去るオーク。帰る妹。
その後。
僕は、思いつく限りの方法で、神の言葉に嘘はないかどうかを確認した。
死ぬような呪いを実際に試すわけにはいかないので、『右手が挙がる』とかの罰則のある呪いで実際に試したり、鳥頭の神に何度も同じ話をして新しい情報が出なくなるまで粘ったりとか、そのような確認方法である。
そのうえで、ようやく妹を送り出す決意をしたころ、時刻はとうに明朝だった。
「それじゃあ行ってくるね」
軽い調子で引き受ける妹。
そうして彼女は異世界に旅立つことになった。
まあ、途中、なにしても死なない高耐久力の化け物と化した妹を、どういう手段で殺せばいいのかという問題も発生したのだが……
「『死を与える魔法』でよかろう」
魔王様からそのような呪文を教わり、どうにか問題は解決した。
もっとも、その呪文を室内で試してしまう勇気はなかった。
周辺に誰もいない、我が家、っていうか魔王城の中庭で試す流れになる。
中庭で、僕は魔法を成功させた。
かくして妹としばしの別れがおとずれる。
かのように思われた。
しかし、結論から言えば、そう長い時間のお別れでもなかっただろう。
妹が体ごと消え去り、神様もただのオウムに戻り(たぶん精神だけ異世界に戻ったのだろう)、しょうがないので僕は屋内に戻って眠ろうとしたところ、
「待つとかしなさいよ……いくら確認をかなりしつこくとったって言っても、心配でしょ?」
と、母さんの精神に影響されているとおぼしきアイリンさんにたしなめられた。
まあ眠いのはそうだったし、今さら僕になにができるかと言えばもうなにもないのだが、気持ちはわからないでもないので、ちょっとぐらいは眠気に耐えようと心に決めた。
まあでも家の中で待つぐらいはいいだろう。
外はやっぱり屋内に比べれば暑いし、のぼりかけた太陽がやけに目にしみるのだ。
だから城の中へみんなで入ろうとして。
そのタイミングで――僕は、世界の変革を目撃した。
それは不可思議な光景だった。
そこここから、人が、モンスターが、空へ向かってのぼっていく。
その上昇にはかなりの強制力があるらしい。空へ向かう人々は手足をバタつかせ、突然の事態に戸惑うような様子を見せつつも、まったく速度を緩めず、空へ空へとのぼっていった。
次いで、建物がのぼっていく。
家屋が、商店が、あばらやが、そして――城が。
僕らの家と一体化していた魔王城、『古びた荘厳なる墓標』が、震動しながら上昇していく様子が見えた。
不可解なことに、その震動は現実の震動ではないらしい。
たしかに僕らが今立っている『古びた荘厳なる墓標』は大きく揺れて見えるのだけれど、僕の体はまったく震動を感知していない。
プロジェクションマッピングでも見ているかのようだ。映像効果として揺れはたしかにあるのに、現実の揺れは一切ない。
のぼっていく中庭。大きな門。それから、巨大な石造りの古城。
立っている地面が確かにせり上がるのを目撃しながら、しかし僕らの視線の高さは変わることがなかった。
「ほのかちゃんは成功したようだな」
魔王ワーズワースが言う。
彼女の姿はまだ、犬耳少女のままそこにあった。
「我らもじきに元の世界に戻ることであろう。短い時間ではあったが、我が生涯において最もスリリングな体験であったぞ。精神が消えかけるなど、これまでなかったのでな」
ゆらゆらと、ワーズワースさんの体から陽炎みたいなものが立ち上っていた。
僕の体からも、同じ現象は起こっているようだ。
自分の手を見る。
骨しかなかったその手と、本来の僕の手が、二つの画像を編集で重ね合わせたかのように二重に見えた。
戻る、らしい。
きっとこれが、異世界人との最後の会話になるだろう。
僕はワーズワースさんに声をかけた。
「どう言っていいかわからないけど、お疲れ様でした」
「疲れた。……疲れた、か。疲れを知らず、眠りを知らず、喜びを知らず、慈悲を知らぬ……我はそのような存在であったはずなのに、貴様にはずいぶんと振り回されたものだな」
「はあ、そうですか」
「最後までそんなんか貴様は! ……なににせよ、まあ、なんだ。楽しかった。得がたい経験という意味でな。さて、我らの世界に戻ったならば、また戦争だが……結局、滅びの原因は解き明かされてはおらんな」
「神様に聞けばよかったんでしょうけど、あなたたち固まってましたからね……」
「いや、あんなに簡単に神が出てくれば誰でも固まるであろう……」
「僕は無宗教なのでその感覚はわかりませんが……でも、事前に起きたことから察するに、ワーズワースさんたちとアイリンさんたちが全力でぶつかったのが原因じゃないですか?」
「それがやはり、最も確率が高そうだな。……まあ、対策はしておこう。どうだ、勇者アイリン・アークライトよ」
言葉と視線を向ける。
そこには、ジャージ姿のおばさんと、鎧姿の美しい少女が、重なり合って存在していた。
「そうねえ。……そもそも私たちはなんで戦ってたのかしら」
「さて。『そこに戦いがあったから』であろう」
「……ま、それもそうね。じゃあ、決着は上でつけましょうか」
「それが貴様の結論か」
「当たり前でしょう。いくら原因が曖昧だからって、ちょっと話したぐらいで終わるほど、私たちの重ねてきた戦いは軽くないもの」
「うむ。互いに多くの犠牲を出した。この事実はなくならん」
「でもまあ、ぶつかり合うんじゃなくて、別な方法を考える必要はあるかもね。また世界に滅びられたら、私はまた恋人もいないのに二人の子持ちにならなきゃいけなくなるし……」
「同じ体に融合するとは限らんがな。……世界自体の滅亡を避けるため、話し合う期間は必要そうであるな。互いに」
「そうね。ルールを決めないと。世界を滅びさせないためにも。……その時はきっと、私が折衝役で、あんたと話し合いをすることになりそうね。だって知り合いだもの」
「貴様は友達がおらんから、いざその場で戦いになっても誰も悲しまんものな……」
「やめてよ。元の世界に帰りたくなくなるでしょ……」
「しかし、別れの時は近いようだ」
ワーズワースさんが笑う。
彼女の姿は、ゆっくりと空へ浮かび上がりつつあった。
アイリンさんも同じだ。
彼女らの足元には、ジャージ姿の主婦であったり、小型の白い犬だったりが、いる。
融合していた僕らが、だんだんと分離していく。
「では、さらばだ。我の精神を追い詰めし唯一の者よ」
最後に、微妙に不名誉な言葉を残して――
ワーズワースさん、アイリンさん、そして魔王城……七月七日、唐突に降ってきた異世界は、降ってきた時と同様、唐突に空へと消えた。
僕はぼんやりと空をながめる。
明朝の空はすでに白く明るい。
もうなにも、人だとか城だとか、おかしな物は見えない――かと思いきや、なにか黒い点が目に映った。
その点はすごい速度で僕のいるあたりに降下してくる。
いるあたりっていうか、僕の直上だった。
思わず飛び退く。
すると、先ほどまで僕の立っていた位置になにかが落ちていた。
狭い我が家の中庭。
吠える犬の声。
どこかのんびりとした主婦の声。
それらに出迎えられて。
「ちょっとお兄ちゃん!? なんで避けるの!?」
どうやら僕を殺すつもりで降ってきたらしい、小さい、皮膚も緑色でなければ、牙も角も生えていない、だぼだぼすぎるつぎはぎセーラー服を着た妹が、そんな文句を言いながら、帰還したのだった。