vs勇者、そして魔王の犬化
ジャージ姿の女勇者が、洗濯カゴを振りかざす。
その動きの素早さ、迫力、なにより我が家の洗濯カゴを破壊することもいとわぬ暴挙に、僕は防戦一方になるしかなかった。
というかよく防御できてるなと自分でもびっくりだった。
人生において『洗濯カゴで殺される』と思ったことはこれが初めてであり、今後二度とないだろうと断言できるが――こうして実際に向けられると、洗濯カゴという物体の凶悪性がありありと理解できてしまう。
まずは箱形という形状。
当然ながらお子様がケガをしたりしないように角は丸められているものの、その独特な形状は殴ってよしハメてよしとやりたい放題だ。
そしてカゴというからには当然、持ち手がある。
プラスチック製の、ネジのようなもので止められた、稼働するタイプの持ち手だ。
これがかなり厄介なのである――振り回される洗濯カゴの軌道を、非常に読みにくいものにしている。
しかも相手はまるで『産まれた時からずっと洗濯カゴを武器に戦い続けてきたんじゃないか』というぐらい扱いに習熟が見られ、その軌道はまさに変幻自在、こと戦いにおいては素人の僕にさばききることは不可能だった。
一方で僕の防御行動は非常にお粗末なものである。
両腕を顔の前で交差して、顔面だけ守る、というものだ。
果たして今の僕の体で部位によるダメージの差異があるかというのははなはだ疑問ではあったけれど、なんの心得もない人間が防御行動をとろうとすると、自然と顔面を守ってしまうものなのだ。
頭を守る行動が功を奏しているかどうかはいまいち判別がつかないものの、僕は現在、どうにか女勇者の攻撃を受け続けても意識をたもっていられていた。
しかし、いつか限界が来るだろう。
その前に、誤解を解かなければいけない。
「待って! 待ってください! あなたは勘違いをしている! 僕は魔王じゃありません!」
ピタリ。
意外にも素直に、女勇者さんは攻撃をやめた。
それから、首をかしげる。
「……そうなの?」
「そうなんですよ。ちょっと事情がありまして……えっと、詳しい事情の説明は……」
チラリと視線を横へ向けた。
そちらの方向には飼い犬と融合事故を起こした本物の魔王ワーズワースがいる。
……そういえば、飼い犬の精神に強く影響を受けているわりに、攻撃されている僕を放置していたような。
そう悩みつつワーズワースさんを見れば、彼女はおろおろしていた。
「……あの、ワーズワースさん」
「えっ、あっ、うっ……お、終わったのか?」
「終わったというか……どうしました? 傍目に明らかなぐらいうろたえて」
「いや、ママとご主人様がケンカをしているから、どうしたらいいかわからず……」
「ああ……」
女勇者さんの肉体は、母のものだ。
つまり僕と母さん、どちらに味方するべきか困っていたのか……
家族のケンカは犬の思考のキャパシティをこえるらしい。
「それよりワーズワースさん、この人に説明をしてあげてくださいよ。このままじゃ僕の前に我が家の洗濯カゴが壊れる」
「うむ……我が説明したらもうケンカしないか?」
「それは相手次第ですけど……」
「ケンカされると困る。体がまったく動かなくなるのだ。仲良くしてくれ」
「魔王の発言に思えませんね……」
「……うむ。我、もう戻れないのかなあ……」
きゅーん、と寂しげに魔王が鳴いた。
もとのワーズワースさんがどのような存在であったか僕にはわからないが、彼女の今の感じを見る限りだと、少なくとも『魔王』というワードから想定される人格にはもう戻れないような気がした。
しかし素直に感想を漏らすと、彼女を泣かせてしまうことを僕はすでに学習している。
なので、話題を変えることにした。
「そんなどうでもいいことは置いておいて、女勇者さんに説明をお願いします」
「どうでもよくない……我にとっては大事なことなのだ……」
「早く」
「う、うむ……」
納得いかない表情だった。
それでもワーズワースさんは、女勇者さんへ向き直る。
「貴様はアイリン・アークライトだな?」
その言葉に、女勇者――アイリンさんは目を細める。
カゴを持った右手が不気味にゆらめく。
「……獣人族、じゃなさそうね」
「うむ。色々あってこんな姿だが、貴様の言う『魔王』は、我の方だ。今しがた貴様が攻撃を加えていたのは、我のごしゅじ……姿と力だけを吸収したこの世界の者だな」
「……あんた、女の子だったの?」
「貴様、我と何度も戦ったであろうが。骨盤のかたちで男女ぐらいわからんのか」
「あんたと戦う時に骨盤に注目してる余裕なんかないんだけど……」
「とにかく、我には力がないし、我の力を持つごしゅ……あやつには戦う気がない。それに、今は緊急事態だ。どうだ勇者アイリン・アークライトよ。我と力を合わせて、もとの世界に戻る方法を探さぬか?」
ワーズワースさんが呼びかける。
アイリンさんは、顎に手をあてて悩むそぶりを見せた。
「もとの世界に戻るのは、あんまり賛成しないわ」
それは意外な発言だった。
少なくとも、ワーズワースさんにとっては、おどろくに足る意見だったらしい。
「なぜだ!? 自分の肉体を失い、精神さえ消えかけている、こんな状況で、貴様はなぜ元の世界に帰りたがらぬ?」
「なぜって、だって、私、息子に娘に夫を置いてもとの世界には帰れないわよ。洗濯とか掃除とか、私がいないと……」
「それは貴様の記憶ではない! 目を覚ませアイリン・アークライト!」
どうやら彼女たちの精神が消えるのは時間の問題らしい。
はたで聞いてると笑い話にも思えるが、当人たちにとって深刻な問題であることは容易に想像できた。
アイリンさんはハッとする。
それから、顔を青ざめさせて親指の爪を噛んだ。
「……そうだったわ……すっかり主婦のつもりでいたけど、そういえば私、まだ結婚どころか恋人もいなかったわね……」
「……そうだったのか勇者よ」
「……あ、いえ、その、ほら、あんたらが攻めるからそんな暇なかったのよ!? 仲間内でもちょっと浮いてたとかそういうことじゃないからね!?」
「そんなことは言っておらんが……貴様、浮いていたのか」
「浮いてないわよ! むしろ、パーティー内で『誰かと誰かが付き合いましたー! いえーい!』みたいな話をされるたび沈んでたぐらいだし!」
「もういい。もう話さん方がいい」
「……くっ! 狡猾な魔王め……! よくも私の個人情報を引き出してくれたわね……!」
どう聞いても自爆だったけれど、ワーズワースさんは突っこまなかった。
優しく笑う魔王ワーズワースからは、聖母のごとき慈愛すら感じた。
後光が差しているかのようだ。
「というわけで、どうだ、アイリン・アークライト。ここは一時休戦し、元の世界に戻る方法を探さぬか? それに、おそらく貴様は、我や我の力を宿せし者を殺せんはずだ」
「そうなの?」
「我の肉体はこの家の飼い犬だし、そこの男は貴様の肉体の息子だからな」
「……なるほど。さっきから気になってたのよ。そこのガイコツに攻撃する時に、やけにためらいが出るっていうか、戦ってて、ぜんぜん気持ちが乗ってこないの。たしかに、私の精神は間違いなく体の主の影響を受けているわ」
「では?」
「休戦しましょう。戦いどころじゃないもの」
「よし。では、握手でもするか」
「そうね」
アイリンさんは苦笑すると右手を差し出した。
上に向いた手のひら。
ワーズワースさんは、その手のひらの上に、自分の右手をのせた。
横で見ているとどうしたって『お手』なのだが、彼女たちはそれを握手と思いこんでいるらしい。きっと彼女たちの精神には別な光景が見えているのだと思うと、悲しくて怖い。
さっさと元の世界に戻してあげた方がよさそうだ。
まあ、その『元の世界』がまだ存続している可能性は、限りなく低そうに思えるけれど……
「ところでママ……ではなくアイリン・アークライトよ、率直に聞くが、元の世界に戻る方法に心当たりはないか?」
「ないでもないわ」
「どっちなのだ。貴様、相手が犬ということをきちんと加味し、複雑な言い回しは避けろ」
「あら、ごめんなさい。そうね、心当たりは、あるわ。ただ神話的というか、巷説的というか、根拠や実在性が曖昧であんまりあてにならないのだけれど……」
「きゅーん……」
「ちょっと魔王ワーズワース、知能の下がり方がヤバいわよ」
「むっ、いや、すまぬ。気を抜いていた。というかこの体の持ち主が表に出てきたがっているのだ。だから手短に頼む」
「手短にねえ。ちょっと整理するから待ちなさい。この肉体、明日の特売品とか、今夜のドラマとか、イケメン俳優とか、邪念が多いのよ」
母さんの頭の中身が勝手に吐露されていく。
息子としては申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
アイリンさんはしばし悩む。
それから。
「『転生者』」
そんな言葉を述べた。
当然、この場の誰もわからない単語だったので、みんなして首をかしげる。
すると彼女は補足をしてくれた。
「我ら『勇者』とか『終わりを始める者ども』とか呼ばれる中には、異世界から前世の記憶を引き継いで生まれてくる人がいるらしいわ。私は実際に会ったことがないけれど……」
「……その噂なら小耳にはさんだことがあるな。オークロードが魔王の時代に、大陸南端にそういったふれこみの者が現れたと。強かったらしいが『これからはスローライフだよね』とかわけのわからんことを言って戦線から離脱したそうだ」
「で、その『転生者』は、私たちにとっての異世界から、私たちの世界に来るそうなのだけれど……この橋渡しを行なっている存在がいるみたいなのよ」
「……なるほど、話が見えてきたぞ」
「その『橋渡し』をしている存在を捕まえれば、元の世界に帰してもらえるかもね」
アイリンさんは肩をすくめる。
元の世界に戻る、比較的具体的なアイディアが出てきたというのに、彼女たちの表情は明るくなかった。
それはなぜか。
アイリンさんは、浮かない顔の理由を語る。
「ま、捕まえられたら苦労はしないんだけどね」
「ちなみに、その橋渡し役というのは、どのような存在なのだ?」
「さあ? 人によって様々な話があって、噂で小耳にはさんだ程度じゃ、姿かたちも所在も立場もはっきりしないけれど……」
「けれど?」
「ただ一つ、噂に共通して用いられている呼称があるわね」
「…………」
「『神』」
アイリンさんは大きなため息をつく。
置かれている問題の解決策を話しているとは思えないほど投げやりな調子で、
「神を捕まえることができれば、私たちも元の世界に帰れるかもっていう――そういう、夢も希望もある作戦よ」
夢がありすぎて現実味のない。
雲をつかむような、どころか、雲の上の存在を捕まえることが、唯一考えられる『帰るための方法』であると告げた。