筋肉バカ ギルドに入る 下
ファルナスという街は、自由交易都市と名乗るだけあって、宿が非常に多い。恐らく、江戸時代で言うところの宿場町的な側面もあるのだろう。
そして、練也には街に出て気付いた事がもう一つあった。
それは___
話している言葉が分かっても、書いてある文字は何一つ分からん!!
恐らく飲み屋だろう。呼び込みをしている娘がいて、その娘が何を言っているのかはしっかりと理解できる。何せ、練也の耳には日本語に聞こえるのだから。だが、彼女が手に持っているボードはどうだろうか? あれにも、恐らく娘が言っているのとさほど変わらない事が書いてあるに違いない。
聞こえる範囲で予想するならば、火酒二割引、本日のお勧めはボルドー牛ステーキ、等と書いてあるのだろう。ボルドー牛が何かは知らないが、恐らくこの世界の肉牛の種類だろう。
いや、今はそんな事はどうでも良いのだ。
兎に角、何が書いてあるのかが読めない。未だかつて、このような恐怖を味わった事が無かったために、練也は少しどころでは無くテンパっていた。
成る程、識字率が低い地域でろくでも無い事が横行してしまう理由が、今ならよく分かる。結局、事の真偽を確かめる術が無いのだ。故に相手が口にした事しか判断材料が無く、騙されてしまう。通りで、発展途上国で薬品による健康被害が出てくるわけだ。
思案に耽るのを止めるために、散策がてらに街を歩いてみる事にした練也だが、返ってよろしくない方向に突っ走ってしまったようだ。
そして、どこの世界でもそうだと思うが、悪い事というのは総じて続け様にやってくる。
練也の場合、自身の状況についてだった。
思う事は___
不味い、何の気無しに歩き回っていたせいで自分がどこにいるのか分からない! あ! そもそも金が無い! 今晩の宿すら決まってなかった! ええい畜生クソッタレ! アンポンタンのコンコンチキめ! 死ね! 首吊って死ね! ぬっ殺すぞリア充!
一度正気のたかが外れた頭の中等、所詮こんな物だ。練也の頭の中に、混乱と罵詈雑言の台風が吹き荒れる。
流石に道のど真ん中で考え込む事はせずに、近くの宿らしき建物の脇まで移動して、改めてどうした物かと考える。
まず、何よりも深刻な問題は金が無い事だ。これは、どこの世界でも共通の致命的危機だと言える。
次に困った事は、現在位置が不明だと言う事。土地勘皆無の地域で、地図を読まず、地図を持たず、徒然なるままに歩けば、迷って当たり前ですありがとうございました!! と言う具合に落ち着く。
そして最後に、現地語の理解度不足。相手が何を言っているか分かって、こちらの言葉も何故か通じているが、しかし字が読めない。つまり、口頭でしか意思疎通ができないのだ。この恐ろしさの具体例は前述に示したので、詳細は割愛する。
不味いぞ、ネガティブが三つ揃った。狙撃手なら仕事を放り出しちまう状況だぞ、これ。
そう考えるが、さて、しかし練也には放り出す仕事も、逃げる場所も無い。
「……頼れるのは筋肉だけか」
大胸筋をピクピクと動かしながら、練也は悲壮感を滲ませながら呟いた。
空と街は、いつの間にか夜の様相に姿を変えていた。
「……はぁ」
幸と一緒に魂まで抜けてしまいそうな見事な溜息を吐いた時だった。
「おぉ、“漂流者”殿やないか! こないな妙な所で何しとんや?」
少し離れた正面に、ニクスが立っていた。
その表情は、意地悪そうにニヤニヤしている。
コイツ性格悪い。
練也は、赤面を堪えつつ内心で苦虫を潰したような気持ちで溢れていた。
「まぁ、大方迷子やろ。ちゃうか?」
図星を突かれて、不意に呼吸が詰まる。
練也のなけなしのプライドが、口で答える事を良しとせず、じりじりとぎこちない首肯でどうにか返事と成した。
「……な、何で……こんな場所に?」
内心でせめぎ合う諸々の感情のせいで、言葉が上手く出せない。
「あぁ、うん。探しとったんよ、単純にな」
しかし、ニクスはそんな練也の様子を全力で無視して、あっけらかんと答えた。
捜していた? 俺を? 何で……じゃなくて、どうやって?
「とりあえず、見つかって良かったわ。んじゃま、行く場所あるでワシに付いて来てくれ」
顔がクエスチョンマークになりかけている練也の心情など露知らず、ニクスはガキ大将の如く強引に練也を連れ出した。
歩く最中、練也は、認めたくは無いがニクスが来てくれたことによって安心している部分がある事を自覚していた。どんな環境であれ、孤立状態よりも顔見知りでも良いから誰かが側にいた方が、精神的に楽になる物だ。
そして、心に余裕が出てきたところで、練也は周りの様子を見て思わず吹き出しそうになってしまった。
酔った顔で歩き回る男共。妖艶な化粧と、ポロリしてしまいそうなくらいに着崩したドレスを纏った、女、女、女___
色町じゃねぇか!
練也は内心で、様々な感情が煮詰まった声で叫んだ。
「いやぁ、ワシもなんべんかここの女買ったけど、まさか“漂流者”さんが真っ先にここ行くとは思わへんかったで」
心を読んだかのように、絶妙なタイミングでニクスが切り出してきた。その声と言い、表情と言い、からかうようににやついている。
実際からかわれているのだろう。
親に叱られた子供のような、妙な居心地の悪さを感じながら歩き続けていくと、娼館は言わずもがなそこらの宿屋よりも質素な外観の建物に辿り着いた。
「ここが、今日の、もしかしたら長い間世話になるかも知れへん宿や」
宿と言うより兵舎と呼んだ方がしっくりくるな、と練也は思った。質素な外観と先に示した通り、本当に資格の箱に三角の屋根をくっつけただけの、飾りっ気の無い作りなのだ。
建物全体を見てみると、そこでようやく練也はどこに兵舎の面影を見たのかを理解した。
正面から見える窓だけでも、カーテンの位置、雨戸の位置等が全て一緒になるように統制されているのだ。そして、窓枠の飾りっ気の無さがその雰囲気に拍車をかけている。
「見てくれはこんなやけど、中はそこら辺の宿よりはしっかりしとるで」
今回ばかりは練也の内心を読み切れずに、ニクスが微妙にずれた言葉をかけてきた。
「……あまり期待しない事にしよう」
その言葉と共に、二人は建物の中に入った。
扉をくぐるとそこには異世界だった。
建物の中にいる人々の服装や、そもそもの人種が、余りにも現実味が無いのだ。例えて言うなら、某一人称視点RPGの世界に入り込んでしまったかのような、非現実感。
部屋の明かりは、電気では無く蝋燭。調度品の素材は木製だが、練也が知るそれよりも木材の加工が雑だ。しかし、その中で過ごしている人々は、練也が元いた世界のそれよりも明朗快活、愉快にして豪胆、と言った雰囲気だ。
「あぁ、ジョッキも木製なのか」
練也が最も違和感を感じていた理由が、それだった。気付いてしまえば、通りで現実味が無いわけだ。
練也が呆気にとられていると
「あぁ、ニクス! と“漂流者”さん! やっと戻ってきたのかい。もう始まってるよ」
と、ジョッキを片手に掴んだ長い黒髪の女が駆け寄ってきた。どうやら飲んでいるらしく、先の記憶と比べて声が幾分明るい。頬も少し赤く染まっており、何だか幼く見える。ついでに何だか尻尾も見える。
「……!? しっぽぉ!?」
部屋中をよく見てみれば、老若男女問わず尻尾が出ている者がちらほらと見える。
「おい、マギー。尻尾しまえ。“漂流者”さんがビックリしてもうとるやないか」
マギアが、えっ、あらやだと言いながら尻尾の付け根あたりをはたくと、尻尾が縮んでいき見えなくなった。
「あぁ、マギーだけやのうて、獣の呪い受けた亜人は皆何かしら生えてたり付いてたりすんねん。あんま気にせんといたってくれ」
「そう、なのか……」
ニクスの説明に、練也は上の空で答えていた。
「“漂流者”さんがここに来たって事は、ギルドに入るんだろ? アタシはさっきも名乗ったけど、改めて。マギアだよ、マギア・ローラン。操龍士をやってる……も言ってたね。よろしく」
屈託の無い笑顔と共に差し出される手。わずかに空いた口の隙間から見える八重歯と、吸血鬼のような尖った爪。そして、さっき見えた尻尾。
本当にここは、俺の現実が通用しねぇな。
もはや諦観にも似た心境で苦笑いが漏れる。
「ギルドに入るかどうかは別だが、今日の一晩は世話になる。俺は___」
「待て待て待て、アカンアカンアカン。“漂流者”さん、ここで名乗るんはあかん」
マギアに名乗り返そうとしたところで、ニクスに割り込まれた。
「皆の前で堂々と名乗ってもらわな……ほれ、おあつらえ向きに、あんな所に雑なステージができあがっとるやないか!」
ニクスが目線で示した先には、確かに雑な感じのステージが設けられていた。
そこら辺にあるのと同じテーブルを二つ繋げて、その上にまるで積み木のように椅子を積み上げている。
「この酔っ払い共め」
堪えきれず、苦笑と共に悪態を吐く。
少なくとも今すぐに元の世界に帰る事はできまい。ならば、どれほどになるかは分からんが、コッチ側の世界で楽しくやるのも、悪くは無いのかも知れないな。
練也は、自分の中でそう整理を付けると、仕方ねぇなぁ、と言わんばかりのやぶさかでも無い態度で、雑なステージに上った。
椅子がぐらつき、まともに立つのも難しいが、そんな練也の様子すら眼下にいる楽しい酔っぱらい達には面白く映るらしい。景気の良い笑い声が響いてくる。
「おっと……よっ、ほっ! うし、立てたな」
姿勢ができたところで、練也は部屋中を見渡した。ざっと見ただけで、二十人前後はいるように見える。好奇心に光る目が、練也をじっと見つめて離さない。
「あぁ……固い挨拶と、ふざけた挨拶、どっちが良いですかね?」
「こないな空気の中で固い挨拶しよったら、その椅子めっちゃ揺らしまくるでぇ!」
練也のボケた一言目に、ニクスがすかさずツッコミを入れる。吉本も震え上がるようなつまらないネタも、この場ではそれ以上に大受けする。
「りょーかい。じゃあ、ふざけるが……よぉし! お前等! 飲んでるかぁ!?」
練也は、初見の人が見たら別人じゃないかと思われるほどに態度と雰囲気と声音を変えて、叫んだ。何も持っていない右手を、高々と掲げる。
「兄ちゃん、何も持ってねぇじゃねぇか!! 様になってねぇぞ!!」
「違ぇねぇ!!」
「ほら、安い火酒だがたっぷりだ! コイツ取りな!」
練也の渾身のネタ、空の右手挙げに、部屋中が沸く。普段は飲み会で皆がベロベロになった時にしか受けないが、ここではすんなりと受けた。
しかも、ジョッキまで用意してもらった。
「あ、どうもどうも。じゃあ、改めて! お前等、飲んでるかぁ!?」
ジョッキを、高々と掲げて、再び叫ぶ。
返ってきたのは
『呑まれてるぅ!!!』
愉快極まりない酔っ払いの明るく楽しい言葉。
「そうか! 俺も名乗ったら、一緒に呑まれたい! 名乗って良いかぁ!?」
『名乗れぇ! 呑まれろぉ!!』
打てば響いてくる場の空気。
練也の調子も上がってきた。
「よぅし、ならば! 俺は練也! 広瀬練也だ! よその世界からはるばるこっちに来ちまった、愉快痛烈な男だぁ!!!」
まるで、人気バンドのライブのように盛り上がる宿の中。練也は自らの名を、叫んだ。
『よっ、“漂流者”!! いよっ、レンヤ殿!!』
練也を見上げる好奇心達は、練也が何を言っても合いの手を打ってくる。
「俺が得意なのは、ステゴロと筋トレだ! 腕相撲にも自信はある!!」
レンヤはそう叫ぶやいなや、おもむろに上着を脱ぎ捨て上半身を晒した! まだ一口も飲んでいないぞ!
群衆の前に晒される、レンヤの筋肉。
その体型、正に逆三角形。発達した、三角筋、上腕二頭筋及び三頭筋。分厚く男らしい、大胸筋に、板チョコレートのようにくっきりと割れた腹直筋! 正面から見ても分かる広背筋は、腰まで降りてくると腹斜筋に締め上げられている!
フィジークの大会に出ても何ら恥ずかしくない、練也の上半身にまとめ上げられた筋肉祭り!
部屋中から、おぉと感嘆の声が漏れる。
「ヒトにしては、なかなか良い身体してるな、レンヤ殿。しかし、腕相撲に自信ありとは、なかなか危ない発言だぜぇ?」
部屋に響いた、その静かな声で盛り上がった空気がなりを潜めた。
「俺はガウス。ガウス・ゴールドだ。ギルドお抱えの傭兵団で仕事してる」
ガウスと名乗った男は、席を立ち腕をまくりながら練也へと近付いていく。練也も、何やらただならぬ空気を感じ取りステージを降りた。
二人が対面すると、両者の身長差がよく分かる。練也の身長は一七八センチメートル、対してガウスは、練也の頭のてっぺんがみぞおちよりもやや上にある。二メートル近くあるのだ。
「ヒトにしては鍛えられた身体をしてるが、言葉にゃ気をつけた方が良い」
頭の上からそう言われると、練也も負けじと
「勝った回数は少ねぇが、負けた覚えもほとんど無いからな。最近増えてない白星になってくれねぇかな?」
挑発で返す。
二人の視線がぶつかり、火花が散る。
場の空気は、戦々恐々から勝負の始まりを予感する歓喜に変わっていく。
どこでも、喧嘩は祭りの華と言う事らしい。
場の空気に流されるままになっていたら、練也とガウスはいつの間にか小さな丸机を挟んで向かい合っていた。
レフリーには何故かマギアが立っていた。
「二人とも、セコい事はするんじゃ無いよ。良いね?」
そう言われると、二人とも静かに頷く。
「よし、じゃあレンヤ。利き腕はどっちだい?」
「おいおい、俺には訊かねぇのかよ」
ガウスが抗議の声を上げると、
「アンタはどっちでもいけるでしょうが! こういう時は譲りな!」
マギアがそう叱り飛ばした。
「……あぁ、俺は両利きなんだが……成る程、分かった左でやろう」
マギアとガウスのやりとりが落ち着いたのを見計らって練也はそう言った。
「右の方が大事なのかい?」
マギアがそう聞くと、練也は首を横に振った。
「違う。言ったろ、俺の白星になれって……!」
練也はガウスの目を睨みつけながら、不敵に笑ってそう口にした。
「潰しても自業自得だぞ。まぁ、十全で挑んでくるあたりは尊敬するがな」
「言ってろ」
机の上で、二つの腕が向かい合った。
片や世紀末覇者もかくやの逞しい左腕。片や大きさで相手には劣るが、鋼の刀の如く鍛え上げられた、これまた力強い左腕。
「いざ尋常に……」
この時、練也と二人を除く全員がこの勝負、開始と決着がほぼ同時だろうと考えていた。調子に乗った新人に、少し手痛い洗礼を、そんな意味合いの見せしめだと思い込んでいたのだ。
「……勝負!」
その声と同時に響いたのは、周辺を囲む野次馬達のどよめきだった。
「なっ!?」
目をひん剥いて驚嘆するは、ガウス・ゴールド。一瞬でけりを付けようと全力で挑んだはずが、相手の腕は予想を外れてピクリとも動いていない。しかし、練也も額から汗が滝の如く垂れており、その様子がガウスの戦意を辛うじて繋ぎ止めていた。
「っ……ほぉら、もっと本気出せよ」
ぷるぷると震えた声で練也が挑発する。
「はっ……流石に全力の……っ半分では、潰れんな……むぅっ!!!」
ガウスも負けじと威勢を張るが、しかしこれ以上の力は出そうに出せない。何せ、本当に全力だから。
ごつい男二人の、暑苦しく漏れ出る鼻息が部屋に響く事、数分。
野次馬達は、余りにも予想外な光景か立ち直って、この勝負の勝敗について賭けを始めだした。ガウスの勝ちに七割の票が入り、残り三割が練也の勝ちに。集計された金額は、二五〇キール。ちなみに、日本円にしたら約二〇〇〇〇円くらいの価値がある。
ガウスを応援する声がまくし立てられる中、練也に賭けた数人は静かに見守っている。
「……いい加減……負けろぉ……!」
「へっ……そっちこそ、そろそろ休め、よ……っ」
拮抗する二人の腕。
圧して圧されての応酬は無く、ただ只管に均衡を保ち続けている。完全な膠着状態。
そこに、突破の一撃を投じたのはガウスだった。
「っ、ぅガァァァァアア!!!!」
獣の如き野太い叫び声と共に、全力以上の力を全身から絞り出す。
「っ!? っ……ふんっ!」
膠着を壊しに来たガウスの力に一瞬圧されるも、しかし膠着を崩すまいと練也も更に力を入れて、全身を固める。
この時、練也は内心でほくそ笑んでいた。
腕相撲は、一発で決まらなければ持久戦。
練也は自身の中でその方針を打ち出して、実行しているだけだ。そして、広瀬練也と言う男は、筋肉バカだ。そこを忘れてはいけない。
十代後半からずっと、生活時間の四割を筋肉に費やし、給料の半分を筋肉のために払い続けてきた男。時間で言えば、八年ほど、つまり約一一八六〇時間、筋肉を育て続けてきたのだ。しかも、重点的に鍛えたのはアウターマッスルでは無くインナーマッスル、つまり体幹。
鍛え上げられたそれを崩そう物なら、ヘビー級ボクサーのストレートを用意しなければならないほど。
そして、何よりも練也には余力が残っている。
相手はそれに対して、全力を長時間維持し続け、その上今では筋力と体力のリミッターを外して圧してきている。余裕が無い証拠だ。
この勝負、勝てる……!
練也の中で勝利が確信に変わった瞬間。
会場が、先の見えなくなった勝負に息を呑んだ瞬間。
決着が近いと、全員が予感した瞬間。
しかし、状況の異変に気付けたのはぶつかり合う二人だけだった。
「!?」
「っ!」
思わず顔をしかめてしまうような、嫌な破壊音が部屋に響いた。全員が、思わず目をつむってしまったほどだ。
音の発信地からは、二人のうめき声が聞こえるが、しかし全員の予想とは違って痛みに悶える声は聞こえてこない。特に、練也のそれが。
「?」
「どうなったんだぁ??」
状況を不審に感じ、数人が目を開き始めると、今度は野次馬達が目をひん剥いた。
野次馬達の中心には、互いに跪いて息を切らしている二人と、彼等の間で無残な姿になってしまった丸机が散らばっていた。
そう、散らばっていたのだ。
「えっ、あぁ……この勝負、引き分け! 引き分けだよ!」
辛うじて動揺から立ち直ったマギアが勝負の顛末を伝えた事で、ようやく二人の勝負に幕が下りた。
いや、しかし。
誰もが予想していなかった決着である。
分かり易く言おう。丸机が二人の力に耐えきれずに壊れてしまったのだ。
少し落ち着いて考えてみれば、あるいはそこに掛け金を投じた者もいただろう。
二人の腕相撲の状況は、例えるなら畳の上で横綱力士が組み合うような物だ。
先に土俵が壊れたところで、何ら不思議では無い。
掛け金が崩されきった後、ようやく渦中の二人が回復した。
「つ、次こそは……勝つ、ぞ」
「今度こそ……俺の白星に、なれ」
そう言い合って、二人はぶ厚い握手を交わす。
筋肉による友情の発生である。
二人の表情は、疲弊しつつもやりきった男のすがすがしい笑顔だった。
その瞬間、部屋中が今晩で一番湧き上がった。
飛び交う、賞賛、賞賛、賞賛の嵐。
二人の健闘と次の勝負を祝おうと、二次会の空気ができあがっていく。
「どうや? これがワシ等の宿“ソウサイ荘”や。気に入ってもらえそうかいな、レンヤ?」
祭りの空気から少し距離を置いた場所に立っていると、ニクスが近寄ってきてそう口にした。
「あぁ、気に入りそうだよ……ギルドにはこんな奴らがわんさかいるのか?」
「せやな、割と多いで。入る気なったんか?」
「あぁ。今はその気だよ」
練也の穏やかな声は、しかし周りのどんちゃん騒ぎに溶けていく。
「そう言えば、ニクスさん」
「何や、止めぇや。さんはいらんで、呼び捨てで構わんよ」
「んじゃあ、ニクス。俺は、困った事が三つあったが二つは立った今解決して、未解決の一つが残ってるんだ」
「ほう、何や?」
「俺はニクス達が喋ってる言葉は分かるし、俺が言っている事も通じている。口での意思疎通はできるんだが、しかし、文字が読めん。コレのかかりが悪いのか?」
練也はそう言うと、首の後ろ、“漂流者”の印を指で突いた。
「あぁ、成る程な。かかりが悪いっちゃ悪いな…………マジで?」
始めて、ニクスの声に動揺の色が混ざった。
「どうした?」
「いやぁ、ほんまか。マジか。……………えぇ、マジかぁ」
「いや、どうしたんだ、おい」
「……実はな?」
ニクスは、静かに語り出した。
ギルドに入って、鉄の檻の二つ名を戴いて以降、一度も施術に失敗した事が無かった事。対人施術に至っては、息をするようにかけて相手も息をするようにかかってきた事。
「つまり、今回レンヤにかけるのに失敗したって話で、それが滅茶苦茶ショックやって話なんやけど……あぁ、“箱船”ん中で暴れられた時点で、レンヤには術が効きにくいって事を察しとくべきやったんか。通りで、遠話も通じへんし、今も文字が読めへんわけか」
今度はニクスが、幸と一緒に魂まで抜けそうな溜息を吐く。
ニクス曰く、魔術は大きく分けて二系統あるらしい。一つは環境術。分かり易いところで、火を操ったり、風を起こしたりする術だ。FFで言うところの黒魔術に近い。
もう一つは、精神術。元は環境術の派生系統だったが、長い年月の中で一つの系統等して独立した物らしい。その特徴は、術者の消費する魔量が少なくなる代わりに、成功率が術者の力量による影響を受けにくくなる事だ。
「精神術はな、相手が油断してへんと基本的に成功せえへんのや。ワシ等みたいに上級の術者やったら無理繰りかけることもできるけど、相手がかかりにくい体質やったらそれでも失敗する事はある……みたいやな。信じた無かったけど」
ニクスの様子を見る限り、相当ショックを受けているようだ。しかし、練也にはどうしようも無い。
「あぁ、すまんな、ワシの落ち込みに付き合わせてもうて。かけ直すで、後ろ向いてくれ」
練也は、労るような気持ちでニクスの言う事を聞いた。
「んで、可能な限り気を緩めといてくれ。何なら酒入れてくれた方が有り難い。寝てくれたら最高やけど、そこまでは言わへんで」
それなら、と練也も火酒を煽った。
そう言えばようやく口にした異世界の酒の味は、安いウォッカのような雑な味がした。だが、お祭り気分にはぴったりの味。
「ほな、やるで………………」
ニクスの声が聞こえたと思ったら、首の後ろに熱がこもった。そして、僅かに痺れるような刺激が広がり、首の一点に収束していく。
しばらくして。
___できたで。聞こえるか?
頭の中にニクスの声が響いて、練也は慌てて振り返った。
そこにはボロボロの羊皮紙を手にしたニクスがいた。
「んん?」
羊皮紙には何か書かれている。
___Can you read it?(読める?)
「何で英語やねん!!」
思わず叫ぶ、関西ツッコミ。
「はぁ? エイゴ? 何やそれ? 今練也に見えとる字が練也の世界の言葉とちゃうんか?」
いや、ある意味で間違っていないが。確かに、練也の元の世界で、世界共通言語と言っても過言で無かった英語だが。
だからって、ここは日本語でくるべきでは無いだろうか。
「これ、ワシの師匠から教わったんやけどな。確か、師匠が面倒見とった“漂流者”、名前は……ちゃーるず? やったか。そいつから聞いたらしいけど。何や違うんか?」
「……いや、それはそれで読めるから良い。……俺の国の言葉じゃねぇが、我慢する」
まさか、こっちの世界で役に立たないであろう特技の内の一つが役に立つとは。芸は身を助けるとは言うが、それはどうやら本当のことらしい、と異世界に来て始めて実感した。
「まぁ、そんじゃあ最後の一つも解決したって事やな?」
「……そうだな、やや遺憾な部分はあるが、解決はしてる」
ニクスの質問に、練也は苦虫を噛み潰したような顔と声で答えた。
「こんな所に引っ込んでたのかい、レンヤ! 辛気臭い場所でチビチビやってないで、皆でパァーッと騒ぐよ! ほら!」
レンヤの微妙な心境も、突風の如く現れジャイアンの如く強引に引っ張り出したマギアによって吹き飛ばされてしまった。
今宵眠らぬ宿の名はソウサイ荘。
字を騒ぐ祭りと当てて、騒祭荘。
練也の異世界セカンドライフのマイホームである。