犬耳美少女魔王が現れた(現れていた)
とりあえずこうしていても仕方がないので、家に帰ることになった。
そもそも家を目指してはいたのだ。飼い犬が美少女になって、全裸で、首輪で、四つん這いという状況になり、僕は意識せず家を目指していた。
ようするに帰巣本能。人はまったくなんにも考えられない状態だと、ついつい慣れた場所へ足が向くという。
あるいはハナの帰巣本能か。僕がリードを引っぱっていたつもりだったけれども、その実、リードでハナが僕を引っぱっていたというオチも考えられた。
つまるところ今までの状況は、『首輪をつけた全裸の女の子を僕が手に持ったリードで引き連れていた』のではなく、『首輪にリードを身につけた全裸の女の子が、僕にリードを握らせて引きずり回していた』ということとも言える。
なぜか背徳感が上昇した。
ご近所はどこも照明がついていた。
『異世界が降ってくる』という異常事態によって肉体的に深刻な変化をしてしまったのは、どこも一緒なのだろう。そこらじゅうの家から物音や声が聞こえ、誰もがテレビやラジオで状況を確かめようとしているのか、ノイズまじりの声が耳に届く。
『――この事態は、空から落ちてきた物体に触れることで姿が変化するものと考えられており、現在すでに数千名を超える人々が違う姿に変わってしまったと――』
ザザッ。
『――見てくれよ! 俺、気付いたらものすごいイケメンエルフになって――』
ザザッ。
『女優の――さんは、SNSなどで、容姿の変化が原因でしばらく活動を休止するとの発表をしており――』
ザザザッ。
『――だからね、これは、いい機会なんだよ。人は見た目じゃないって言うけどね、いざこうなってみて、本当にみんな今までと変わらない生活が送れるのか、きれい事とかじゃなくって本当の意味で――』
漏れ聞こえるラジオやテレビの音声で、僕は事態の大きさを再認識する。
同時に、『あれは幻じゃなかったんだ』と安堵した。
空から異世界が降ってきた。
城が降ってきた。
モンスターも降ってきた。
人も降ってきた。
でも。
それらしいものは、まったく、落ちていなかった。
だから僕は自分の目を疑い、自分の頭も疑った。
七月七日二十三時に見たあの光景を、幻なんじゃないかと疑い始めてもいたのだ。
今は。
自分の姿も含めて状況を確認してしまった今となっては、『落ちてきたもの』がどこにもないことはもう、問題ではない。
問題なのはむしろ――
「ねえお兄ちゃん、あたしたちの体はどこに行っちゃったんだろうね?」
……それだ。
僕は生まれつきガイコツではなかったし、妹は生まれつきオークではなかった。ハナだってもちろんただの小型犬だったし、そこらの家で新しい自分に悩まされている人たちだってそのはずだ。
僕の肉体はどこなのか。
そもそも、それ以前に、『どこ』とかいう疑問は正しいのか。
この、まるでなんらかの手順を踏めば前の姿に戻れるという無意識の思いこみは、果たして正解なのか――
それが、気になる。
「……なあ、ほのか。お前は、戻れると思うのか?」
「戻れないかな?」
「僕にだってわかんねーよ。ただ、水道が止まったから復旧まで待つとか、電気が止まったから明かりがつくまで待つとか、ガスが止まったから風呂を我慢するとか、そういうのとは話が違うと思うんだ」
「……ええと」
「ライフラインが止まるっていうのは、誰かがあらかじめ想定してる事態だ。そのために専門家は色々考えてるし、行政は色々配備してるし、技術者は色々備えてる」
「うん」
「でも、この事態に専門家はいないし、行政はなにしたらいいかきっとわかってないし、技術者なんて存在しないはずだろ。つまり――復旧のめどはないと、僕は思う」
「…………」
「きついこと言うようだけど、一生そのままっていうことも、充分に考えられるわけだ」
「……そっか」
ほのかはうつむいた。
そりゃそうだろう。十四歳なりたての妹が、いきなり、全身緑の巨大な化け物になったら、その精神的ショックは想像するにあまりある。
僕はまあ、今のところそれほど影響はない。
ハナはそもそも、そこまで小難しいことを考えていないだろう。
でも、オークになりたい女子中学生なんか、この世にいないはずだ。
人は見た目じゃない。
まったくもってその通りだと両手を挙げて賛同したい理想論なのだけれど、それは現実ではないことを、僕はとっくに知っていた。
人間関係において初手で中身を見抜くというのはもう特殊スキルのたぐいであり、そんなものを持っている人が少数派である以上、やっぱり人の印象を決めるのは見た目なのだ。
……戻れないという可能性は、ここで僕が言わなくたって、いつか誰かが口にするだろう。
だったらあらかじめ言っておいてやりたいという、まあ、その。兄心を出したわけだ。
ほのかはどう反応するだろう。
うつむき、黙りこんで、ぶるぶると震えている。
大きく変わり果ててしまった手には、すさまじい力がこめられていた。
感情の奔流を、必死に押し殺しているかのように見える。
「なあ、ほのか。こういう事態だからってわけじゃないけどさ。……我慢すんなよ。つらかったらつらいって言っていいし、泣きたきゃ泣いていい。僕はこんな、ひょろひょろで、ガリガリで、今となっちゃあ肉も皮も残ってない、頼りない見た目してるけど、こんなんでも、お前を受け止めるぐらいはできる」
「……」
「お前がどんな見た目でも、僕はお前のお兄ちゃんだし、お前は僕の妹なんだよ。だから、僕の前では我慢すんな。無理して感情を押し殺さなくてもいいんだよ。僕にはもう割る腹はないけど、腹を割って話し合おうぜ。お互いに、我慢したり隠し事したりせずにさ」
僕はほのかを見上げる。
身長差はすっかり逆転してしまっていた。
ほのかが深くうつむいていようが、僕はもう、下から彼女の顔を見ることができてしまう。
もとのほのかは、年齢にしたって、小さくて、かわいらしい女の子だった。
いつまで経っても子供みたいなヤツ――見た目や性格から、そんな風に考えていたけれど、彼女だって女の子だ。こんな姿になってしまって、さぞかし絶望していることだろう。
だから、兄として今の僕はあまりに頼りないけれど、コイツが泣いていたら、この小さな胸を貸してやることぐらいは、してやろう。
そう思っていた僕の視界の先で、ほのかは――
笑っていた。
……は?
…………笑っていた。
「え、え、なに、なに、なんでお前笑ってんの? 悲しくないの? オークだよ? それともあまりの現実を前に精神が崩壊したの?」
「……うん、あのね、変かなって思って黙ってたんだけど……お兄ちゃんが、我慢しなくていいって言ったから、言うね」
「お、おう」
「あのね、あたし、今の姿になって――すごい嬉しい」
「は?」
「すごい嬉しい」
「は?」
「I’m very happy」
「日本語がわからないわけじゃねーよ! 今わからないのは強いて言うなら女心だ! え、なに、えっ? 嬉しい? 今、嬉しいって言ったのお前?」
「そうだよ?」
「なんで? 皮膚、緑色だよ? 身長、二メートル超えてるよ? 体重はおそらく二百キロはくだらないと思うよ? 角とか牙とか生えてるよ? あとあえて言わなかったけど、セーラー服まったく似合ってないよ? 見ろよ今のお前の腕とかさ、僕の胴回りの何倍だよ。僕はもう胴回りが脊髄しかねーよ」
「あたしね、大きくなりたかったの」
「大きくなりすぎだ。元のお前の二倍強あるじゃねーか」
「だって、お兄ちゃん、あたしの背が低いのよくネタにするし」
「たしかに普段から『背がもう少し高かったらなあ……』ってため息をつくお前の頭をおさえて『身長が縮む呪いをかけてやる!』とか言ってたけども……」
「あと、手足が短いのをからかうし……」
「たしかに普段からお前をいじって怒らせたあと、殴りかかってくるお前の額を押さえて『はははお前のリーチでは届くまい』とか言ってるけども」
「あと、よく真後ろから脇の下に手を差しこんで『高い高い』って持ち上げたあとに、下ろして『ひくーい』とかやるし」
「たしかにそんなこともやったけども!」
「だからねあたし、お兄ちゃんを見下ろせて、今、すごく嬉しいの」
「……」
「ね、ね、お兄ちゃん、あたし、ずっと、お兄ちゃんに言いたいことがあったの」
「なんだよ」
「このチビ」
「……」
「チビ。チービ」
「…………」
「おやあ? お兄ちゃんの姿が見えないぞお? ……あ、そんなとこにいたんだあ。ごめん、ごめん。小さすぎて見えなかったよお。……あはははははは!」
たしかに。
たしかに、今は、僕の方が、ほのかよりチビだけれども……!
なんだこの屈辱は……!?
まさか、『あなたは私より身長が低いですね』を簡略化しただけの、『チビ』という、ただの事実を述べられることがこれほどまでに心を逆なでするだなんて、思ってもいなかった。
なるほどこれはムカつく。
殴りてえ。
一方で、僕は、普段のほのかはこんな気分だったんだなと深く反省しなければならないだろうことも理解する。
なるほど二十四時間三百六十五日一日に三回ペースで身長の低さをネタにしていたせいで、ほのかの中ではこんな鬱屈したものがたまっていたのだ。
僕はかわいがっているつもりだったんだ。
でも、ほのかはどうやら、本気で嫌がっていたらしい。
家族はこうしてすれ違っていき、兄と妹は年齢を経るごとに険悪になり、最終的に親の遺産相続で骨肉の争いをくりひろげる羽目になるのだ。
だからある意味で、よかったとも言える。
ほのかのコンプレックスを刺激し続けることによってたまったストレスは、今この時をもって解放された。決定的な決裂を前に、解消されたのだ。
僕は人の心の痛みを学んだ。
かわいがっているつもりで、妹を深く傷つけていたことを知った。
だから、我慢するべきなんだ。
チビ?
事実だ。
僕の今の身長は、たしかにほのかの今の身長よりかなり低い。ほのかが僕を『チビ』と言ったところで、それはただの事実確認なわけだ。
事実を指摘されて怒る。
少し前の僕ならば、そんな、子供みたいな、短絡的な感情の爆発をおさえきれなかったかもしれないけれど……人は、成長するものだ。僕は今、ほのかの心のうちを知り、普段の自分の大人げなさを知ったんだ。
大人げないと知ったなら。
大人になろうじゃないか。
そうだよ。僕だって、もう高校生だ。ほのかとは、三年の開きがある。たしかに前までの僕が人のコンプレックスを指摘して笑うような子供だったのは認めよう。でも、それはもう、なんていうか、忘れちまいそうなほど、昔のことだ。
カードゲームで盛り上がる小学生を見る気分に近いかな?
『ああ、昔、あんなことで僕も騒いでいたなあ』という気分だ。
菩薩のように優しい気持ちである。
だから僕は、菩薩のような優しいまなざしで、ほのかを見る。
そして、菩薩のような優しい握りの拳を、ほのかの下腹部にたたき込んだ。
「お兄ちゃんのチ――びふぁ!?」
意外と効いた。
どうやら僕は、骨だけの体にもかかわらず、以前より筋力みたいなものがかなりあるらしいことを知る。
また一つ、この『異世界が降ってくる』という事件の全容に近付いたなと、僕は菩薩のようにうなずいた。
「なにすんのよバカお兄ちゃん!」
「うっせーバーカバーカ! チビチビ言うな元チビ! ムカつくんじゃ!」
僕は菩薩のように反論した。
ちなみに僕は、菩薩についてあまり詳しくない。
っていうかいいよもう、大人になんかならねーよ。
妹にチビ呼ばわりされるのを我慢するぐらいなら、僕は一生子供でいい。
「ムカつくってなに!? これ、お兄ちゃんが毎日やってたことだからね!?」
「知らねーよ! どこにそんな証拠があるんだ!? いつ僕がお前をチビって言った? 何時何分何秒前、地球が何回回った時だよ!?」
「毎日言ってましたー! 家ですれ違う時とか、お風呂に入ってる時とか、ベッドの中でも、言ってましたー!」
「なんで誤解を招くようなシーンだけチョイスした!? まるで僕が未だにお前とお風呂に入ったり一緒に寝たりしてるみたいだろうが!? ご近所さんに聞かれたらどうする!? お前と仲いいと思われるだろ!? ほのか菌がうつるわ!」
「ほのか菌!? そんなこと言ったらこっちだってお兄ちゃん菌がうつるんだからね!」
小学生のようにケンカをする僕らだった。
ご近所さんに聞かれたら『仲いいね』と言われてしまう。
しかしこうなってしまうと、お互いに引き際を失う。
このまま体力がなくなるまで骨肉の……骨と筋肉のという意味ではなく……争いは続く――
――かのように、思われたのだけれど。
「おい、貴様ら!」
そんな僕らを、止める声があった。
どこの誰だ! と、ケンカをしていたはずの僕とほのかは、声の方向を一斉に見る。
そこにいたのは。
ハナだった。
もちろんハナというのは、全裸で首輪で四足歩行の、今は美少女になった僕の愛犬である。
そのハナが、あろうことか二足歩行をしていた。
そして偉そうに腕を組み、小さな身長のくせに精一杯顎をあげて、こちらを見下ろそうとがんばっていた。足は閉じており、姿勢がいので、妙に格好いい。
僕とほのかはいったん顔を見合わせ、それからまた、黙ってハナに視線を転じる。
ハナは、普段の忠義に篤い彼女からは想像もつかないほど偉そうな態度で、言う。
「私は魔王、アンデッドロード〝最悪存在〟ワーズワースである!」
魔王?
今、この子、魔王って言った?
困惑する僕とほのかを尻目に、そいつはほくそ笑む。
忠義に篤く清廉潔白で。(視線の高さの問題で)いついかなる時も主人を見上げること忘れないハナとはかけ離れすぎた表情だ。
「貴様らに我の偉大さと、この世界に起きたことを説明してやる!」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかる。
つまり――ほのかとのケンカで忘れかけていたけれど――僕らが直面している異常事態について、今からなんらかの答えがもたらされるということなのか……?
しかし、信じていいものだろうか。
ひょっとしてハナが高度な遊びをやっているという可能性もあるんじゃないか?
今にも全裸のまま僕らを押し倒してペロペロする機会をうかがってるんじゃないか?
僕とほのかは、また顔を見合わせる。
それから、ハナに視線を戻した。
「だが、その前に、一つ、貴様らに、我への忠義を示す機会をやろう」
なんだろう。
僕とほのかは同時に首をかしげる。
そんな僕らの視線の先で。
ハナの体を借りた何者かは、顔を赤らめて言う。
「その、なんだ。えっと……服を献上せよ」
ハナとは思えない文明的な意見。
僕は気付く。
あいつは腕を組んでたんじゃない。
胸を隠していたんだ――と。
そこまで理解してようやく、僕らは初めて、あの少女の中身が本当にハナではないということを確信した。