筋肉バカ 召喚される 上
ここはどこだ?
そんな疑問を抱く時、そこに行き着くまでの経緯はともかくとして、それを考える時の状況というものは大抵似通っている。
つまり、目を覚ましたら知らない場所にいた。
そして、容赦なく進んでいく時間の中で、現実に追いついていない脳ミソが寝ぼけたことをする。
「……ここは、どこだ?」
疑問を、そのまま口にするのだ。
その瞬間から、ようやく自分の目に映る物、肌で感じる感覚が正しく認識され始めた。
どうやらうつ伏せで倒れているらしく、少し息苦しい。
頬を押しつけていたのは、非常に丁寧に研磨された石だった。少し顔を上げると、自分が横たわっているこの部屋は床面を全て石畳で敷き詰めているようだ。
肌に感じる空気は、春の日の夜明けの如く冷たく澄んでいる。
服をまだ来ていることを確認して、周囲に視線を配る。
部屋はそれなりの広さで、四方も床と同じ質感の石材で囲まれている。部屋を照らしているのは、部屋の四隅に据えられた蝋燭だ。
フィクションで見るような、洋風または中東的な趣を感じさせられる。
そこで頭の中にある疑問が、どこだここは? から、何だここは? に変化した。
今いるこの空間が滲ませる雰囲気は、現在絶賛呆然中の人物___広瀬練也が送る生活とはあらゆる意味で縁が無さ過ぎた。
ここで一つ、簡単なプロフィールの紹介をしておく。
彼は自称まっとうな社会人である。口癖は、「〇〇筋が疼く」。特別職国家公務員を三年間、その後は大手造船会社の正社員として労働の義務を果たしている。そして、労働の傍らで筋肉を育てている。生活時間の、およそ四割を筋肉のために使っている、清く正しい会社人___誤り、筋肉バカである。
給料の半分近くを筋肉のために使い、暇があれば筋肉をいじめ、プライベートで訪れる場所に、勿論トレーニングジムは忘れられない。そんな生活を送っている彼の今までの生活に、四方八方を石材で囲まれ蝋燭を明かりにしているような空間は、一度として出てこなかった。
少なくとも、今この時までは。
そういう性分なのか、それとも前職で身についた癖なのか、今自身が置かれている状況が異常であると悟った瞬間、彼は素早く身を起こして、姿勢を低くしたまま、壁側へと駆け寄った。
息を殺し、気配を薄める。
目と耳を澄まし、見える範囲と壁の向こう側に意識を向ける。
改めて部屋の様子を確認する。
部屋の周囲は、目算で七メートル四方で囲まれている。天井までの高さは約四メートル程度と言ったところ。
床や壁、天井は全て研磨加工を施された石材で組まれている。
建築した人間がどう言うつもりだったのかは分からないが、出入りできるような扉や、窓のようなものは見当たらない。
そして、さらに不思議なのは石材同士の継ぎ目は確認できるがモルタルを使った痕跡が見つけられないことだ。
しかし、これらの疑問は今すぐ回答が見つかるとも思えないので頭の隅に置いておく。
部屋の光源は部屋の四隅に据えられた蝋燭___では無かった。
「……何だ?」
周辺の気配を探りながら、近場の蝋燭のような何かに近寄る。
そして、息を呑んだ。
蝋燭だと思っていたその明かりは、まるで鬼火のように単体でそこに浮いていたのだ。
天井を確認し、鬼火の上を何度か手で手繰るように動かしてみるが、何の感触も無く明かりが動くことも無い。
つまり、本当にそこに浮いているのだ。
何よりも不可解なのは、熱を感じないこと。
光を放つ物は、何であれ自然と熱を発する。しかし、目の前のコレにはその気配すら無い。
「……訳が分からん」
不可解な物を放置するのは若干どころでは無い気がかりだが、今はこれ以上追求のしようも無いので、放置する。
しかし、目をそらそうとした瞬間、明かりの真下に妙な傷があることに気付いた。
顔を近づけてみると、傷に見えたそれは人工的な不自然さを持つ模様だった。直径が三〇ミリほどの円と二八ミリほどの円が刻まれており、その中心には見たことの無い記号が彫り込まれている。
安直な感想で言うならば、まるで某漫画に出てくる錬成陣のようだ。
「……」
アホか俺は、と内心で呟きながら、しかしその裏でまさか、と思いこの空間の床の中央に視線を向ける。
「なっ……」
彼は、今度こそ言葉を失った。同時に、妙な汗が背中に滲む。
薄暗くてディティールはよく見えないが、そこには間違いなく何かの模様が描かれていた。
姿勢は低くしたまま、数歩にじり寄る。
床に刻まれたソレが、姿を明らかにした。
直径が一メートルほどの円と、八〇〇ミリほどの円が刻まれている。
外周の円の輪郭には、これもまた見たことの無い形の文字が刻まれておりそれらが外周を囲んでいる。
内周の円の内側は、全体的に何かを意識したとみられる直線による幾何学的な模様が描かれており、円の中心には鬼火とは別の、しかし似た系統の模様が刻まれている。
眉間にしわが寄り、顔全体が強ばるのを感じた。
目についた全ての不自然な点に対して、何一つ回答はおろか仮説すら立てられていない。
だが、彼は悟った。
今、この状況は間違いなく“異常”だ。
額や首筋に、冷え切った汗が噴き出てくる。頭の中では情報の整理がうまくいかないものの、そのくせ目線は近くに武器になりそうな物はないかと彷徨う。
耳は冴え、肌で感じる空気はヒリつく程に澄んでいた。
三秒も満たない内に、頭の中で行動方針が打ち出される。
元の正常な生活に戻るため、この空間からの脱出。それに伴う、各種活動の実施。
そうと決まれば、まず手始めに自分自身の状態の確認と掌握だ。
服装は、ここで目覚める前の最後の記憶にあった時の物で違いない。カジュアルなデザインのスーツパンツに、紺色のチェック柄のワイシャツとストライプの入った金色のネクタイ。そして、紺色のジャケットと、戦車に踏ん付けられても無事なことで有名な腕時計。
一人や、特段親しい者達と飲みに行く時の姿だ。
時計に目をやり時間を確かめようとして___
「……あぁ?」
自分の目を疑った。
きっと鏡があれば、大層けったいな表情が映ったことだろう。
何せ、時計が動いていないのだ。
故障を疑って、他のストップウォッチ機能やコンパス機能が動くかを確認する。一通りの確認を行って確信できたのは、いわゆる時計としての機能やそれに準ずる機能以外は全て正常に動くことだった。
逆に言えば現在の時刻はおろか、日時や曜日まで分からないのだ。
電波が遮られているのか、と疑ったがこの空間に用いられている素材が、見た目通りならばそれは考えにくい。地磁気が荒れている可能性もあるが、確認のしようが無いので考えるだけ無駄だ。
そもそもどうやってここに運ばれたんだ?
彼にとって何よりも不可解なのはそこだった。
ここで目覚める前の、最後にあった出来事を思い出す。
便宜的に、昨晩としよう。その時は、高校時代からずっと連んでいる親友二人と自身の三人で飲みに行った。最初は居酒屋、次はバー、最後にラーメンを食べてカラオケに明け方入り浸った。お開きになった後は、歩いて自宅まで帰り、部屋に着いたら軽く筋トレをしてノン風呂、ノン着替えのまま寝てしまった___はずである。
割り勘にしようと提案した時、
「お前が飲んだら割に合わなさすぎる」
と怒られたのが記憶に新しい。
それはともかくとして、つまり最後の記憶は自室で終わっているのだ。
そこから考えられる予想は、自分は誰かに運び出されてここにいる、と言うことだ。
誰が、どうやって、何の目的で、等といった疑問は考える前に捨て去った。どうせ、相手が出てくるまで分かりはしないのだ。
ならば、やることは2つ。
1つ、自力でこの空間から脱出できるか否かの確認。
1つ、不可能であった場合に備えて可能な限りの準備を整える。
とは言え、どんな建築法法を用いたのかは分からないがこの空間は下手なことをすればすぐに崩壊しそうな危うさがある。何せ、モルタルで繋いでいるわけでもなく、柱や補強用の骨すら見当たらない。レンガ状の石材を敷き詰め積み上げて作った、様相の割に強度面に不安が残る見た目だ。
石質がそこまで堅くなければ、殴るなり蹴るなりで壊せる自信もあるが、構造の危うさがそれを咎める。それは最終手段としておこう。そう決めて考えを頭の隅に置く。
軽く、壁や床面を小突いてみる。見た目通り、感触は硬質でしかも密度を感じる。返ってくる反応が、どこを叩いても重たいのだ。
「……壊せるか?」
真っ先に思いつき保留にした荒技的な脱出方法に、不信感が生まれる。
もしかすると、力業ではどうにもならない可能性。
立ち上がり、左前構えに構をとる。大概のことにおいて両利きの彼だが、単純な力の強さだけで言えば突きも蹴りも右の方が上なのだ。
その威力、アカガシで作られた木刀を一蹴の下に折砕く。
その手段、前蹴り、横蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り、を問わず。
もっと想像しやすい例えで言えば、蹴りをガードしようとした相手の骨を折る勢いだ。無論、ガードしようとした部分の骨を。
その威力を正しく理解した上で、いざ詳細不明の石材で出来た壁と対面する。
間合いは、一足一蹴より半歩下がった、やや遠間。使う蹴りは、前蹴りにおいて一番威力の高い、足刀蹴り。
改めて、構をとり気を引き締める。
集中を高め、最高の一撃を確実に放つ。
頭の中にあるイメージは、真っ暗な空間でゆらゆらと波打つ一本の白い糸。
その揺れが、徐々に緩やかになり、ピンと張り詰めた瞬間が最高のタイミングだ。
目を瞑り、集中力を加速させる___
___糸が、張り詰めた。
刹那、目を見開いたるならば、鋭い眼光と共に放つ一瞬鮮やかな足刀蹴り。
静かなうねりを持って、空気を切り裂いたその速度、居合いの達人の抜刀、それのごとし。
足の裏から響いてくる反動を受け止め、十全以上の威力で蹴り込んだことを確信する。
しかし___
「なん……だ、と……?」
ここに来て、彼が微塵も考えていなかった事態が起きた。
無論、彼とて最悪の想定はしていた。
しかし、彼の中で思い描いていた最悪の事態は、ただ単純に破壊できないことだった。
だが、目の前の光景はどうだ?
蹴りを打ち込んだ部分には傷はおろか、汚れ一つ着いていない。
この時点で、彼を驚かせるにはまあ充分だ。
しかし何よりも、目を疑うのはその周囲に青白い小さな紫電が音を立てて走っていること。そして、その紫電と同じ色の線で描かれた蜂の巣のような模様だった。
まるで魔法のような光景だ。
念のため、他の場所も何カ所か同じように蹴り込んでみるが、結果は推して知るべし。
「うそぉん……」
大きな落胆を感じざるを得ないが、へたり込むわけにも行かない。少なくとも、空間を破壊しての脱出は現実的では無い、と言う情報は得られたのだ。
抑えきれない動揺をどうにか誤魔化しながら、次の手段を考える。
ほぼ間違いなく、魔法とは言わなくても、そう思わせてしまうような技術でこの空間の、少なくとも内側は覆われていると見て良いだろう。
そして、先ほどの結果を見るに、物理的な破壊は短時間かつ小労力では不可能だと分かる。
時間やら労力に糸目を付けなければ結果は分からないが、それらを無視できるほど体力の残量には自信が無い。
何せ、食べられる物も飲める物も近場に無いのだ。
下手なことをしてスタミナ切れを起こす方が余程恐ろしい。
総合的に見て、この空間からの自力の脱出は諦めた方が良い。
ならば他にやることは、武器になる物の確保だ。
何かしらの目的があって自分がここに運ばれたことは間違いないだろう。ならば、相手側は事前確認もしくは成果確認のために、直接ここに立ち入る可能性が高い。
もし相手に敵意があるのならば、付け入るべき隙はそこぐらいしか無い。
身につけている物で、即武器に出来る物は、腕時計とネクタイだ。ベルトも勿論武器として扱えるが、外せば動きやすさに支障が出るので却下する。
手持ちの物はそれらが限界とみて、他に現地で調達できないかを確認する。
しかし、やはり部屋の中には、めぼしい物は転がっていなかった。
目覚めた時に周囲を確認しながら動いたので、さしたる落胆も無かったが、どうであれ非常に心許ないことに変わりは無い。
もし、最悪戦うことになったとしても、これだけでは徒手の間合いでしか戦えない。
相手が銃や爆発物、その他の飛び道具を使ってこよう物なら、文字通り呆気なく抑え込まれる。
せめて、相手が話し合いの余地がある輩であることを祈りつつ、ネクタイと腕時計を拳に巻き付ける。
部屋の外の状況が分からないので、部屋の真ん中、つまり最初に倒れていたあの模様の真ん中に移動する。
外の状況が分からないと言うことは、つまり相手の配置が分からないと言うことに繋がる。
もし、何かのきっかけでこの空間が崩れて外に暴露したとして、すぐ背後を相手にとられると言うことだけは何としても避けたい。
そういった理由からの判断だ。
部屋の真ん中に立つ。
その姿勢、足幅は肩幅よりもやや広く、肩の力は抜き、されど胸を張り背筋を伸ばした、自然体の構え。
呼吸を整え、全身に気を巡らせる。大事なのは、あくまでも必要最低限の緊張だけを保ち、強ばらずにいることだ。
集中は、すなわちイメージ。
鼻から吸い込んだ空気が、気管から肺に満ち、そこから全身に巡っていくイメージを掴む。
徐々に全身から力のムラが無くなっていく。
___来るなら来い
その覚悟が固まった瞬間と、次の異変はほぼ同時だった。
突然、地面が光を帯びた。
光源は、彼を中心に囲んでいる大きな紋章。全ての線や文字が青紫の光を帯び、輝いている。紋章の内側から、白い蛍のような光の玉が無数に飛び出て、空間に溢れ返っていく。
薄暗い空間の中で、自身を中心に光が溢れる。
その光景は正に、幻想的だ。
しかし、その中心に立っている広瀬練也その人は、美しいとさえ思えるその光景に反して、表情が険しくなっている。
異変があった。
つまり、何かが起きるのだ。それが、彼にとってどういう物であるかは別として。
溢れ出す光が、さらに勢いを増していき、彼の周辺に金色の細い稲妻が走り出す。
僅かに目を動かして、周囲の状況を確認する。今、この不可思議な発光現象以外、特に変化らしいものは見当たらない。
しかし、無意識に警戒感が強くなる。自然体で待ち構えていたのに、今はわずかに左前構えを取り重心を低く据えている。
目を覚ましてから、今に至るまで。目まぐるしく襲いかかってくる異常の連続に、警戒心は勿論少なくない恐怖も感じている。膝は僅かに震え、背中からは引っ切りなしに冷たい汗が噴き出し続けている。
だが、今ここに立っている男、広瀬練也は筋肉バカであると同時に戦うことを専門にしていた人間でもある。
恐怖に打ち震えるのでは無く、刃向かう側の人間なのだ。
内に秘めた闘争心の鍵を開ける。全身から滲み出る、闘志。
見る者が見れば、足を竦みかねない凄みのある空気。
拳に巻き付けた腕時計が、分厚い手に食い込む。
「……来いよ……っ!!」
覚悟を口にしたその時___
周囲を埋め尽くしていた全ての輝きが、何の前触れも無く消えた。
空間に、闇が訪れる。
いよいよ来る、そう身構えた時だった。
石材同士が擦れ合う固く冷たい音と共に、天井から一条の白い光が差し込んだ。
その光は、先ほどまでこの空間にあった光達とは違い、暖かく何よりも自然な輝きを孕んでいた。彼は、直感的にその光が太陽のそれだと悟る。
まだ音は鳴り止まず、そして光の筋は一つ、また一つと増えていく。
天井から、壁から無数の光の筋が空間の中を照らす。
絶叫遊具もかくやの勢いで変わりゆく状況に、少し慣れ始めた頃だった。
突然、全ての動きが止まった。
次はもっと大がかりな変化だろうと、ある意味で高を括っていたために、逆に虚を突かれる形で動揺してしまう。
光が差し込んでくる全ての隙間から、外の風や匂いが入り込んで空間を満たし直していく。場違いにも、それを新鮮で気持ちいいものだ、と気を緩めてしまう。
その、僅かな間隙は___
___隙間だらけになった空間が、一瞬縮んだかと思えば、直ぐさまシャボン玉が弾け飛ぶかのように、ブロックが四方八方に飛び散っていった。その光景は、最期の拍動を終えて弾け飛ぶ心臓のような様___
___その光景を内側から見ていた彼を、茫然自失の手前まで追いやるには充分過ぎた。
自身を閉じ込めるように囲み込んでいた石の壁は無くなり、頭上には突き抜けるような蒼が広がっていた。
流石に床に敷き詰められていた石材が吹き飛ぶことは無かったが、その外側は瑞々しい碧や黄に煌めく草花の大地。
鼻腔をくすぐる草の香りが、しかしかえって成る程ここは自分の知っている世界では無いのだと実感させられた。
空も、大地も、どこまでも突き抜けるように澄んだ色を持っている。空に浮かぶ白い雲は、入道雲の如くそびえているが、大地に見える景色は夏では無く春の趣。
鳴く鳥の声は遠くに、しかし鮮明で、飛行機雲は一つとして見当たらない。
そして、腕時計に目をやる。
「やっぱり、かぁ……」
やはり時間を刻んでいないことは、心のどこかで確信はしていた。
電波が届かないどこかなのか、電波が乱れてしまうどこかなのか、はたまた電波が“無い”どこかなのか。
時計から目をそらし、その自身の背後に視線を移す。
「もう驚かねぇぞぉ……」
もはや呆れ返った声を無反応に聞くのは、地面に映る二つの影。
よく似たシルエットのそれらは、足下を辿っていけば、練也のかかとに源流を据えている。
つまりそういうことである。
電波が“無い”どこかだ。
「ここは、どこだ」
そんな疑問を抱く時、そこに行き着くまでの経緯はともかくとして、それを考えるときの状況というものは大抵似通っている。
一人、全く知らない場所に放り出された時も、そう。
そこが、異世界とも言うべき場所なら、尚更だ。