水曜日4
「山本准教授の二番手とお伺いしていましたが、黒石先生が思いの外お若いので驚きました、お電話ではかねがね。お会い出来るのを楽しみにしておりました」
「いえ。若作りなものでして、お恥ずかしい限りです。お若いと言えば善道先生がイメージよりお若くて、むしろ私が驚いています」
教団本部の巨大な建物。
超VIP扱いでその建物内に入った俺達は最上階の分厚いドアのついた部屋へと通された。
その大きな部屋の中。スーツにネクタイで革張りの大きな椅子に座った、品の良い中肉中背の特徴の無い人の良さそうな中年。
それが俺の見た光人善道の第一印象。但しランちゃんが言った通り既に五十を超え実際は六十近いらしい。
とてもそうは見えない。確かに若く見えるというならランちゃんに負けてない。
そして普段はやや東北訛りで砕けたしゃべり方のランちゃんが普通に喋っている。
わかっては居るが伊達眼鏡と服装も相まってこちらもまるで知らない人のよう。
「そちらの少年は? 見たところ県立の生徒さんの様ですが」
「私の義理の弟です。心理学に興味を持っておりまして、それでフィールドワークの時は偶に助手として手伝ってもらっています。……陽太、先生に御挨拶をなさい」
「あの、こんばんわ。峰ヶ先の中等部二年、愛宕陽太です」
「こちらこそ宜しく。……さて、黒石先生。今日はどういった御用向きですか? お電話で仰っていた様な、そう言う御要件では無いようにお見受けしますが」
「そうですね……。あまり駆け引きのようになってはしまってはこちらも本意では無いので失礼ですが早速本題に入らせて頂きましょう。仰る通り、有り体に言って当初は先生を試すつもりだったのですが、状況が変わってしまいました。私と善道先生。双方にあまり良くない問題が発生しました。だから状況を含め“直接視て”頂いた上で、我々はどう対処すべきか、お話し合いの機会を持ちたいと思います。今日はその為に伺いました」
どうやってアポを取り付けたのかは置いといて、当初はきっとパストコグニションの能力があるのか無いのか、見極める腹づもりだったのだろう。
その事まで含めて覆花山買収を止める手立てをひねり出す予定だったらしい。
「こちらも忌憚なくお話しすれば、私の力の真贋鑑定に来られたのだと。確かにそう思ってはいましたよ。――黒石先生は心理学の権威だ。それよりも重要な問題がおありで?」
黒石先生と向こうが呼ぶのは、当然心理学博士の黒石を名乗ってアポを取ったから。
ランちゃん自身、美人すぎる心理学者などの見出しでコラム以外でも雑誌などに載る事がある。すぎるかどうかは別にして自分で言うよりはよほど有名、結構各方面に通用する名前なのだ。
だからこそ力の真贋鑑定に来たと思ってる。当初の予定は多分その通りなんだけど。
そして、それでも全くひるまないのは例えインチキであってもバレない自信があると言う事。
かなりのもんだなこの人。本物でも偽物でも。
「正直な話、社会心理学を専攻するものとして、色々と事前には考える事はあるにはあったのです。ですが失礼かも知れませんが善道先生のお力が仮に偽物であっても、もはやどうでもよろしい、と言う事です。事は一刻を争います。対処のお話し合いをするためにも、先ずは問題について善道先生に直接視て頂くのが一番の近道と考えております。もう一度誤解の無いようお話しておきます。力の真贋など、今このときには全く関係がない。“視る”と言う行為を行った上での善道先生のお考え。それをお聞きしたいのです。――私を“視て”頂けますか?」
「ふむ……、何かしらお困りのようだ。よろしいでしょう。では右手を拝借して私と握手をするような形で。それと、隠し事をなさっていても全て私には見えてしまいます。犯罪歴も、心の傷も。勿論、例え刑法に触れようとも、誰かに話したりなどそんな事は致しませんからそこはご安心を。……では心の準備がおよろしければ、右手をお願いします」
二人の右手が触れた瞬間。とんでもない分量のイメージが一気に見えた。
押しつけられるのでも無く、見せつけられるのでも無く、見える。聞こえる。ただ拒否は出来ない。
誰かの記憶、それが否応なしに流れ込んで来る感じ。
有り体に言えば気持ち悪い。
一気にハイビジョン映画がダイジェスト版で三十以上始まったような感覚。全ての映像が、それに付いた音声がわかる、聞こえる、理解出来る。……なんだ。なんなんだこれ。
画面の中では小学生や中学生のランちゃんが見た景色がそのまま再生される。
あまり嬉しくないのはその時の廻りの台詞はもとより本人の気持ちまできっちり再現される事。
真面目でおとなしく、年頃になっても男の子達には見向きもせず勉強一筋だったその少女は、とにかくお父さんとはそりが合わず、殴られたり家出したりを繰り返す。
そして高校二年の時、そのお父さんと真正面から殴り合いのケンカになり、家を飛び出す彼女。
場面が変わって竹藪の中、強引に制服をはぎ取られた彼女はしかしそれ以上の抵抗はやめた。
ただ冷静に、物理的な痛みと、複数の意味で自分の大事な物が無くなってしまった痛みに耐えていた。
どちらかと言えば精神的苦痛の方が耐えがたかったから、――自分が死ぬ事でこの始末を付けよう。
とその行為が終わるまでそれだけを考えていた。
その後。実行した自殺は本当に偶然、阻止され未遂で終わった。
結局彼女が死に至る事は無かったが手首に傷は残った。
それ以降高校卒業までは左手首には包帯、大学からは大きな男物のダイバーウォッチをかけるようになり、夜は眠りが浅くなった。
高二の時の事件は誰にも話さず、彼女が高三になった時、病気でお父さんもあっさりと亡くなったが、今度はそれが原因でお母さんと冷戦状態になった。
高二の時の事件をお母さんが知らない事が二人の距離を更にじわじわと広げた。だからといって彼女はそれを話そうとは、しかし一切思わなかった。
お母さんとの会話が減った分も含めて、只狂ったように教科書を読み、参考書にマーカーを入れ、ノートにペンを走らせた。
そして大学入学を機に自宅を離れて隣の県のこの街へとやって来た。
お父さんから何度も庇ってくれたお母さんだから、別にお母さんが嫌いになったわけでは無い。
けれどもう、自宅へは帰ることがあっても戻らない。
この先、一人で生きると決意を固めて家を出た。
だから奨学金や学費に関する学生ローン、お金に関することまで高三の半年間で全て一人で段取りを付けていた。
我が家に来たのもそもそもは本当の意味での下宿生だったのだ。
――そこから先の映像もあったのだが、知っている話だからなのか強く働きかけては来なかった。
映像が働きかけるとか意味が不明で日本語が間違っている感じではあるが、他には表現のしようが無い。
但しあの日から十年以上。未だ死への憧れが彼女の中に残っている事にはかなり驚いた。
そしてそれを押さえ込むために普段の彼女がどれだけの努力を必要としているか。
睡眠薬を多めに飲めば、高いところから飛び降りれば、車を崖から落とせば。電車に飛び込めば。
大人になった彼女にはその憧れを成就する手段は豊富に、種々雑多に、毎日新たな手法も含め提示される。
その誘惑に一度でも乗れば、彼女の憧れは死をもって成就してしまう。
そして、誘惑を断ち切る原動力は、やはり愛宕家とそしてにーちゃんの存在だった。
全般を通じて父さん、母さんへの尊敬と感謝の念。
――何を言ってるんだ、ランは俺が十四の時の娘だろ?
――そうよ。ららちゃん生んだとき、私、高一だったもの。
そんな冗談で感じる嬉しさ。そして二人を失ったときのとてつもない、立ち上がる事が出来なくなるような絶望と悲しみ。
俺と月乃への、当初は可愛らしい触ったら壊れそうな生き物として、姉として、そしてその後試行錯誤しながらの母親としての、家族としての愛情、そして俺達の成長に気付いたときの驚き、そしてそれにもましての喜び。
どれもこれも知っている事ばかりだけれど、直接、泣きそうなほどに伝わって来る。
にーちゃんへの感情はやはり複雑だ。友人として、従兄弟として、姉弟として、家族としての愛情。
そして家族愛とは少し形の違う感情を初めて感じる喜び。
ただその喜びについては彼女の中では下賤で浅ましい唾棄すべきものとして扱っていた。
そしてある時、彼に我が身を捧げたいと思ってしまった。
穢れて汚れた体であると知っているのにその体を、事もあろうに家族である彼に捧げたいとそう思ったのだ。
そのこと自体が彼女には許しがたい事だった。
一度でも劣情を彼に抱いて、性欲の対象として彼を見てしまった事がおぞましく、我慢がならなかった。
だから手塚広大に男を感じてしまう黒石蘭々華を律するため、髪を金髪に染め、体の線が出ないようにジャージやサイズの大きな服を着る事にした。
彼に女である事を絶対に悟られないように。自分で自分が女である事を彼の前では思い出さないように。
彼に心も体も預けてしまいたいと言う欲望は、家族だと、弟なのだと自分に何度言い聞かせようが無くならない事は、実はあきらめと共に理解が出来ている。
心も体も全て預けると言う以上高二の事件の時の。既に直っているはずの体についた傷と、今でも醜く跡の残る体につけた傷。
死への憧れ。それらを全て彼に明かさなければ、その欲望が成就される事は絶対に無い事も彼女にはわかっている。
欲望と否定。秘密と解放。葛藤は続く。
下ネタに過剰に反応して怒り出す理由も、真夏でもだぶついた長袖シャツなのも、寝る時も男物のかなり大きな、しかも裏を向いたダイバーウォッチをその細い腕から外さないのも、気持ちが暴走しそうなときの避難所としてのアパートを引き払う事が出来ないのも。
にーちゃんは変わり者だから。で済ませて理由を知らないが、理由を説明するかどうか。
それを考えるだけで涙が出るほどに、二,三日眠れないほどに、死ななければ収まらないほどに。
彼女は悩まなければいけないのだ。
俺がいくら子供とは言え、いつもそばで見ている。にーちゃんへの静かでほのかな思い。当然わかっては居た。但しこんなに詳細には知りたいわけでは無かった。
他にわかった事と言えばここ数日、やはり寝食を削って常に何かをしていたと言う事ぐらい。
一日二十時間位はパソコンを睨みファイルに目を通し電話をかけキイボードを叩きタブレットの画面をさすっていた。具合が悪くなって当たり前だ。
そして一番最後は車にもたれて俺を見る映像。ツキは、ぜってー取り戻す。どんな手を使ってでも。だ……。そこで頭に渦巻いていた映像は一気に消える。
「黒石先生ご自身も大変な半生を過ごされてきたようですが、それはさておき。――私と先生との、共通の問題点。なるほど。……陽太君、でしたね。彼が誘拐の目撃者ですか」
机越しに握手をしていたはずの二人は既にただ向かい合っているだけになっている。腕時計を確認する。一分経ってない……。
この人は人の半生を数十秒で見る事が出来る。のみならず、理解が出来る……。しかも知らない人のあんな映像を見せられて尚、内容を全て把握し、わかった上で眉一つ動かすでなく、普通に話をしている。
あんなものを見た上で直後にランちゃんと普通に会話など、まともな神経の持ち主なら出来る訳が無い。それに俺に見えたのはあくまで印象の強い部分、上っ面だけが流れてきたに過ぎない。それは感覚でわかる。
光人善道本人はきっと俺の数十倍、数百倍の情報量を、目を背けたくなるような場面まで含め見聞きしたはずだが、顔色一つ変わらない。
この光人善道という人が悪いやつだった場合、きっと誰も止める事は出来ないだろう。
ランちゃんはもちろん、にーちゃんだって勝ち目は一ミリも無い。
どうやって勝ったら良いのか、わからない。
暴力でなら形だけ、一時的には勝てるかも知れないが、そんなのは意味がない。
と言うのは、いくら俺が莫迦でも理解ができた。




