肉の喜劇
肉の喜劇が見える―秀之はこのことが誇りだった。それは秀之以外には誰も見ることのできない一幕だったから。
ある夏の日、その日最後の授業を受けた後、秀之はいつものように図書館へと向かった。
教室のある建物から図書館までは歩いて5分ほどかかる。図書館へと続くアスファルトの道は、夏の強い日差しを受け焼け切っている。学生達は徒歩で、あるいは自転車で往き来している。
この道は南北に走っており、その両側には4階建ての建物が並んでいる。夕方に差し掛かる今の時間帯には直接日光を浴びることこそないものの、ジリジリと焼けたアスファルトから熱気が立ち上り、往来する学生達に容赦なく襲いかかる。避ける術などないにもかかわらず、彼らは必死に暑さに抗っていた―ある学生はタオルで額の汗を拭った。タオルは、流れ出る汗を吸収し、繊維と繊維の間に留め置く。洗濯によっても取り除かれることのなかった汗の物質はやがて黒ずみ、タオルに醜いシミを作る。繰り返される洗濯によって、タオルの輝きは失われ、黴のような黒点がそれに取ってかわる。彼は次第にこのタオルの汚れを感じ始め、遂には手放したくなるのであろう―学生と汗とタオルの織りなすこの一連の動きは、一種の喜劇であった。この喜劇の主人公は、学生と汗とタオルからなる一つの肉の塊であった。
図書館に着くと、秀之は2階の自習スペースへと向かった。館内はいつにも増して空調が効いており、冷気の溜まる1階フロアは今日も学生達の避暑地と化していた。
秀之が向かった2階の自習スペースには、古めかしい木製の8人掛けの長いテーブルや1人用の机がずらりと並んでいる。座席数が利用する学生数に対しても十分にあり、普段は比較的広く机を使うことができる。さらに、図書館らしく天井は高かった。そのため秀之は日頃からそこを学習の拠点としていたのであった。秀之は狭い空間で勉強するのが嫌いであった。水平方向にも垂直方向にも自身の空間を確保しなければならなかった。
しかし、自習スペースに着くと、試験直前期だからであろう、多くの学生達で溢れかえっていた。ある者はテキストやノートを、ある者はパソコンを広げていた。
この学生達の集まりの中に秀之は不思議な光景を見出した。テキストにかじりつく学生の傍らには決まって分厚い辞書のような本が置いてあるのである。彼らが、その本の薄いが丈夫な紙を繰ると、乾いたパリパリという音が心地よく響いた。ページを繰る彼らの指裁きは、最大限に無駄を削ぎ落とした機械、効率性の化身のようであった。彼らの手は、動かすために動かされていた。秀之は感じ取った。この学生や本やそのページを繰る指―全てが肉であった。彼もまた肉の喜劇の舞台装置に過ぎなかった。
秀之は、空いている席を探した。しかし空席であればどこでも構わないというわけではない。テーブル席で勉強するときは、端の席でなければならぬ。他の学生と対面になることは避けねばならぬ。すぐ隣にも人がいてはならぬ。是非ともこれらの条件を満足する席でなければならぬ。席を確保できない場合には、たとい試験直前であろうとも秀之は自習を断念し帰宅する。秀之はそう決めていた。
秀之にはルールがあった。誰とも共有されず、誰にも理解されない規律があった。
秀之は、いつかこんな譬えを聞いたことがある―無人島での独り暮らしにルールは不要である。しかし二人になればルールが必要になる―これは誤りである。混沌を生きるためには独りであっても規範が必要である。寝起きの乱れた髪を解く櫛のように、乱雑さの中に食い込む鋭い刃が必要なのである。規範を持たずに生きることは、目印も標識もない無辺な海洋を、コンパスもなしに遊弋することと同義であった。このような営みは滑稽な肉の作用でしかなかった。
結局、秀之は自習を断念し、図書館を後にした。図書館を出ると、日は西に傾いていた。
秀之は駅まで歩き始めた。駅までは徒歩で15分ほど。夏の西日を受けながら駅へ向かわなければならない。
秀之は駅まで真っ直ぐに続く道を歩いて行く。駅までの道路沿いにあるもののうち秀之の目を惹くのは、昼間は閉まっているラーメン屋、開業したての喫茶店、灰皿とゴミ箱が歩道にまで迫り出しているコンビニであった。その向こうには駅が見えている。自転車に乗る学生達が次々と秀之を追い抜いていった。彼らはようやく近づいて駅を非情にも秀之から遠ざけた。
喫茶店の手間にある横断歩道の赤信号に立ち止まった。それを待っていたかのように汗が噴き出てくる。赤信号を見上げてた。秀之は尊敬の眼差しで赤色のライトに映った直立不動の黄色に光り輝く紳士を見た。彼は肉ではなかった。
信号が青に変わり、車道の自動車が一斉に動き出し、秀之も歩き始めた。喫茶店とコンビニを過ぎれば駅までもうすぐだった。ここに来て手に提げた鞄の重みが増してきた。鞄には、家から持ってきた専門書が何冊も詰め込まれていた。秀之は、赤信号に映った黄色く光る紳士を思い出した。鞄から買ったばかりの真新しい専門書を1冊取り出し、そしてコンビニのゴミ箱に投げ捨てた。




