成をしているのだ。


その中で、一際激しく切り結んでいる二人組がいた。


一人は、昨晩の練也とガウスの腕相撲を見ていた男、ニール。昨日の賭けには練也に賭けていた三割の内の一人だ。


「やっ! せっ! はぁっ!!」


矢継ぎ早に相手に打ち込むが、全てをいなされる。


「視線を動かすなニール! どこ狙ってるか丸分かりなんだよ!」


ニールの相手をしているのはベルナッド。ニールと同じく昨日の賭けの三割組の一人だ。


「来ないならこっちから行くぞ! せぁっ!!」


ベルナッドが剣を片手に持ち替えてニールに襲いかかる。


「せっ! はっ! そりゃ! やっ!」


視線は八方目を保ったまま、最短距離でニールの隙を的確に責め立てる。しかし、ニールも元々の動体視力と反射神経を武器に全ての攻撃を弾いて凌ぐ。


「まだまだぁ!!」


すると、ベルナッドが攻撃の回転数を上げてきた。目で見切れないわけでは無いが、身体が徐々に追い付かなくなり始める。


「おらどうしたぁ! 動き鈍ってるぞ!!」


ニールの動きが鈍りだしたと見るや、ベルナッドは更に攻撃の速度を増した。


「くっ! ふっ! づぁっ!」


それでも、ニールはまだ辛うじて耐え凌いでいる。


実はこの二人、イスラ傭兵団総勢六五名の中でも実力は一位、二位を常に争っている。団内でのあだ名は、連撃のニールと、剣圧のベルナッド。お互いの剣撃の特徴を指したものだ。


そして、ニールには転生の身体能力が、ベルナッドには長年積み上げてきた経験と技術がそれぞれある。


二人とも、ヒトの剣士としてはかなり以上のやり手なのだ。


そして、木剣が出しているとは到底思えない激しい剣撃が、まだ続く。


形勢はベルナッドの一方的な攻めに、ニールが必死に喰らい付いて凌ぎ続けていると言うワンサイドゲーム。


「ふっ! 留めだっ!」


ベルナッドが、僅かに下がり間合いを空けた。


「そこぉ!!」


ベルナッドの渾身の一撃が飛んでくると見るや、そこに隙を見い出したニール。


果たして、次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。


「……う゛っ」

 

「っ……ぉげぇ」


ニールは脳天に、ベルナッドは横腹に、それぞれ木剣を叩き込まれていた。


二人が、一位、二位を争う所以である。


二人同時に膝から崩れ、死体の如く地べたに大の字になって転がった。


「ニール……うっ……お前、いつになく気合い入ってるな……ぉえっ」


いち早く回復したベルナッドが、軽く嘔吐きながら言った。


「いっでぇ……昨日のアレを見たら、アツくなっちゃってね。ベルナッドこそ平静なフリして熱入ってたんじゃ、ないの……あぁいでぇ……」


ニールも、痛みを直接口で訴えながらそう返す。

 

この二人の他にも数人、いつになく鍛錬に励む剣士達がいた。

彼等は全員、三割組の一員だ。


ニール達を含めて全員、昨晩の練也のあの勝負に感じる物があったのだ。それは、まだやれると言う勇気だったり、更に高みへと言う向上心であったりと様々である。しかし全員に共通しているのは、ヒトだからと言って必ずしも亜人に必敗すると言うわけじゃ無いのだと言う、ある種の感動だ。


この世界において、ヒトにできない事が亜人にできるのは至って普通の事とされている。そして、亜人にできない事はヒトには絶対にできないとされている。実際、大概の事はその通りなので、これについても当たり前の事だと、両者に受け入れられている認識だ。

 

しかし、その果てに厄介な考えが産まれてしまっていた。

 

曰く、何事においてもヒトは亜人に勝てない。


いつから語られ始めたのか分からないほどに、その言葉は全体に深く浸透し濃く染み付いていた。


そう、昨日までは。


昨晩のあの光景は、彼等ヒトにとっては英雄の逆転劇を目の前で見せ付けられているのと同じぐらいの衝撃と興奮だった。


そして、それを成したのはよその世界から引っ張り込まれてきたヒトの“漂流者”。


練也の登場は、彼等にとってこの世界の常識に縛られない、新しいヒトの可能性の顕現に他ならないのだ。


だからこそ、自分もああなりたいと心のどこかが叫び、今日の熱の入りように繋がっているのだ。


いつの時代の、どんな場所でも、ヒーローのようになりたいという願望は変わらずあるのだ。


そして、憧れられている本人には自身がヒーローだという自覚すら無いのも、これまた変わらない事である。


 

    Another View...end...


 

「……ほぅ」


練也は、イスラ傭兵団の勤務隊舎、その団長室の窓から営庭の光景を、新兵教官の心情で眺めていた。


「レンヤ殿の目から見て、彼等の練度はどのように見えるか?」


練也の背後からそう問いかけるのは、ギルド法衛課課長であるヤンセンだ。その隣に控えているのは、イスラ傭兵団の現団長であるザクセン。


「……この世界の剣術については何も知らないので、それについては言及しません。が、なかなか戦意旺盛な人材が揃っているようですね」


少し間を置いて、練也は感想を述べ始めた。

  

「特に、真ん中で切り結んでいた二人、あの今大の字になってへばっている彼等。彼等は特に目を見張るものがある」


練也の視線は、先ほどまで本当に殺し合っているのではないかと錯覚させる程に鬼気迫る模擬戦をしていた二名を捉えていた。


「あの二人は、ベルナッドとニール。我が傭兵団の中でも一、二の実力を誇る猛者だ。よそのヒトの剣士にも負けないし、亜人の剣士ともある程度は切り結べる」


練也が見据える二人について説明してきたのはザクセンだ。


「確かに、相当な手練れと見えます。他にあと二人ほど、なかなか良い動きと気迫を放つ団員がいるようだ……て言うか、あの四人は騒祭荘で見たな」


「確かに、我が団員の内四名はヒロセ殿と同じ騒祭荘に住んでいる」


「通りで知っている気がしたわけです」


評価から話がずれて、他愛ない世間話になってしまった。しかし、広瀬練也という男は、バカではあるが愚か者では無い。


故に、質問にはしっかりと返答する。


「さて、質問された練度についてですが。単刀直入に言って、まだまだですね。全然まだまだ、伸び代がある。そして、それを遊ばせている。勿体ない事この上無い」


例え上の立場の人間が相手であろうと、だからこそ心証悪化を恐れずに率直な感想を述べなければならない。それが、回り回って組織のためになるのだ。


「まだまだ、とは例えば何の事であろうか?」


ヤンセンは、意外だと言いたげな面持ちで問うた。


「全員、基礎体力に大きな幅がある。これは、集団行動の際にもろに影響が出てきます。次に、全員体幹が通っていない。切り込む時や立ち回りの際に、身体が無駄に揺れまくっている。これは、手練れの敵からしたら恰好の的にもなるし、何より本人にとって無駄な体力消費の原因になってしまう。それに、見たところ全員兵士と言う割に身体が細い。結言。私の率直な感想は、集団としての練度以前の問題である、と言わざるを得ません」


言い切った。バッサリと言い切った。

言い切ってから練也は、あ、ヤバイ言い過ぎたかも、と内心で冷や汗を垂れ流し始めた。


ゆっくりと、ヤンセンとザクセンが立つ方向に視線を移す。


そこには、怒髪天を突く勢いで顔を真っ赤にした二人___では無く、呆気にとられて口をポカンと開けっ放しにしている二人が立っていた。


二人の予想外の表情に、練也もつられてポカンと口を開けっ放しにしてしまった。


「あぁ、いや失礼しました。とりあえず、私の所感は以上です」


「そ、そうか。うむ、あい分かった、つまり練度以前の問題だと言う事なのだな、うむ」


ヤンセンは、まさか練也からああまでケチョンケチョンに言われるとは思っていなかったため、予想外の口撃に動揺が隠せなくなっていた。

ちなみに、沈黙を維持しているが、ザクセンも似たような状態である。


ここに、新人にボロクソに言われてたじろぐ幹部二人の図が完成した___と頭の中でナレーションを流す。


いや、ふざけてる場合じゃねぇだろ俺。


練也は自身をそう叱責して、気を取り直した。


そもそも、何故練也はここにいて、ヤンセンやザクセンに意見を述べなければならないのか。


事の発端は、今から少し時を遡る事になる___

 


日の出を知らせる鐘の音で、騒祭荘を始めファルナスの朝は始まる。練也に限っては、鐘が鳴る前から目が覚めていたが、元々こっちで生活している人々にとってはそれが普通らしい。


一階の食堂、つまり昨晩お祭り騒ぎだった場所で簡単な朝食を取り、部屋に戻って身支度を済ませ、騒祭荘を出る頃には、朝の鐘が鳴ってから約一時間ほどが経過していた。


イスラ傭兵団勤務隊舎が、練也が今後こっちの世界で仕事をする職場になるらしく、練也は教えられた道を歩いていた。


約一時間と五分が経過した辺りである。


宿を出てから少し経ったくらいで聞こえていた、馬の蹄鉄が地面を踏みしめる音がいよいよ練也の背後に迫っていたところだった。


「おぉ、これはレンヤ殿ではないか。今朝も良い天気だな」


馬の上からそう声をかけてきたのは事の発端一号、ヤンセン。ヤンセン・ローランだ。苗字で分かる通りマギアとは親戚で、叔父と姪の関係である。


「お早うございます、ヤンセン様。ええ、本日は太陽の機嫌もよろしいようですね」


「ほぅ、意外と詩的な言い回しだな。それと様付けはよせ。何だかむず痒くなってしまう」


二人が穏やかな朝の挨拶を交わしていると、


「ヤンセン殿。こちらが例の“漂流者”様ですか?」


ヤンセンの後ろで控えていた屈強な男が訪ねた。発端二号である。


「おぉ、お互いに初対面であったな。そうだ、こちらが“漂流者”のヒロセ殿だ。元の世界では腕の立つ軍人だったと聞いている」

 

嘘こけ! 自画自賛した記憶はねぇぞ!


「レンヤ殿、この者はザクセン。イスラ傭兵団の現団長を務めておる。なかなかの猛者だ」


お互いにヤンセンからの紹介を受けて、初めましてと握手を交わす。


この時お互いに、コイツやり手だ、と暗黙の内に称え合った。


特に武術や格闘技をしている者に顕著なのだが、手が分厚く、固いのだ。それは、手の筋肉が発達し肥大化しているのと、物を握り続けて出来た強靱な皮膚が成している技だ。

 

どちらも、長い鍛錬の末に通過する洗礼である。


「時にレンヤ殿。昨晩はあのガウス・ゴールドに腕相撲で圧勝したと聞いたが?」


「っ!?」


ヤンセンの言葉に、練也は吹き出しそうになるのをどうにか堪えた。


眼前に人がいる手前、そんな粗相は何があってもできない。


「それは、どこ……いえ、ニクスですか?」


「うむ、そうだ。彼からはそう聞いておるぞ。涼しい顔をしてわざと圧されたり押し返したりとガウスを弄んだと聞かされているが?」


「なっ!? あのガウスをか!?」


練也が訂正を入れようとする前に、ザクセンが話に喰いついてきた。


「うむ、何でも滝の如く汗を流し顔を真っ赤に染め上げているザクセン相手に“ほら、もっと本気を出してみろ”と挑発までしたらしい。何とも不敵な男よ」


「なっ、何と……」


嘘っぱちの中に微妙に本当の事を混ぜているから、ニクスもなかなか質の悪い事をする。


成る程、騙すなら嘘と真実を適度に混ぜろとはこう言う事らしい。つまり、話題にされている本人が嘘を是正させるのをややこしくさせるように、適度に本当の事を混ぜるのだ。


「それは本当なのか!? “漂流者”殿、いやレンヤ殿!?」


救世主に縋るような切実さを孕んだザクセンの態度に、練也は


「あぁ、いや……まぁ……」


と曖昧にしか答える事ができなかった。

ザクセンの羨望と期待の眼差しに、いや嘘です、と言い切れるほど練也は冷たくなれなかったのだ。


「まぁ、そう言う次第でヒロセ殿にはイスラ傭兵団の練兵指導官をして貰おうと考えているのだが、ザクセンよ。異論無いか?」


「あるはずもございません! 是非に!!」


「……えぇ……うそぉん」

 


___と言う次第である。


ニクスめ、ふん縛って苛烈なる折檻を見舞ってやる、と内心で猛る憤りを滾らせるが、それを表には出さないように注意する練也。

 

しかし、完全に隠す事はできずに、僅かに表情に漏れてしまっている。


それは、練也の後ろにいる二人には、悪鬼の如き凄惨な笑みに見えてしまっていた。

 


ヤ、ヤンセン殿! 団員に死者が出ることは無いですよね!?


お、恐らくそこまでは無いだろう。多分、きっと、無いと思われる……ぞ?


いくら練兵指導官としての職責にたぎっているとは言え、加減を知っている人物じゃないと問題が発生しかねませんぞ!


いや、大丈夫だろう、多分、きっと、恐らくは……な?

 


練也の後ろで、必死で水面下のやりとりを行う二人。練也の性格を完全に誤解されているが、しかし本人はそれを知らない。


そして、何も知らず気付いていない練也は、その表情のまま二人に向き直ってこう言ってしまった。


「さて、私の仕事の件ですが……多少手荒にしても構いませんね?」


某幼女も口にしていたが、こう言う軍事組織において“多少手荒”と言う言葉は、正確には死なない程度に過激、と言う意味である。


無論、二人とてその事は知っている。


知っているからこそ、二人揃って黙って赤べこの如く首肯する事しかできなかった。


ちなみに、この瞬間が練也のセカンドライフにおいて一生付いて回った渾名、“臨死教官”が生まれるきっかけである。



さて、場所は営庭に移る。


時刻は不明だが、昼食休憩を終えた午後課業開始の時間だ。


広瀬練也は、勤務隊舎の正面玄関にある朝礼台の上で立っていた。その隣には、何故か引きつった表情のザクセン団長。


ザクセンが、レンヤの前に出て大きく息を吸った。


「よく聞け! 本日付で、誉れある我等がイスラ傭兵団に“漂流者”が入団した! 名前はヒロセ・レンヤと言う。担当して貰う役職は、練兵指導官である! 今後の鍛錬は更に厳しくなるだろうが、耐えた暁には貴様等全員、今以上に大きく躍進していると確約しておく! ……では、ヒロセ殿。挨拶を」


大分期待されてるな、と分不相応な評価に内心でたじろぐが、態度には出さない。


まぁ、舐められないよう不敵な表情ぐらい作っておくか、と考えて前に出ると同時に、眼下に並ぶ六〇数名が揃って息を呑んだ。


またしても、悪鬼の笑みを振る舞っているのだ。しかし、やはり本人にその自覚は無い。


「ザクセン団長より紹介された、広瀬練也だ! 本日付で、練兵指導官として本傭兵団に入団した! 死なせはしないが、臨死体験はさせてやるつもりでいるから、覚悟しておけ! 耐えた暁には、亜人の戦士に負けないくらいに強くなっている事を約束してやる! 以上!」


この手の挨拶は、少し威圧的かつ威勢を良くした方が、相手側も気を引き締め、今後の練兵教育中の事故を未然に防ぐ。恐怖政治はろくな物ではないが、しかし恐怖自体はバカやハサミと同じく使い方次第で薬にもなるのだ。


“臨死教官”の一歩が踏み出された瞬間である。


が、しかし。


真っ先にレンヤにあてがわれたのは、現場でも部下でもなく、指導官室と銘打たれた仕事部屋だった。


十畳程度の部屋には、デスクと椅子、そして接待用の小振りなソファとテーブルがあつらえられている。


団長曰く、本格的な教練は来週からで、それまでの間にこの世界の戦術、戦略、各種武器取り扱い、隊の基本運用、各団員の掌握、本傭兵団の規則を全て漏れ無く頭に入れておいてくれ、との事だった。


来週とは言えど、今日の時点で前の世界で言う水曜日だ。


「……無茶だろ」


土曜、日曜までをも費やしたらあるいは可能だろう。


しかし、練也の戦意をゴリゴリと削り落としていくのは何も時間の少なさが原因ではない。


眼前に積み上げられた、紙の山、山、山。


しかも、読もうと思えば全部英語だと言う、いじめと言って差し支えない仕打ちだ。


しかし、これも仕事。しかも、自身は傭兵、でつまり組織人だ。上にやれと言われれば、何があろうとやるしか無いのだ。


「あぁ、脳ミソの筋肉が疼く」


練也は、これより激戦区に赴く脳ミソを筋肉だと思い込む事にした。そうすれば、幾分気持ちは楽になる。


端から見れば、阿呆の発言だが。


手始めに、一番手前にそびえ立つ山の、頂上に手を着けた。


どうやら、人事書類らしい。

良かった、書式が統一されているであろう書類から手を着けられるとは、運が良い。


実際、それは読みやすいようにまとめられていた。


斜め読みで流すわけには行かないが、それでも読みやすいのは良い事だ。意欲減退が促進されずにすむ。

 


と、思っていた時期が、広瀬練也にもありました。


意欲減退? そんな物とっくの昔に昇華しました。サボタージュ希望に変わり果てています。



「う゛う゛~……読みたくねぇ……」


眼前にあった高さ八〇センチメートルはあったであろう紙の山は、ようやく片付ける事ができた。書類の種類で言うなら、人事書類一式と、イスラ傭兵団における各種規律関係の書類の二種類だ。


しかし、窓の外を見てみると、月が空の真ん中まで昇っているではないか。

 

こうまで練也を苦しめていたのは、やはり英語による文面だった。確かに、練也は英語と仏語の翻訳と通訳はこなせる。正確にはこなせていた。


しかし、人間という生き物はやらなくなったら徐々に忘れてしまうもので、忘れかけている単語や慣用句がちらほらと出てきたのだ。


現地語を英語に翻訳するところまでは、ニクスの術のおかげで全自動で済まされている。しかし、英語に翻訳された文章をさらに日本語に変換するのは練也自身なのだ。


そして、辞書も無いのに記憶の中から薄れた英単語やら慣用句やらを、自力でどうにか引き上げる事の苦痛と困難は、あまりにも筆舌に尽くしがたい。


しかし、やらねばならぬの義務感で、どうにか一つの山を片付けた頃には、練也に意欲など一滴たりとも残っていなかった。


灰だ。真っ白な灰になるのである。


「もうやらん、やらんぞぉ……」


そう言いながら、デスクの上にできた空白地にだらしなく上半身を横たえる。


予想以上の憔悴に、練也の意識はゆっくりと遠のいていった。



___それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。


沼から引きずり出されるように、練也は自分の意識が少しずつ現実に呼び戻されていくのを、どこか他人事のように感じていた。どうやら、身体を揺すられているらしい。


「___! __ヤ! 起きなレンヤ! レンヤ!!!」


「っ!?」


耳元で大声を出されて、レンヤは反射だけで、声の襟を主を掴んで、自身の身体と入れ替えながら相手をデスクに押し倒した。


ようやく意識がハッキリした練也は、そしてピントが合った視界に映った光景に肝を冷やした。


そこには、動揺と警戒心と若干の敵愾心及び怒気が入り交じった瞳と表情で練也を睨むマギアが、窓から差し込む月明かりに照らされていた。


デスクに広がった黒く長い髪が扇情的だ。


「げっ!? すまん!!」


正気になって慌てて手を離すと、彼女は何でも無いように立ち上がって、服を軽くはたいた。


「まったく、げっ!? じゃ無いよ。ビックリするじゃないか」


「本当にすまない!」


無意識とは言え、暴力を、しかも女で、なおかつ知っている相手に振るってしまったその事に、練也は深い罪悪感を覚えていた。一人にしたら自殺しかねない勢いだ。

練也の中で、この愚行はそのレベルで許されざる行為なのだ。


背筋を水平になるまで倒して、謝罪の最敬礼の姿勢で止まる。


「あぁもう、ほら! 頭上げな! アタシは気にしてないから! アンタ相手に濡れる事も無いから!」


「いや、本当に……申し訳ない」


練也はどうにか頭を上げて、その言葉を絞り出した。


いやしかし、マギアと言う女はなかなかどうして勝ち気で豪胆な性格をしているようだ。


普通、婦女が男に押し倒されたら怯えるはずだが、彼女に関しては少なくとも表面上はそんな素振りを見せていない。


「レンヤが戻ってこないから、アタシとニクスで捜してたんだよ。もぉ、仕事場で寝てるとか、このバカチン。通りでニクスが追いかけられなかったわけだよ」


それどころか、逆に心配すらされていた始末。自身の情け無さが身にしみる。


「どうも、張り切りすぎて根を詰めすぎていたみたいだ。迷惑をかけた。すまん、そんで、ありがとう」


「うん、よし。じゃあ、帰ろう」


マギアに連れられて、二人は勤務隊舎を後にした。


「それにしても意外だね。レンヤは仕事の見切りはキッチリする方だと想ってたんだけどね」


帰り道を歩きながら、マギアがそんな事を言ってきた。


「そこはよく誤解されるな。どちらかと言えば、集中したら周りが見えなくなる方なんだが、どうも真逆の性格だと見られている」


そう、広瀬練也は集中が深い方なのだ。だからこそ、今の鍛え上げられた強靱な肉体があるわけだ。つまり、極度のハマり性とストイックさが同居している、ちょっと面倒臭い奴と言う事だ。


「前いた世界なら、今日はこの時間までって感じに期限を切って仕事をしてたからこう言う事はあまり無かったが……抜かった」


「じゃあ何か考えなくちゃいけないね。アタシやニクスも、毎度毎度付き合えるとは限らないわけだし」


「そうだよなぁ……」


そこで、二人の会話が途切れた。


沈黙の時間がゆっくりと流れる中、二人は時間の流れよりも少しだけ早く道を歩む。


道の先に騒祭荘が見えてきた頃、ニクスもようやく合流した。


「おぉ、レンヤ見つかったんかいな! 良かったわ、ほんまに。ったく、このアンポンタン!」


ニクスにも叱られてしまった。


逆に捉えれば、少なくともこの二人については自分を叱ってくれるほどには仲間だと思って心配してくれている、と言う事でもある。

有り難い事だ。


早いとこどうにかしよう、練也は心に誓って、目の前に迫っていた騒祭荘の玄関をくぐった。


散々ではあったが、練也のセカンドライフの一日目は、こうして終わりを迎えたのだった。



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