マイルドかワイルドか、それが問題だ(三十と一夜の短篇第23回)
わたしの勤める課に、職場内で密かにハンサム三人男と女性陣の中で噂される一人がいる。中山望君だ。わたしと同じ年齢だが、学歴が違うので、わたしより後に入社している。中山君がウチの課に配属されてくると決まって、ハンサムな中山君と同じ課で仕事ができるなんて羨ましいと散々言われているが、わたしは既に結婚しているので、そう言われても嬉しいと感じない。
中山君が水も滴るいい男なのはわたしも認める。ハンサムである。しかし、残念ながらわたしの好みじゃないんだなあ。
「あなたはどっちかというと年上が趣味だもんね」
と同期が笑っていた。そう、わたしの夫は年上である。それもハンサムと言われるタイプではないらしい。わたしの目から見るとハンサムだから、夫自慢で言ってみると、微妙なリアクションが返ってくるので、世間一般の美男子の基準とはズレているようだ。
「それは惚れた欲目!」
とはっきり言われている。
ま、好みではないが、美男であるのは違いないので、中山君は職場での目の保養。憩いの存在である。
勿論見てくれだけではなく、中山君は仕事ができる。積極的に前に出ていく方なので、わたしたちも課長も頼りにしている。
その中山君が髭を剃らない顔で出社してきた。どうしたのかと課長が問うと、その場で髭を伸ばすと宣言した。
「悪役っぽいイメージを出したいので」
課長の問に中山君はそう答えた。わたしは、三十間近でハンサムボーイでいるのに飽きたのかなくらいしか思わなかったが、周囲の女子たちの反応は違っていた。
「中山先輩が髭なんて似合わないわ」
「折角の綺麗なお顔が~」
当人に面と向かってではなく、女子休憩室でお弁当を突きながらの会話である。ウチの職場は男性のヒゲ禁止ではないが、伸ばしている者はいない。どうなることやらと、しばらくは見守ろうと、楽しくなってきた。
始めの一週間、無精髭かどうか区別のつかないような感じだったのが、段々と伸ばしている部分、剃っている部分とはっきりしてきた。口元、頬、顎、もじゃもじゃと伸ばし放題にするのではなく、中山君なりに考えて手入れしながら伸ばしているのが判ってきた。若いから山羊髭みたいにはしないだろうと思っていたが、随分頑張ってるなあ、こりゃ女の化粧より手間じゃないと感心してしまった。
女子の間では相変わらず、「似合う」、「似合わない」と陰で様々品評していた。毎回、似合わないけど、中山さんはやっぱりハンサムよねと、お喋りは落ち着く。
そんなお喋りを聞きながら、わたしはわたしで別な思いに囚われ始めていた。
――あの髭に触りたい。
伸ばし始めの髭のざらざら感を越えて、少し伸びてきたふわふわ、もふもふしたところ。髪の毛とは違う感触をこの手で確かめてみたい。
夫は髭の濃い人だが、仕事に行くのに毎日髭を剃っている。髭を伸ばして欲しいと少しも願っていない。休日髭を当たらない顔で寄られると、チクチク、ざらざらする。ちょっとくらいなら楽しいのだけど、過ぎるとこちらの肌が痛んでくる。
しかし、ある程度伸びて、手入れされている髭。この感触は無精髭なんかと違うものだろう。触りたい。そして、女の肌に触れたら、どんな感じがするのだろう。
――ああ、有夫の女がふしだらな想像している。
髭の感触が肌に与える官能を想い、ふしだらな想像をしている自分という気分に酔い、いささかへんちくりんな感覚を味わいながら、毎日出社していた。
そしてふと見る中山君の顔、声、髭に触れる中山君の手。気になって仕方がない。
――これじゃあ初恋にときめく小娘と変わらん!
考えてる方向が如何にも大人の女ってだけで、参ったもんだ。だからといって、中山君にその髭を触らせろと頼むと、女性から男性へのセクハラになるので、困ったなあ。
残業の合間に課長と中山君が話している。
「この書類は審査が終わりましたので、決裁お願います」
「ここの書類入れに入れといて。
中山君、髭が大分恰好良くなってきたね」
「ええ、でも揃えるのが大変なのと、意外と剃る部分が荒れちゃって……」
中山君は髭を伸ばすまで剃刀ではなく電気剃刀を愛用していたのかな? と顔に出さず、声にも出さずにわたしは分析した。髭を揃える為に、周囲の剃る部分に剃刀を使うようになって剃刀負けしているらしい。
そういえば、中山君の髭に覆われていない肌は荒れている。夫がシェーバーではなくて、剃刀愛用者だから、男性肌への負担は知っていたが、中山君は夫より顕著に現れている。
薬局でお手軽に買える軟膏や薬用クリームのほかに、最近は男性向けの化粧品があるし、髭剃り後のお手入れローションみたいなのは昔からあるはず。中山君は使っているのかと口出ししたくなった。
「え~、中山さん、洗顔後の化粧水とか乳液とか試したらいいんじゃないですか?」
わたしが言わずとも、ほかの女子職員がアドバイス。
「元々使っているのはあるんだけどねえ」
中山君が笑う。男性肌と女性肌は違うんだよ、と言いたそうなニュアンスがこもっている。肌のお手入れを気にしたら男らしくないと思っているのかも知れないが、実際肌荒れしてるじゃない。荒れた肌で触れられても気分は良くならないだろう。いくらハンサムでも艶消しである。
わたしは自分のデスク周りの片付けを終えた。
「わたしは遅くならないうちに、お先に失礼します」
帰りの挨拶がてら、皆の顔をぐるりと見回し、中山君の男前なお顔を拝んだ。以前にも増してワイルドさが加わり、肌荒れを抜けば更にいい男である。
「お疲れさま~」
間延びした声で見送られた。
背後でお喋りしている声が聞こえてくる。
「いっつもひっ詰めてくるか、結い上げてくるのに、今日は髪を下ろしていたよね」
「いつもと違うから、どきっとするよ。目の遣り場に困っちゃった」
わたしの噂話かい。聞こえているぞよ。伸ばしている髪をいつも纏めてるが、今日はどうにも上手くまとまらないので、ヘアクリップでてっぺん留めただけで出社してきたのだ。目の遣り場に困るとは、ふっふっふ。三十間近の既婚、子持ちのわたしでも色気が充分あると自惚れていいんだな。(そうでないとしたら、怒り狂うぞ)
独身と残業を厭わぬ面々でだらだらと仕事を続けるのに、こちらは付き合っている時間がない。さっさと退社して、保育園に預けている我が子のすべすべほっぺにたっぷり頬ずりして、瑞々しさを分けてもらうのだ。家に帰ったら帰ったですべきことがあるんだから、ちょっとした心のほころびをそれで繕うのだ。
ドタバタした夜とアタフタした朝をなんとか遣り繰りして、出社。
「お早うございます」
仕事の準備をしていて、驚いた。
中山君の髭が無い!
「お早う、どうしたの髭」
「手入れが大変になってきちゃったので、剃りました。髭って結構汚れるんですよ」
禁煙に失敗した喫煙者を見るような目付きの男性陣や、明らかに髭無しが似合うと喜んでいる女性陣に見詰められ、中山君は照れていた。
「格好良かったし、手間暇掛けていたのに勿体無い」
わたしは本心を伝えた。
「いやあ、マジで手入れが難しくて、こんなに大変だとは思わなかったんすよ」
ああ、本人がそう思ったんなら仕方ない。ワイルドな大人の魅力を楽しみたかったのに、元のマイルドなハンサムに戻っちゃったか。中山君が美男であるのは変わらないから、そのまま職場の花でいてちょうだいな。
わたしは我が子のすべすべほっぺで我慢する。